(ホールデンとは無関係)
NPOで私の担当している子に本が読めない子どもがいる。「子ども」といっても二十歳過ぎなんだが。
本を読めないのは、読んでいて著者との意見の相違がわかると、読み続けるのが苦痛になるのだと言う。あるときは、そうでなくて、小学校のとき、読書感想文の提出を強要されたことがトラウマになって、読めなくなったのだとも言う。
色々な理屈がでてくるが、とにかく、彼は、10ページか20ページまで読んで、後が読めなくなる。太宰治の『斜陽』も伊藤亜紗の『どもる体』も買って、はじめのところで放棄している。
それで、彼の母がお金を出してくれて、月1500円のオーディオブック契約したという。何を聴いたら良いか、彼が私に聞いてきた。太宰治も伊藤亜紗もだめだったから、ほかが良いと言う。
私は、とっさに、サリンジャーを思いうかべた。「サ、サ、サ」とまで声がでたが、後が思い出せない。老人特有の記憶障害である。私の頭の中で、言葉探しが始まったが、出てこない。突然、「キャッチ」と「ライ」が思いだされ、「キャッチ・ミー・イン・ザ・ライ」と声が出た。彼は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と私の言葉を言い直した。彼はアイパッドを即座に操作して、正解に到達したのだ。私もガラケーをやめて、スマホかiPadに買い替えないといけない。
とにかく、老人になると、とっさに言葉が出てこなくなって困る。
彼は非常に繊細である。不条理を敏感に嗅ぎ取る。私は、太宰治よりサリンジャ―が向いている気がした。
サリンジャーの『The Catcher in the Rye』は、療養中の少年ホールデンが1年前のクリスマスの2日間の出来事、ニューヨークの街をさまよったことを語るという物語である。
その中で、スコットランド民謡 “Comin Thro' the Rye”の歌詞、If a body meet a body coming through the ryeの「meet」を少年ホールデンは「catch」と勘違いして、いとしい、いとしい妹、フィービーに訂正されるのが、タイトルになっているのだ。
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「あの唄は知ってるだろう。『誰かさんが誰かさんをライ麦畑で捕まえたら』っていうやつ。僕はつまりね――」
「『誰かさんと誰かさんとライ麦畑で出あったら』っていうのよ!」とフィービーは言った。「それは詩よ。ロバート・バンズの」
「それくらいは知っているさ。ロバート・バンズの詩だ」
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この歌は麦畑で逢引してキスを浴びせるという歌で、なぜか、日本では「夕空晴れて秋風吹き」という文部省唱歌になって、もとの色っぽい歌がわからなくなっている。
ホールデンが思いうかべていた歌詞は、穂の高いライ麦畑が崖に囲まれた丘のうえにあって、フィービーのような可愛い子がたくさん走り回っている。先が穂で隠れて崖から落ちないように、自分が見張っているというのだ。
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「で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どこからとなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」
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子どものもつ無邪気さ、ピュア、イノセンスを守りつづけたいとサリンジャーは言っているのだ。自分も暗い闇の世界に落ちていくのが怖いのだ。
なんとなく、彼が気にいってくれるのでは、と私は思ったが、残念ながら、オーディオブックのなかにサリンジャーの作品は1つもなかった。著作権をもっているサリンジャーの遺族がオーディオブックに同意しないからである。
著作権は作家が死んだら、切れるのでよいのではないか。死後60年間も、誰かが著作権を「私的財産」として引き継ぐというのは、おかしいと思う。文学作品は人類共有の財産ではないか。