猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

エッセネ派にまつわる加藤隆の誤解、神を動かそうとしたか?

2020-11-09 23:22:02 | 宗教


加藤隆は、『歴史の中の「新約聖書」』(ちくま新書)で、神が動くか否かの観点から、聖書を理解しようとしている。その中で、ユダヤ教では、人間が神を動かそうとしており、エッセネ派のように人間側がどんなに努力をしても、神は動かないのだ、といって、つぎのように、キリスト教を位置付けている。

〈神が、救うものを救う。人間側が罪の状態にあるかどうかなどとは、いわば関係なく、神が救いの業を行うことができる、そして実際に神が救いの業を始めている、こうしたことを主張しているもっとも目立った流れが、イエスから始まるキリスト教の流れです。〉

私は、加藤隆がエッセネ派やヘブライ語聖書を誤解しているのではないか、と思う。ここでは、エッセネ派への誤解を解きたいと思う。

加藤は「エッセネ派」を荒野で厳しい修行をする人たちと思っているが、ここでもはや誤解している。エッセネ派について、フラウィウス・ヨセフス(37年から100年頃)が『ユダヤ戦記』の2巻について詳しく記述しているが、エッセネ派は荒野ではなく町にすんでいるのだ。124節の冒頭につぎのように書かれている。

〈Μία δ᾽ οὐκ ἔστιν αὐτῶν πόλις ἀλλ᾽ ἐν ἑκάστῃ μετοικοῦσιν πολλοί.
特定の町(πόλις)にいるのではなく、それぞれ、町々(πολλοί)に移り住む。〉

この誤解は、死海のほとりのクムランの洞窟で大量の文書が発見されたことから、発生したものである。現在、クムランの洞窟とエッセネ派との関連に否定的な意見が多数になっている。また、洞窟は生活の場ではなく、文書の隠し場所であったと考えられている。

旧約聖書にも新約聖書にも、「エッセネ派」についての記述はない。したがって、ヨセフスの『ユダヤ戦記』が「エッセネ派」の最良の資料である。

第2巻122節に〈彼らは富を軽蔑する。彼らの間で驚嘆すべきことは財産の共同制である〉と書かれている。エッセネ派は古代の共産主義者である。

新約聖書の『使徒行伝』にあるペトロの共同体との違いは、エッセネ派は仕事をもっていて町の中で稼いでいたのである。持続可能な共同生活を町の中で送っていたのである。

120節に〈彼らは快楽を悪としてしりぞけ、節制を重んじ、激情におぼれて徳をすてるようなことをしない〉とある。荒修行をするのではなく、不要な享楽に走らないということである。126節に〈服もサンダルもすり切れるまで使う〉とある。私も、節制を重んじたおだやかな生活が好きである。

私の母の一番上の姉は、日蓮宗のお寺に嫁に行った。旦那の住職は人前で荒修行をするのが好きで、寒い冬に頭から水浴びをしていた。私が中学生の時、お寺が火事で一家全員が焼け死んだ。私の母は、旦那が荒修行をするから頭がおかしくなって、お寺に自分で火をつけたのだ、と私に言っていた。本当かどうかはわからないが、不審火であったことは確かである。

節制は荒修行とは違う。

123節にエッセネ派は〈白い衣を身につけることを好む〉とあるから、新約聖書の福音書に描かれている〈らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた〉洗礼者ヨハネとは、全く異なる。

エッセネ派は霊魂の不滅を信じており、〈いったん肉体の束縛から解放されるや、喜んで天上に引き上げられる。……有徳な人の魂は、大洋のかなたに保護されている……邪悪な霊魂は陰惨な冷たい洞穴に閉じ込められ、永遠の刑罰がある〉(155節)と考えた。

エッセネ派は神を動かそうとしていたのではなく、死後の世界についての信仰から、生を節制していたのである。

ユダヤ教も初期キリスト教も神は生きている者の神である。霊魂の不滅とかいう考えはない。したがって、初期キリスト教では、死んだ者が神の恩恵を受けるには、生き返らなければいけない。

エッセネ派の霊魂の不滅、天国と地獄という信仰は、ヨーロッパに土着化して変質した現在のキリスト教の教義と似ている。

エッセネ派の安息日(サバト)の厳守は、ヘブライ語聖書の『申命記』の影響であろう。しかし、霊魂の不滅などの信仰はヘブライ語聖書と異質であり、ペルシア起源の宗教の影響ではないか、と思う。

