猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

米大統領選―みんながルールより結果を優先すれば暴力が支配する社会になる

2020-11-03 22:43:00 | 民主主義、共産主義、社会主義

11月3日は、アメリカ大統領選の投票日である。

直前のBS TBS『報道1930』でも、キャスターの松原耕二、コメンテーターの堤伸輔、ゲストのパックン、薮中三十二(元外務省事務次官)、中山俊宏(慶応義塾大学)で、大統領選の行方を話していた。みんな、トランプ支持でないので、討論にはならない。

それより、みんなが憂いていたことは、現在の民主主義の基礎、「選挙」というものの信頼性が今回のことで崩れないか、ということである。

選挙結果によらず、トランプが敗北を認めないだろうか、郵便投票を無効とするとか、裁判を起こして大統領選挙人が年内に決まらないようにするとか、という選挙制度の信頼を壊す話が飛び出てきている。それだけでなく、選挙のあとに暴動が起きると思って銃を買う人たちがいたり、ショーウインドウをベニヤ板で囲う商店があったりしている。

考えてみれば、これは異常である。自分たちの大統領を選ぶルールがあり、みんながルールを守るというのでなければ、現在の民主主義が崩れてしまう。ルールより結果を優先するのであれば、民主主義が崩壊する。

選挙の不正は今までもあった。マイノリティが投票しようとすると、嫌がらせをすることがあったという。しかし、建前では自由な選挙を口にしてきた。ところが、不正をしても結果を優先すると、おおやけに口にするようになると、つぎは、選挙を無視して暴力で政府を選ぼうということになる。

日本もこのようなことにならなければと願う。

モーセの五書は祭司の妄想の書である、オットー

2020-11-02 23:22:48 | 聖書物語


いま、ヘブライ語聖書の迷路に入り込んでいる。事の起こりは、加藤隆の『集中講義旧約聖書 「一神教」の根源を見る』(別冊NHK100分de名著)を読んだことである。

そこで、加藤隆は、複雑きわまりない旧約聖書をまとめる代表的なテキストして、『申命記』6章4-5節の

〈イスラエルの民よ、聞け。我らの神、ヤハウェは唯一のヤハウェである。 
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、ヤハウェを愛しなさい。〉

を引用していた。これが、なぜ、旧約聖書を代表するのか、理解に苦しんで、E.オットーの『モーセ 歴史と伝説』(教文館)を読みだし、さらなる迷路に はまったのである。

新約聖書では、田川建三が指摘しているように、旧約聖書の引用の多くは、イエスキリストや洗礼者ヨハネの出現と死が予言されていたとするためのものである。そうでない数少ない引用は、『レビ記』19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」で、マタイ、マルコ、ルカ福音書にもパウロの「ローマ人への手紙」にも出てくる。(「隣人」は翻訳の誤りで、『レビ記』19章18節ではたんに「相手」と書かれている。)

モーセに、自分の神ヤハウェを愛せよと、一方的に言われても困るだけである。これは理由もない強要だ。現代でいうと、信仰の自由の否定である。

オットーは『申命記』などのモーセの五書は祭司の著作だとする。

言われてみれば、あたりまえのことである。『申命記』の著者は、王についている祭司である。王の権威に裏づけられて、イスラエルの民に、ヤハウェを愛せと寝ぼけたことを言っているのだ。

エーリック・フロムは、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエル民がヤハウェやモーセに不平不満を言っていることに着目した。民衆の反抗が『出エジプト記』『民数記』に繰り返し現れるのだ。ジークムント・フロイトは、これより、モーセはイスラエルの民に殺され、ヨルダン川を渡って、約束の地に行けなかったと推測する。

オットーは、そもそも、モーセがイスラエル人のエジプト脱出を指導したとは思っていない。さらに、エジプトの建設現場にいたベドウィンが逃亡したという可能性があるが、エジプトから部族連合体のイスラエルの民が脱出としたという大規模な逃亡劇はありえないと、考える。

オットーは、イスラエル王国が滅亡し、ユダ王国がアッシリア帝国の属国になったときの、ユダヤの民の不平不満をエジプト脱出という架空の物語に書きこんだと言う。

私は、エズラに引き入れられてのバビロン捕囚からの帰還でのユダヤ人の不平不満が書きこまれたのではないか、と思っていた。

『出エジプト記』の19章5-6節に、次のヤハウェの言葉がある。

〈今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。 
あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。〉

「祭司の王国」は、ヘブライ語原文では「祭司がおさめる国」と書かれている。「祭司」の「王国」は言葉の衝突であって、新共同訳の翻訳のレベルの低さを物語っている。

ここの言葉は、ユダ王国がバビロニアに征服され、王が権力を失い、王に代わって祭司が捕囚の民をまとめたからと思う。すなわち、バビロン捕囚期を思いうかべて『出エジプト記』が書かれたのだろう。

『出エジプト記』32章25-29節に次の話がある。

モーセはイスラエル民が勝手なふるまいをしたことに怒り、「ヤハウェにつく者は、わたしのもとに集まれ」と言い、レビ人が全員集まると、「イスラエルの神、主が『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』と言われる」と命じ、およそ三千人のイスラエルの民を殺させた。
そして、モーセは「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちはヤハウェの祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける」といった。

これもすごい話である。フロイトはレビ人をモーセの護衛兵と推測した。もしかしたら、歴史的事実として、祭司たちは、自分たちにしたがわない人たちを、護衛兵に殺させていたのかもしれない。

まとめると、モーセの五書は祭司の妄想で書かれたもので、歴史的事実ではない。
そして、モーセの五書はヘブライ語聖書の一部にすぎない。
妄想によって書かれた『申命記』6章4-5節を加藤隆がヘブライ語聖書の代表とするのは、承諾しがたい。

