きのう、BSフジのプライムニュースをたまたま見たら、岸田文雄首相が楽しそうにべらべらしゃべっていた。話すことが好きそうである。積極的に持論を話すことは、少しも悪いことではない、と思う。菅義偉はあまりにも話さなすぎた。菅義偉は自分の方言を気にして話さない癖がついたのではないか、と私は思う。
民主制社会では、みんなが自由に話す権利がある。秋田弁を恥ずかしことがどこにもない。「わだスは」と言って良いのだ。
いっぽう、最近のメディアの論調をみていると、岸田文雄首相は「朝令暮改」で混乱を招いているという批判もみられる。しかし、状況が変わったり、また、より良い提案が出されたり、自分の誤りに気づいたりしたら、メンツにこだわらず、言動を改めることは、決して悪いことではない。これを昔「君子は豹変す」と言ったらしい。儒学では、特にトップはこうでなければいけないと考えるようだ。
「君子は豹変す」に対抗する言葉に「朝三暮四」がある。
これは、サルを飼っている主人が、家計の負担を軽くするために、どんぐりを「朝に3つ、暮れに4つやる」と言ったら、猿が「少ない」と怒ったので、「朝に4つ、暮れに3つやる」と言い直したら、サルが喜んだという、荘子の寓話に基づく。
この主人は言葉巧みにサルをだましたことになるが、結果が同じなのに、だまされるサルはバカだとも言っている。
もしかしたら、岸田は言葉巧みなだけかもしれない。しかし、そうなら騙されるのジャーナリストや国民にも責任がある。
「朝令暮改」という批判も、「聴く耳をもつ」岸田に、役人が、何が適切かを現場の立場から持ち上げれば、混乱しないで済む。これは、主体性の問題である。民主制社会では、上の指示に忠実に従うことより、自分で判断し、上の誤りを訂正することこそ、大事である。学問の分野でも、現場から得られる知識こそ重要で、書物に騙されてはいけない。
日本に、「風見鶏」という言葉がある。風見鶏はヨーロッパの教会のてっぺんにある飾りで、風の方向を示す。日本では、言うことが、権力者や多数派に媚びてコロコロ変わることを言う。岸田は話好きなだけで、風見鶏のようには思えない。
ジャーナリストは正面を切っての岸田批判を展開すべきだと思う。言葉尻ではだめだ。メディアは政治的立場を鮮明にして良いのである。軍備増強や他国の基地攻撃や台湾有事や原発や社会保障や福祉の現実をもっと議論して良い。