自由とは何か、人に命令されずに、自分の思いにしたがって行動することである。フロムの『自由からの逃走』という本もあるが、本来、「自由」は、少しも難しいことではない。人間は生まれたときから、周囲から切り離され、自分の脳で判断し、行動するようにできている。ところが、経験や教育を通じて、人間は自由を失っていく。
人に命令されることは嫌だという人は意外に多い。しかし、人に命令することにためらう人は意外に少ない。人に命令されることの不満をわが子にぶつけている親もいる。
支配する人びとと支配される人びとは、歴史上、いつも、支配される人びとが圧倒的に多数だった。
少数者が多数を支配するには、何かのトリックがいる。
古代ギリシアで、スパルタがこの問題に出くわしたとき、恐怖を利用した。スパルタは征服した民を、自分たち共有の奴隷(ヘイロタイ)とした。闘う以外の労働はすべて奴隷にさせた。ウィキペディアによると、約1万人のスパルタ人に対し、20万人のヘイロタイがいたという。反乱を防ぐため、支配を維持するため、スパルタ人の間では徹底的な平等をつらぬき、いっぽう、ヘイロタイに対しては恐怖で徹底的に抑え込んだ。
たとえば、若いスパルタ人がヘイロタイを度胸試しに軍事教練として殺すことを認めていた。また、1年に一度、公式にヘイロタイに向かって戦線布告をし、殺しまくった。忠誠を誓うヘイロタイを解放し自由民にするといって、申し出たヘイロタイを密かに殺したという話しも伝わっている。歴史的に確実なのは、スパルタ人共同体は、涙ぐましい努力にもかかわらず、滅びたことである。
スパルタに負けたアテナイでは、プラトンは、スパルタの影響をもろに受け、家族の廃止を含む支配者層の間の徹底的平等を著作『国家』で「理想国家」としてる。
歴史をみると、スパルタを除いて、支配者層の間の徹底的平等をつらぬいてないように見える。反乱や内戦を防ぐために、なんらかの権威が使われた。古代ローマでは法などの権威に、ヨーロッパでは血筋や神などの権威にもとづいて、少数者が多数を支配した。もちろん、恐怖は依然として利用されている。
近代において王権の権威が衰えるとともに、少数者が多数者を支配するにあたって、「能力の差」が新たな権威として使われてきた。100年前のドイツ映画『メトロポリタン』では、「頭」が「手」を使うことが当然のように描かれている。
能力差を作ることは、教育によって何とでもなると、プラトンは『国家』で言っている。
また、古代ローマの「法による秩序」も安倍晋三や中国の政権などによって使われている。「法」の権威が依然として続いている。
岸田文雄が口にする「資本主義社会」では、生産手段をにぎった者が支配者になり、他の者を賃金労働者として支配する。生産手段をにぎるにはお金がいる。だから資本主義という。賃金労働者の反乱を防ぐために、能力の差、法による秩序を錦の御旗にし、支配者層は、学校教育で子どもたちを徹底的に洗脳している。
支配者層が子どもたちを洗脳するのでなければ、国による教科書検定は不要である。
資本主義社会には、お金儲けの「自由」があるというが、それは神話で、お金儲けは「奪うこと」であり、奪わない「自由」を求める者には貧しさへの道しかない。
映画『パージ:エクスペリメント』は、少数者が多数者を支配するのは大変だから、少数者が多数者の何割かを殺して、負担を軽くしようという映画である。かなり無理があると思う。支配という構造をなくすほうが簡単だと私は思う。