オットーの『モーセ』を読み、ヘブライ語聖書のAI分析を夢みる

2020-11-01 23:00:45 | 聖書物語


E.オットーの『モーセ 歴史と伝説』(教文館)を1週間前から読んでいるが、いまだに読み終えられない。比較的薄い本であるが、モーセの五書あるいはモーセの五書にまつわる話を13章にわたって書いており、各章の内容が心にひっかかり前に読み進まない。

本書の内容は、ヘブライ語聖書の中のモーセ五書がいかに形成されたか というテーマと、モーセ五書が近代人にいかに受け入れられたか、あるいは拒否されていたか というテーマとからなる。

後者のテーマには、精神分析を創始したフロイトの説、モーセはエジプト人で、ヨルダン川を渡る前にイスラエル人に殺されたとか、歴史学者アスマンの紹介したエジプトの伝承、モーセは逃亡らい病患者集団の指導者とか、トーマス・マンのモーセの受容とかが含まれる。

本書はこのように欲張りすぎている。

「モーセの五書」は、ヘブライ語聖書の『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を指す。これに『ヨシュア記』を加えて、「モーセの六書」と呼ぶ。

第3章では、19―20世紀の学問的研究の結果を、すなわち、モーセの五書の文書批判的な読みの結論を、その方法論の説明もなく、「モーセの五書」は歴史書でないと、簡単に述べる。

〈五書の物語群が示すのは、個々にいわば1つの文学的な山塊があり、そこには膨大で多種多様な主題や法的素材が堆積していて、……このモーセという人物像は、それらの雑多な素材群を1つに束ねる留め金としての文学的機能を果たしているのである。〉

〈ヴェルハウゼンは、モーセの時代のヤハウェを単なる純粋な自然神かつ戦争神と見なし、モアブ人やアンモン人などの周辺民族の神々と何ら違いはなかった、と論じる。〉

オットーに80年以上先だつ旧約学者マルティン・ノートは『モーセ五書伝承史』 (日本基督教団出版局)で、モーセの五書を物語と考え、テーマの連続性に着目し、挿入部分をより分け、雑多な素材群に分割した。ノートはJ、E、G、P、Dにモーセの五書を章節のレベルより細かく分類している。

例えば、『創世記』の2章4節は、「これが天地創造の由来である」と「主なる神が地と天を造られたとき」と分割され、前半までがPの物語で、後半がJの物語である。

じつは、用語法から見ると、前半の「天地」と後半の「地と天」は、「天」「地」の語順が違う。ヘブライ語聖書の原文に当たってもそうである。さらに、後半のJでは、「地」も「天」も冠詞がついているが、ノートはその違いに言及しない。

オットーは、さらに、ノートが物語の連続性に着目してモーセの五書をJ、E、G、P、Dに分割したことに、言及しない。したがって、次章からのオットーの五書形成の分析は、ノートとの成果とどういう関係にあるのかは、わからない。

第4章から第9章までのオットーの分析手法は、モーセの五書の作成・編集に携わった人たちを動機でグループ分けし、モーセの五書の形成過程を推定するというものである。

モーセの五書に直接関与したものを、オットーはツァドク系祭司、アロン系祭司にわける。ツァドク系祭司は、ユダヤ国の王の権威によって、権威付けられていたとし、王国の崩壊によって、バビロンの捕囚期(紀元前586年から前539年)に、アロン系祭司が分かれて出てきた。

オットーはツァドク系祭司の書いた『申命記』の部分にモーセの五書の原型があるとする。『ヨシュア記』はツァドク系祭司の著作である。アロン系祭司は、アロンをモーセの兄とする物語を加えることで、自分たちの系統の正当化を図ったという。『創世記』の1章から『レビ記』の9章までがアロン系の祭司の著作となる。

どうも、Dがツァドク系、それ以外をアロン系に帰しているようである。

オットーによれば、祭司グループの対抗者、預言者グループが別にいて、それにより、ツァドク系祭司とアロン系祭司とが共同戦線を張るようになり、モーセの五書に両者の著作が入り混じるようになった、と考える。ヘブライ語聖書の中で、モーセの六書以外、ほとんどモーセの名が出てこないのは、預言者と祭司の対立があったからとする。また、『出エジプト記』に十戒が唐突に挿入されたのも、両祭司の著作がまとめられたからであるとする。

オットーは、ヘブライ語聖書全体の形成過程について論じていない。ここでは、ユダヤ人対非ユダヤ人の利害の対立が、祭司と預言者の対立する著作を1つにまとめる必要を起こしたはずである。じっさい、イエスの時代にはいっても、ヘブライ語聖書の編集(書き直し)が行われている。

オットーは、ヘブライ語聖書を単純に宗教書とも文学書とも見ることができず、政治的闘いの痕跡あるいは堆積物であると言っているように思える。

オットーは新しい視点をヘブライ語聖書の読みに加えた。非常に新鮮な視点であるが、ステークホルダーはツァドク系祭司、アロン系祭司、預言者だけではないだろう。

ヘブライ語聖書には知恵の書もあろう。さらに、北のイスラエル王国が崩壊してきたとき、ユダ王国に逃げてきた知識人もいる。

さらに、『士師記』『サムエル記』『列王記』『歴代誌』も歴史的事実ではなく、虚構の可能性がある。例えば長谷川修一はサウル、ダビデ、ソロモンの統一イスラエル王国はなかったと言う。

やたらと長いヘブライ語聖書の構造の理解には、著作者たちの動機分析に先立って、用語法分析や事物(安息日、十分の一税など)を徹底的にやり、客観的な指標が必要と思う。そのためには、AIを使ったコンピューター分析が有効だと思う。