私自身は、節制が好きだが、霊魂の不滅を信じていない。天国と地獄も信じていない。荒修行もしない。私は科学の徒である。

松本清張の発掘―貞明皇太后が昭和天皇より秩父宮を愛していた

2020-11-08 21:42:38 | 天皇制を考える
 
きのうの真夜中に、BS NHKの『100分de名著』で、松本清張の特集を再放送していた。以前に見たような気がするが、新発見もあり、最後まで見てしまった。
 
社会派推理小説家として松本清張の名前だけを知っていたが、私が本当に読んだのは、河出文庫の『幕末の動乱』(現代人の日本史第17巻)だけである。
 
番組案内役は、日本近代思想史研究家の原武史である。松本清張の小説は、底辺からつぶさに見た昭和社会の断面が描かれていると彼は言う。また、女は強い意思と激しい感情をもった怖い者と描いている、と言う。彼は『点和史発掘』『神々の乱心』である。
 
『昭和史発掘』は清張のノンフィクション(歴史書)である。原は、清張が「2.26事件」を普通の歴史家と異なった視点でとらえていると言う。貞明皇太后が、長男の昭和天皇より、次男の秩父宮を愛していた、と清張は書く。近代の歴史家は、宮中内の愛憎劇をとりあげない。いっぽう、清張はそれをタブー視しなかったのだ。
 
秩父宮が「2.26事件」の黒幕であるという説は以前からあるが、それを清張がとりあげたわけではない。そうではなく、「2.26事件」で、昭和天皇が青年将校の決起を烈火のごとく怒り、抑え込んだのは、自分が権力を失うかもしれないという不安である、と清張が示唆したのである。自分の母は自分でなく弟を愛している。弟は、事件の翌日、急遽、宮中に現われる。何事だ。
 
歴史の大勢は、個人を越えた法則があるかもしれない。しかし、その時その時は人間の感情による偶発的な出来事で進む。まさに、人間を観察する小説家の目である。
 
それなのに『昭和史発掘』は素人の書と歴史家にバカにされただけ、と原はいう。
 
『神々の乱心』はフィクションである。しかし、ここでも、清張は、貞明皇太后が、長男の昭和天皇より、次男の秩父宮を愛していたという事実を素材として使う。また、宮中の女官が新宗教にはまったという事実も素材として使う。さらに、「三種の神器」を、天皇を含め、見た者がいないという事実を素材として使う。
 
去年の天皇の代替わりの儀式に「三種の神器」の引き継ぎがあったが、新聞記事に、そのとき渡されたのは模造品で、ホンモノは伊勢神宮と熱田神宮にあると書かれていた。このことはメディアであまり言及されなかったが、清張は、そもそもホンモノがないという視点で小説を書いている。そうなのかもしれないと私も思う。
 
『神々の乱心』は、関東軍の情報将校だった秋元伍一が、満州で江森静子という霊媒師に出会い、新宗教を起こして、日本の宮中に入り込み、日本を陰で操ろうという物語である。秋元が三種の神器の模造品を古物商から購入するところで、清張は倒れ、1992年に死んでしまい、この小説は未完で終わる。
 
『神々の乱心』では、江守静子の予言を聞こうと、宮中の女官だけでなく、陸軍、海軍の将校が集まってくるが、ここなんかは、1989年から1990年にかけて、女将の株価予測を聞きに、経営者たちが夜な夜な大阪の料亭に集まっていた、という「尾上縫」事件をパロディーにしていると私は思う。実際、パナソニック(松下電器)の社長は、この女将の予言を信じて大損をして、社運を傾けてしまったという話しだ。
 
なお、『神々の乱心』の小説としての評判は、ネットの「読書メーター」によると、松本清張のうんちくが書かれすぎて、物語の進展の面白さが損なわれているという。小説を読まないで、自分の『神々の乱心』を頭に思い浮かべて楽しむほうがよいかもしれない。
 
小説だから、例えば、皇太后が、自分の夫、大正天皇が軍部に殺されたという恨みで、軍部と昭和天皇を米国との戦争に追い込み、敗戦で秩父宮が皇位を継承するというシナリオもありうるだろう。
 
[蛇足]
もしかしたら、きょうの秋篠宮が皇位継承権第1位になる立皇嗣の礼の儀式をNHKが意識して、松本清張特集を再放送したのかもしれない。「神々の乱心」は天皇制がある限り起こりうる事件である。

