猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

イーストウッドがベトナム難民のために死ぬ映画『グラン・トリノ』

2021-09-23 23:00:21 | 映画のなかの思想

2008年公開の映画『グラン・トリノ』はアメリカ人の思う良きアメリカ人の物語である。テレビで家族で見ていたが、差別用語が耐えられないと妻が最初に席をたち、つぎに息子があまりにもステレオタイプだと席をたった。最後まで見ていたのは私だけである。

私はアメリカ映画らしい、a humorous, touching, and intriguing old-school parable な物語だと思う。映画の良きアメリカ人は、最後には、他人のために死ぬのである。じっさい、興行的には成功している。良きアメリカ人がいるとアメリカ人は思いたいのだ。それは、悪いことではない。そうやって心のなかの良心が成長していくのだと私は思う。

1930年生まれのクリントン・イーストウッドが監督・主役の映画である。イーストウッドが演じる老人コワルスキーは、朝鮮戦争からの復員兵(Korean War veteran)で、フォード工場の元工員である。戦争で無抵抗の朝鮮人を殺したことに罪の意識をもっている。

彼が 普段 乗っているのは、貧乏人の象徴、中古のピックアップ・トラックである。しかし、30年以上前のフォードの伝説の名車グラン・トリノを所有していて、毎日磨いているという設定である。彼は、遠くに住んでいる息子がトヨタ車にのっていると腹を立てている。2008年の映画だからは、定所得のある白人が乗っているのはレクサスだろう。映画でチンピラが乗っているのはホンダだった。

彼の住んでいる町は、典型的な貧乏人の粗末な木の家がならんでいる。昔はデトロイトで働く工員が住んでいたが、いまでは、アジア系が住んでいるという設定だ。

彼はポーランド系、友人の床屋はイタリア系、友人の土木監督はアイルランド系のアメリカ人である。みんなマイノリティのカトリック教徒である。そして教会に顔をだしなさいとお節介な神父(father)は、もちろんカトリックである。

本当のイーストウッドはポーランド系ではなく、祖先はメイフラワー号でやってきたというから、無神論者でなければ、プロテスタントであろう。

彼の映画の役コワルスキーは、デトロイトのなかのスラム化した町に、妻に死なれて一人暮らしをするマイノリティの白人である。彼はアジア系を「イエロー」「コメ喰い虫」と忌み嫌っている。

そして、隣人は、ベトナム戦争でアメリカ側についたため難民となったモン族(Hmong)である。彼は隣人の少年の親代わりになって、良きアメリカ人に導こうとする。が、少年の姉がひどい暴力をモン族のチンピラからうける。復讐に燃える少年に犯罪を犯させないため、みんなが見ている前で、モン族のチンピラに撃ち殺される。そうすることで、チンピラが刑務所に収監され、モン族の隣人の安全が守られるという物語である。

良きアメリカ人コワルスキーが、アジア系の隣人のために、コメ喰い虫のイエローのために、死ぬのである。当然、彼は、死を選ぶことに悩むはずである。が、脚本の出来が悪く、彼の悩みが見る人に伝わらない。

この映画は、アメリカのいろいろな現実を中に詰め込んだため、ステレオタイプにならざるを得ない。しかし、悩む弱き人が勇気を出して良き人になるのでなければ、本当のtouchingな映画でない。この点で、失敗作である。

ーマルコ福音書15章34節ー

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。(聖書協会共同訳)


ファシズムとは何か、ムッソリーニとは何者か

2021-09-21 01:19:22 | 思想

私はイタリアのファシズムやベニート・ムッソリーニについてほとんど知らない。

日本では、アドルフ・ヒトラーに関する本は多いが、ムッソリーニについての本は見たことがない。年を取ってから、手を挙げてのナチス式敬礼はイタリアのファシストの挨拶の真似であることを知った。アドルフ・ヒトラーはイタリアのファシズムにあこがれて真似したものが多いという。

けさ、たまたま、日本語版ウィキペディアに、ファシズムの親方(ドゥーチェ)、ムッソリーニについてのとても詳しい記述が載っているのに気づいた。あまりにも詳しいので、私の頭はそれを処理できていない。

以前の私は、ムッソリーニについてつぎのように書いた。

《イタリアのファシズムは、田舎の教育家ムッソリーニが、町のよたものたちの再教育のために、古代ローマ帝国に模範を求め、軍事組織化したことに端を発する。》

これは、まったくの誤りであった。

日本語版ウィキペディアによれば、ムッソリーニは、はじめから、過激な愛国的活動家だった。彼は、1898年、15歳で師範学校にはいるが、孤独を好み、非常な読書家であったという。いっぽう、政治集会では雄弁であったという。1901年1月、師範学校代表で市民集会で行った演説は喝采を浴びたと社会党機関紙に掲載されたという。その政治的早熟さに、現在の日本からは、信じられない。

