猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

競争が根拠ない信条なら私的所有権も根拠がないのではないか

2021-09-16 22:09:44 | 思想

安倍晋三は、日本人の命と財産とを守るために、外国にも兵を送ると、言い張ってきた。

安倍だけでなく、現在、中学の公民の教科書にも、アメリカを盟主とする自由主義陣営は、個人の財産を守る国々であると書かれている。そして、日本は自由主義陣営に属するとある。

確かに、戦前の大日本帝国憲法にも、戦後の日本国憲法にも、国は個人の財産の守ると書かれている。

大日本帝国憲法
第27条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
○2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル 

日本国憲法
第29条 財産権は、これを侵してはならない。
○2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
○3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

しかし、私有財産(私的所有)は そんなに崇高なものなのだろうか。

私有財産を守らなければいけないという考えは、欲にまみれた権力者に、苦労して稼いだ財産が奪われないように、ということに始まるらしい。そう、私的所有権は近代のコンセプトである。昔の人たちは 何でも共有していたのである。

この私的所有の権利という考えは、ジョン・ロックにさかのぼることを最近になって気づいた。ロックは、自然は共有のものだが、労働が私的所有の権利を生むと『統治論』で主張する。

しかし、人間社会は、互いに協力し合って生産活動や消費活動を行っている。どこからどこまでが個人の労働によるのか、ハッキリしない。それなのに、この20年、日本の企業経営者はアメリカ並みにもっと俸給をもらわないと、主張し始めた。経営者が平社員の100倍、1000倍の俸給をもらうという根拠はどこにあるのだろうか。

戦前のドイツ映画『メトロポリタン』では経営者は「頭で働いている」から俸給が高いのだと主張している。「頭では働いている」人は「手で働いている」人より、素晴らしい仕事をしているのだという。トルストイの『イワンのばか』はこの「頭で働く」ことをおちょくっている。

J. K. ガルブレイスは、伝統的「経済学」では「労働」が経済的格差を生むのではなく、「競争」が経済的格差を生むとしてきた。市場での競争の勝利者が豊かになり、敗者がすべてを失うのだという。そして、この「競争」という考えに彼は疑義をぶつける。

大企業の経営者は組織を束ねているだけで、じっさいは、社内の派閥争いをしてのし上がってきただけである。日本の経営者は、人間関係を築くことでのし上がってきただけで、市場での競争に対して何かヴィジョンがあるわけではない。そして、新しい経営者が、大きな商品開発組織、販売組織を引き継いだにもかかわらず、市場で敗退し、社員を路頭に迷わす。

「競争」というものに疑義をもつなら、「私的所有権」にも疑問を持つべきではないか。

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トルストイの『イワンのばか』の奇妙な設定

2021-09-15 23:11:41 | 童話

トルストイの童話に『イワンのばか』がある。物語は、裕福な農夫に3人の息子と娘がいて、一番上の兄は軍人のセミョーン、つぎは商人のタラース、一番下がバカのイワンで、娘はおし(啞)であったという物語である。

ヨーロッパの昔話には、3人の息子がいて、兄の二人は失敗して、一番下の息子だけが成功する物語が多いが、トルストイの設定には、よくある物語と違う点がある。

まず、親が裕福な農夫であることだ。財産があるのである。その設定は、上の兄ふたりが、親の財産をとってしまって、イワンとおしの妹に財産が残されない、という展開にいかされている。しかし、奇妙なことに、イワンには身を粉にして働く農地が残されている、そんな設定だ。

兄たちが軍人、商人という設定も、昔話とは異なる。トルストイが生きた時代のロシアでは、軍人が一番威張っていて、商人は楽をしてお金儲けができ、農夫だけが身を粉にして働いている、だから、農夫はばかであるという設定である。これって、私たちの感覚からすると、無理な設定で、政治的プロパガンダのようにも、思えるかもしれない。

「裕福な農夫」の息子たち、イワンに農地が残される設定には、「社会主義」「共産主義」との接点がない。トルストイの設定には、田舎の生活からみた都会の生活への批判のほうが大きいと思う。

セミョーンの妻もタラースの妻も際限なくお金を使うので、彼らがいくら稼いでも足りないという設定になっている。たぶん、トルストイは町の生活をそのように見ていたのであろう。

トルストイには、町の貧困な多数の人たちが見えていない。土地から追い出された人々が職を求めて町に住みついたことが、貴族のトルストイは わかっていない。

イワンが兄たちの言いなりになって怒らないのに 悪魔が腹をたてるというのが、トルストイのいつもの物語設定である。欲のために不和がおきるというのが、悪魔の望むことになっている。この点で、トルストイは とても教訓的な人である。

悪魔はイワンに欲を起こさせようとして、わらから兵隊を作る魔法や、葉っぱから金貨を作る魔法を授けるが、イワンは軍人のセミョーンにその兵隊を、商人のタラースにその金貨を渡してしまい、ただただ働くイワンの心を変えることができない。