米大統領選後の偶発的な暴力だけは防がなければならない

2020-11-07 22:43:42 | 国際政治
 
慶応大学の中山俊宏教授が、きのう(11月6日)、ツィターでつぎの指摘をしていた。
 
「今は皆が 誰が勝ったかということに気を取られているが、一番重要なことは、トランプが08年のオバマを上回るであろう数の得票をしたこと、即ちアメリカはトランプ主義を斥けることはしなかったということ。いまトランプはこの勢いを感じているはずだ。」
 
私は、ドナルド・トランプの側近は、選挙制度のルールを尊重し、投票結果が確定したとき、トランプのもとから去るであろう、と考える。訴訟を連発して、アメリカの政治に空白を生むようなことは、彼らも避けたいと思うからである。それに訴訟はお金がかかる。
 
しかし、中山が指摘するように、多数の支持者がトランプ側にいるのだ。その中に、ルールより、結果だけを重んじ、暴力に走る者が現れるだろう。最悪のシナリオは、ジョー・バイデンが乱暴者に撃ち殺されることである。バイデンはまだ正式に大統領に就任していないのだから、法が予期していない事態が生じる。とてつもない混乱である。これだけは、防がないといけない。
 
この偶発的な事故さえ防げることができれば、あとの混乱は、時間が多少かかっても、沈静化すると思う。人間は冷静になれば、暴力を嫌い、ルールに従う。民主主義がふたたびアメリカで機能すると信じている。
 
[追伸]
朝起きたら、開票が終わり、ジョー・バイデンの当選が確定したと、喜びで大騒ぎしているとの映像が舞い込んできた。このまま、偶発的事故が起こらず、来年の大統領就任式にいたることを願う。

甘いものが好きだけで菅義偉とバイデンのウマがあうなんて絶対にない

2020-11-06 23:11:48 | 叩き上げの菅義偉

きょう(11月6日)のTBS『ひるおび!』で、大統領選の開票が終わっていないにもかかわらず、大胆にも、ジョー・バイデンが当選したとしたら、日米関係がどうなるかを、パックン(パトリック・ハーラン)、田崎史郎、海野素央が話し合った。

番組プロデューサーが用意したシナリオは、バイデンと菅義偉との共通点があるよね、うまくいくだろうね、ということだった。

共通点のその1、バイデンはアイスクリームが好き、菅はパンケーキが好きで、両者ともお酒を飲まず、甘いものが好きである。
その2、バイデンの父は自動車ディーラーで、菅の父はイチゴ農家で、両方とも父親は政治家ではない。
その3、両方とも辛坊つよく努力家である。

パックンはこの番組のシナリオのレベルの低さに驚き、「日本人は個人的関係を重視しすぎる」「個人的関係で国家間の交渉の結果が決まることはない」と批判した。私も番組プロデューサーは人をバカにしすぎているのではないか、と思う。パックンは、アメリカの民主主義の前途を心配して、番組に参加しているのに、バイデンと菅が甘いモノ好きで、話しが弾むというのは、冗談が過ぎている。

私は現役のときアメリカ人とつきあっていたが、交渉はあくまで利害の調整で、趣味が合うとか、そう言う問題ではない。取引は、互いの力関係を考慮にいれて、フェアな妥協点を見いだして、成立する。いっぽう、個人的人間関係は、互いの哲学が近いか、片方が片方の哲学に敬意をもつことで、成立する。

安倍晋三がドナルド・トランプと親密な関係をもてたのは、安倍がトランプと同じ帝王学の哲学をもっていること、そして、安倍がトランプの尻の穴をなめるほどの卑下した態度をとれることから来ている。ここで、帝王学とは、人をうまく騙せること、冷酷になりきれること、権力にあくなき執着をもてることを、素晴らしいとする哲学である。

ゴルフをしたからといって、人間同士が親密になることはない。

それに、安倍だって、トランプに押しまくられて、アメリカの防衛産業から高い買い物をしているし、日本の米軍基地への維持費を4倍にするよう迫られている。

問題は、菅がどんな哲学をもっているかである。「自助」や「叩き上げ」や「説明拒否」や「恫喝」の菅の哲学では、バイデンと合うはずがない。

バイデンはアイリッシュである。カトリックである。「共同体」意識が強いのである。社会とは助け合うもので、政治家はみんなの公僕であると信じている。どもりということで、子ども時代、いじめにあっている。そして、いま、コロナで亡くなった人たちを思い、胸を痛めることができるのだ。