1901年、18歳で、彼は師範学校を卒業し教員免許をとるが、その過激な政治活動からなかなか赴任先が決まらず、社会党の町長が選出されている田舎町に赴任することになった。「町での教師としての評判は上々で、社会党の集会でも演説役を任された」が、このまま田舎町で過ごす事に嫌気が差してか、翌年、「教師を退職してスイスに移住した」という。彼は、スイスで、レーニンとも知り合い、才能を高く評価されたという。いろいろな思想に通じていたという。

1905年にムッソリーニは兵役に就き、翌年、退役すると また教職に就く。ボローニャ大学で試験を受け、中等教育の教員免許をとり、その翌年には、ジェノヴァ近郊の寄宿学校に務め、フランス語、国語、歴史学、地理学を教えた。その年、農民反乱に参加し、警察に3度つかまっている。その翌年には、イタリア北部のなかにあるオーストリア領トレントに社会党から派遣され、政治活動をしている。

彼が、あまりにも簡単に教職を離れるのを見ていると、政治活動が好きなのだと思う。普通の対人関係ができず、政治集会の演説を通じてしか、人とつながれなかったと思える。

この後、ムッソリーニは社会党内で大物になっていくが、1914年の第1次世界大戦勃発のとき、参戦を主張し、社会党を除名となる。イタリアの社会党は国際主義と反戦主義を主張していたのに、ムッソリーニはイタリアの参戦を唱えたからだ。彼は、戦後のイタリアの混乱を望んでいたのか、それとも、愛国主義であったのかよくわからない。ハプスブルク家のオーストリア帝国が ただただ憎しということ以外に、イタリアがオーストリアと戦う理由が見つからない。参戦する必要がなかった。

じっさい、第1次世界戦後、イタリアが戦勝国であったにもかかわらず、復員兵がそのまま私兵のようになり、暴力と混乱がイタリアで横行する。イタリアのファシズムは、その中で生まれたように私には見える。復員兵がファシストの中核になった。イタリア王国が共和国になるのは、第2次世界大戦が終了した翌年になってである。

日本語版ウィキペディアはムッソリーニに好意的な立場から書かれている。記述はこの後も長々と続き、読み続けるのに とても疲れた。彼が勉強家であり、雄弁であり、闘いが好きで、戦略家であることは わかったが、何がしたかったのかが、読んでも よく わからない。強いイタリアが実現できたとしても、それが、ひとにとって、何の意味があるのだろうか、と思う。読書家にもかかわらず、闘いの虚しさを感じなかったようだ。


自民党総裁選候補の討論会を論評する

2021-09-19 22:55:23 | 政治時評

自民党総裁選候補による討論会を、あちこちのメディアや日本記者クラブが開いている。中身をみると自民党のレベルの低さにあきれる。

河野太郎は賃金の低い雇用者のために副業を認めるよう、企業に働きかけるという。朝から晩まで働かなければ、国民が文化的生活を送られないというのはおかしい。一時的に徹夜徹夜で働いたこともあるが、これが続けば、体や心は てきめんに壊れる。株主や経営者の取り分が多すぎるのが問題である。

《 日本国憲法 第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 ○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。》

岸田文雄の「核燃料サイクルを止めると外交問題になる」は問題発言である。他候補や記者が誤りを指摘すべきである。現在、他国から批判されているのは、核兵器の原料となるプルトニウムを日本が保有していることである。

プルトニウムの保有が国際的に問題となる前に、日本は使用済み核燃料の再処理をイギリスなど海外に依頼し、そのプルトニウムが日本にいま保管されている。これが問題であって、青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理を早く稼働させろ、と要求されているわけではない。逆に、再処理工場が軌道にのれば、核兵器の原料となるプルトニウムがもっと溜まることになる。

一時、プルトニウム燃料による発電が可能かもしれないと思われた時代があって、そのとき、日本がプルトニウムを保有することが特別に認められた。全世界的に、プルトニウム燃料による発電が技術的に困難であることがわかり、実用炉が諦められた現在、日本のプルトニウム保有が核兵器の不拡散に関する条約(NPT)に抵触すると国際的に見られるようになった。

現在は、使用済み核燃料からプルトニウムを分離しないまま、廃棄するのが原則である。純度を上げなければ、半減期が極度に長いプルトニウムは放出する放射線量も低く、暴発の可能性もなく、安全である。(重金属だから化学物質としては人体に有害である。)わざわざ、再処理して、危険なプルトニウムを取り出すことはない。

また、使用済み核燃料の問題は、ウランを燃やすことでできる半減期が数十年から数百年の放射性物質の処分である。これらは積極的に放射線をだし、危険であるので隔離しなければならない。現在、この処分は決まっておらず、一部は六ケ所村に、一部は各地の原発敷地内にたまっている。この問題は、再処理工場の稼働では解決できない。