童話だから、ばかのイワンは、王様の娘の病気を治し、とつぜん王様になる。ここは、昔話のパターンである。

しかし、ばかのイワンの治める国は ばかな農夫ばかりから成り立っているというトルストイの設定である。こういう昔話は読んだことがない。

外国から軍隊が攻めてくるよう、悪魔が仕向けても、イワンの国民は抵抗しない。略奪や殺戮を悲しそうにみているだけである。攻め入った兵士は戦闘意欲を失い、散ってしまう。

日本が中国に進軍したとき、抵抗しない中国人に嫌気がさして日本兵が戦闘をやめたとは、聞いたことがない。ふつう、兵士は軍事訓練を受けて、無差別に人を殺すよう洗脳されている。逆に、日本が外国の軍事侵略を受けたとき、無抵抗でありえるだろうか。逃げるしかないようにも思える。

失敗した悪魔は、つぎに、金貨を大量に持ち込むが、イワンの国民は金貨をものの売買に使うことを思いつかない。家に金貨を飾ってもありすぎるから欲しいとも思わない。

それで、悪魔は食べ物を金貨で買えなくなり、ひもじさのため、イワンの国民に塔の上から「手で稼ぐのでなく頭で稼ぐのだ」という大演説をする。ひもじさのため よろめき、頭から落ちて死ぬ。イワンと国民は、「頭で稼ぐ」のは大変ことだと、言いあうのが、『イワンのばか』のオチである。

トルストイの『イワンのばか』に蛇足があって、兄たちが職に失敗して、イワンに養われることになるが、働かないから、みんなの食べ残しを食べるという設定である。おしの妹は、働かない人たちに厳しくあたるのだ。

トルストイの滅茶苦茶な設定の童話だが、革命前夜のロシアでは、リアリティがあったのだろう。設定が滅茶苦茶すぎて、これでパロディ映画を作ったら、現代でも、結構ヒットするかもしれない。


朝日新聞世論調査、安倍路線を引き継ぐ高市早苗の支持率は

2021-09-14 23:06:29 | 政治時評

けさの朝日新聞で、高市早苗を自民党総裁にふさわしいとするのが自民党支持層の12%しかないをみて少し安心した。日本人は まともである。

同じく、「次の首相は、前の首相安倍さんや菅さんの路線を引き継ぐほうがよいか」の質問に、引き継ぐが28%、引き継がないが58%であった。望むらくは、「安倍の路線」と質問の意味を明確にして欲しかった。

高市の信条「先制攻撃のできる日本」「防衛費の大幅増額」「経済安全保障」「財政再建凍結」「原子力発電で日本経済をささえる」「女系天皇反対」「選択的夫婦別姓反対」は、戦前の「富国強兵」「強い日本」「家父長制の日本」の復活を望むもので、言うだけは自由であるが、実行されたらトンデモナイことである。

問題は日本が代議制民主主義であることだ。自民党議員のどれだけが総裁選で高市に投票するかである。自民党支持層と自民党議員との乖離が明らかになるかもしれない。

自民党議員の若手が、派閥横断で集まり、「若手の役職登用」を主張しているが、政治信条や政策の議論をしていない。感覚が旧態依然である。

政治評論家の田崎史郎が、安倍晋三の高市支持は右翼バネによる自民党の活性化をねらったものだが、総裁選の結果は最右翼の実力のほどを明らかにするかもしれない、ともテレビで言っていた。

私も、「安倍政治」の終焉がみんなに見えることを望んでいる。この8年の自公民政権は悪夢のようなものだった。


日本にいま求められているのは何か、ゆたかな社会とは

2021-09-13 23:20:28 | 思想

J. K. ガルブレイス(1908年―2006年)の『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)につぎの言葉がある。

《 ゆたかな社会は、同時にまた同情心と合理性をもっていさえすれば、品位と慰安に必要最小限の所得を、必要とする人に与えることができる筈である。不労所得は人心を堕落させるといわれているが、それは、飢餓と窮乏が人格の陶治に役立つというのと同様に、誇張であることは疑いない。》

私より上の日本人は飢餓と窮乏を覚えている。飢餓と窮乏は人格を決して偉大なものにしない。ある人は不正や暴力が生き残る唯一の道だと思いこむ。いっぽう、ある人は社会の決めごとを固執し、飢え死にする。

日本は、せっかく、戦後の貧困から立ち直ったのだから、いまこそ、貧困にあえぐ人々をなくさないといけない。貧困は本当にとつぜんやってくる。

私の姪も、新型コロナと離婚でにっちもさっちもいかない事態に陥っている。シェフになりたくてレストランで働いていたが、この新型コロナで職を失った。離婚のほうは、家裁協議中で、離婚が成立していず、母子家庭でもない。新型コロナ禍で協議が1年以上進んでいない。