菅が英語をうまく話せるか否かではなく、人柄がバイデンと違いすぎる。菅は、外交ルートを使って、プロの交渉人に任せた方が良い。話せば話すほど、信頼を失う。

なお、菅がバイデンとあったときは、ミスタープレジデントバイデンと呼んだ方が無難である。日本人は姓で他人を呼ぶが、そのときは、英語では、ミスターをつけなければならない。通常は、上下関係があっても、名前のジョーと呼ばれた方が喜ぶ。バイデンもそうだと思うが、丁寧に、「ジョーと呼んでも良いですか」と許可を取った方が良い。

菅とバイデンは、ウマが合うことは絶対にない。親密な人間関係は不可能である。

日本学術会議が既得権団体などとデタラメを言わず、菅義偉は謝るべきだ

2020-11-04 23:06:26 | 日本学術会議任命拒否事件


菅義偉の国会答弁を聞いていると、たんなる口下手なのではなく、深く考えることもせず、自分のその時その時の思いだけで、行動しているからだと思える。

理屈をいう人も、結局、自分の情動に基づいて行動していると思うので、考えずに行動することを私は一方的に非難したくない。個性だと考える。

しかし、考えずに行動すると言っても、ルールに従わなければ、乱暴者に過ぎない。特に、国民の信頼に基づき、一定の権力をもっている、首相はルールに基づかず、行動を起こせば、乱暴者を越えて独裁者になる。菅がみんなに批判されても仕方がない。

元総務大臣の片山善博は、菅が自分に任命権があることを示したかっただけで、6名の日本学術会議会員候補の任命を拒否したのだろうとテレビで言っていた。私もそんな気がする。だから、国会で任命拒否の理由を問われると「個別人事の件は答えられない」というしかないのだろう。

任命拒否を受けた6名は、その理由を聞きたいと言っているのだから、「個人情報だから」は回答拒否の正当化にはならない。

誰が、菅に任命拒否をそそのかしたのだろうか。菅が素直に謝れば一件落着なのに、いろいろと言い返そうとする。きょう国会で、6名を除いた任命リストを菅に見せたのは、副官房長官の杉田和博だと答えたらしい。その前は、拒否した6名のうち、知っているのは加藤陽子だけだと言っている。ずいぶん、いい加減な話だ。

加藤陽子は日米開戦の経過を研究して本を出した研究者である。それ以前は、日本の真珠湾奇襲攻撃をアメリカ側が事前に知っていてわざと攻撃させたという陰謀説が日本にあった。彼女は、調査研究の結果、この陰謀説を否定したのである。これが、菅に気に入らなかったのだろうか。そのために、任命を拒否したのなら、これは完全に学問の自由の否定となる。加藤陽子のことを知っていると言った菅の真意はなんだろう。

菅は、また、日本学術会議は「既得権」組織だと言っている。会員のことを公務員だといっている。会員は、提言書を作成する会議に出席したときの日当と交通費をもらうだけで、本当の公務員のように、給料や年金をもらえるわけではない。日本国憲法では、国会議員も大臣も公務員である。国会議員は、年に2千万円以上もらう。総理大臣は約3千万円もらう。いっぽう、日本学術会議の会員は、日当と交通費を合わせても、年間30万円ほどにしかならない。

既得権者は国会議員や大臣ではないか。

また、日本学術会議に10億円かかっていると言うが、総額だけ強調するのではなく、その内訳を公開したほうがよいのではないか。

11月2日の国会答弁に出てきた日本学術会議事務局長はあまりにも無能なように見える。事務局の職員は約100名である。こちらは本当の公務員で給料をもらっている。事務局長の答弁を聞いて、政府は、事務局を役人の墓場として利用しているのではないか、と私は思った。日本学術会議の活動を国民に見えるようにするのは、常勤の職員の仕事ではないか。非常勤の会員を活動が見えないと菅や自民党議員が責めるのは お門違いだと思う。

最後に日本学術会議は、「学術」の会議であって、「科学技術」の会議ではない。「人文・社会科学」の会員を3分の1 確保するということを日本は世界に誇ってよいと思う。今回の任命拒否された6名がすべて「人文・社会科学」だということも、人間社会の機構や歴史を研究する人たちを菅は軽んじているのではないか、と思わせる。

菅は6名を会員にして、自分の情動で国民をふり回したことを反省した方がよい。