原理的に、原発行政は行き詰っており、ドイツ政府が選択したように、脱原発しかない。岸田文雄の現状認識はまちがっている。

岸田文雄は、菅政権が「楽観的見通し」を説明しないことが問題という。こんな人が日本の首相になったら、道を誤って、みんな困るだけである。岸田は頭のなかが空っぽである。

討論会では台湾問題も言及された。

台湾問題は確かに難しい問題であるが、日本が中国と軍事的に戦う問題でもない。中国は台湾に軍事的攻撃をかける可能性はゼロでないが、現在、中国政府がとっているのは経済的に台湾を孤立させようという政策である。台湾と日本との経済的依存関係を強めるとか、WHOなどの国際機関から台湾が閉め出されているが、台湾の復帰を支援するとか、やるべきことがいっぱいある。

高市早苗の「抑止力の保有」にくみできない。河野太郎の「したたかな外交を繰り広げる」のほうがずっとましである。

総裁選候補の討論会をみるかぎり、菅義偉総裁がこの4人の誰かに代わっても、ますます、みんなの生活が貧しくなるとしか思えない。

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変わらぬ極右自民党をぶっ潰すため、野党にぜひとも頑張って欲しい

2021-09-18 23:26:58 | 安倍晋三批判

9月30日開票の自民党総裁選には、河野太郎、岸田文雄、高市早苗、野田聖子の4人がでている。9月14日の朝日新聞を読んで、自民党は少し変わるかもしれないと希望をもったが、いまは、安倍極右の巻き返しに、それも消えつつある。

安倍の高市支援で、岸田は森友事件公文書書きかえの再調査を撤回している。そして、安倍がこれまで統制できなかった一般党員票の切り崩しのために、野田を出馬させた。原発稼働、使用済核燃料再処理が、正統な自民党である踏み絵になっている。

自民党総裁選では、1回目で過半数が取れないと、上位2名による一般党員が投票できない決選投票が行われる。これまで、一般党員が投票権を持つ1回目の投票で、もしかしたら、河野が過半数をとる可能性があった。野田の出馬で、この可能性がなくなったというという評がメディで流れている。

17日の4名による討論会では、岸田、高市、野田の3人は、河野太郎つぶしに必死になっていた。見苦しい限りである。

高市の「国民の生命と財産を守るため」「美しい日本の領土と領海と資源」を守るため海外出兵・敵基地先制攻撃はごめんこうむる。

変わらない極右自民党を潰すために、立憲民主党や共産党に、これからある衆院選挙でぜひとも頑張ってもらいたい。

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ゆたかな社会に競争はいらない、時間はゆったりと流れるものだ

2021-09-17 22:49:57 | 社会時評

競争というものが本当に必要なのか、疑わしいと私は思っている。

現在、学校教育で子どもたちに成績で競わしている。しかし、学ぶべき事柄が本当に適切に設定されているのか、また、教育の場に多様性が不要なのか、多様性が求められるのでは学力を同じ物差しで測るのは間違いではないか、

同じように、市場でも企業の競争というのが、必要なのか、疑わしいと思う。

10年ほど前、40年ぶりに県人寮の友達と顔を合わせた。

話しを聞くと、カルテル談合の罪で刑務所に収監されていたそうである。本人の弁では自分は無実で最高裁まで争いたかったが、会社が争い続けることに反対し、刑に服したとのことである。そのご褒美に、いまは、子会社の社長を務めているとのことである。

私が勉強になったのは、その子会社の仕事である。バケツやちり取りのようなプラスチック製品を売っているとのことである。どこでも作っている製品を売るために、社長の自分が、毎日、商店を回って、頭を下げて仕入れをお願いしている、と言う。

本社は大手の化学会社だが、毎年、天下りの社員を自分のところに送ってくるが、何も働かず、自分の御用聞きまわりで、何の特徴のない子会社が維持され、天下りに給料を払っていると、不満たらたらであった。

面白いと思ったのは、何もセールスポイントのない会社が、社会に必要とされ存続できていることである。プラスチックのバケツやちり取りは依然として需要があるのである。

私たちが日常に必要としているのは、昔と変わらないものがほとんどである。日本の家電メーカは一時、洗濯機や掃除機や冷蔵庫や電器釜などの白物家電を、最先端の家電分野でないと判断し、その製造をアジアの国々に渡したが、その市場は依然として大きい。日本の家電メーカーは先を見誤ったのである。

働くということは地味な仕事である。メディアでいうような特別の才能が必要なわけでない。ちょっとした工夫でも消費者に喜ばれる。

大半の市場は昔からあるもので、強迫症になるほどの競争を必要としていない。昔ながらのゆったりした時間のなかで、消費者に喜ばれるような改良を加えていけば十分なのである。

ゆたかな社会とは、儲けなくても ありつづけれる社会である。ゆたかな社会で大きく儲ける者は、どこかおかしい、詐欺師か犯罪者か、悪人か心をやんでいるか、である。

競争は豊かな社会に不要である。あるべきでない。