そうすると、何が起きるのか。建て替えのためにアパートの立ち退きが迫られているが、定所得を証明できないので、新しいアパートが借りられない。助けたいが、年金暮らしの私では保証人になれないとのことである。東京都の福祉事業の対象にもならず、美人だった姪はいま孤立している。痩せこけて頬骨がつきでてきた。

10年前、民主党、特に前原誠司は中間層を増やすといったが、私はこれを支持できない。ゆたかな社会のいまだからこそ、貧困をなくさないいけない。

トマス・ホッブズ(1588年―1697年)は『リヴァイアサン』につぎの警句を書きしるしている。

《富が気前の良さと結びついた場合も力である。それは友人や召使を獲得するからである。気前の良さがなければ力ではない。なぜならこのばあい、富は人を守りはせず、逆に彼を嫉妬の餌食にするからである。》(永井道雄、上田邦義 訳)

これは、暴力の「餌食」となると、ほのめかしている。

ここでの「気前の良さ」は原文では“liberality”である。宇野重規が言うようにリベラルに「気前の良さ」という意味があったのだ。“liberalism”を自由主義と訳さずに、リベラリズムと読んだ方がよい。

リベラリズの走りといわれるジョン・ロック(1632年―1704年)は、『統治論』で、私有財産権を主張しているが、それは自分の労働を通して得られるものに制限していた。

現在のように、生産活動がひとびとの協業によってなされている時代には、どこからどこまでが、自分の労働の分か、曖昧である。昔の「成果は共有」という考えが復活していいのではないか。近代以前の「共産主義」にも一理あるのではないか。格差を容認し、中間層をふやすという方針は誤りだと思う。貧困に苦しむひとを放っておかない「気前の良さ」が求められている。

[補遺]なお、ロックは暴力によって不正をうちやぶる権利をも主張している。


インフレ推進派 渡辺努の『値上げ嫌いこそ元凶』に異議あり

2021-09-09 21:33:53 | 経済と政治

きのうの朝日新聞に、『値上げ嫌いこそ元凶』という渡辺努のインタビュー記事があった。彼が言いたいことは、日本の経済が悪いのは日本人が値上げきらいになったから、であった。

しかし、私の感覚では、この間、食品の値段も車の値段も上がっている。私のような年金生活者には収入が伸びる見込みがないから、ひたすら生活の質を落とすしかない。渡辺は、多くのひとびとが生活の質を落としている現状を知っているのか、と思ってしまう。

まず、彼の言い分を聞いてみよう。

《消費者の根柢に『1円でも余計に払いたくない』という心理があるからです。》

《ある食品メーカーの社長は、海外の取引先はコスト上昇分の価格転嫁を受け入れてくれるのに、日本の流通大手は正当な理由を説明しても納得してくれないと嘆いていました》

《あなたは貧乏なのですか、消費者に訪ねてみたくなります。少なくても平均的な年収があれば容認できるはずなのに、それでもイヤだというのですから》

「平均的な年収があれば容認できる」と言うが、「平均」は「中間値」よりかなり大きい。単に渡辺の年収であれば、商品の値段が上がっても不満をもたないと言っているだけだ。

ほんとうに日本人は「値上げ嫌い」なのか、それは、消費者が悪いからか、サービス提供者が悪いのか、流通業者が悪いからか、製造業者が悪いからか、その根拠は何か、このインタビュー記事からはわからない。

渡辺は、安倍政権の「円安政策」に言及しない。「円安」とは輸入材の値上げを招き、賃上げがなければ、本来は、実効的に日本の労働者の賃下げとなる。食品メーカは直接商品価格を上げるのではなく、商品の質、量を落とすことで対応した。現在は、それでも対応できず、値上げをしている。

輸出する製造業は輸出商品の価格を上げることで、労働者の賃金を上げるべきだったのではないか。労働者、消費者は「円安政策」の犠牲になっているのではないか。それなのに、渡辺がなぜ消費者を責めるのか、不可解である。

さらに、わからないのは、日本経済のために、なぜ「値上げ」をしなければいけないのか、である。引用を続けよう。

《企業は、値上げが一切できないということを前提に活動しなければならない。コスト削減に追われて、賃金を上げている場合ではない。商品の開発も、設備投資も、技術革新も、前向きな動きがすべて止まっている。》

《仮に生産性が上がらなくても、賃金も物価も上げられるということです。》

最後まで読むと、渡辺の本音がでてくる。

《私はいまの日本も、物価を上昇させるねらいで、カルテルのように競争を宣言する手段を試みても良いのではないかと思います。》

これでは、政府の政策のつけ、企業家の無能さをすべて、消費者に押しつけようとしている。

渡辺は、日本経済の実態、日本人は貧乏になっている、価格を抑えるために商品の品質を下げている、飲食業や観光業など生産性の向上が望めない接客業の増加で失業を抑えているということを、を無視している。悪夢のような自民党・公明との連立政権のもと、日本経済は深い傷を負ってきたのである。