猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

きのうの朝日新聞の「大人のADHD」にコメントしたい

2022-05-11 23:55:15 | こころの病(やまい)

きのうときょうの朝日新聞で、〈生活〉の面で女性のADHD(注意欠如・多動症)をとりあげている。

きのうの記事では、「ADHD」を個性と見なした方が良いと、昭和大学烏山病院の精神科医、林若穂が述べていた。私もそう思う。「病気」だと思う必要が本当にあるのか、疑うべきである。多くの人がADHDなら、ADHDを病気というのはおかしい。人間の特性の1つである。

彼女は、また、女性が求められる役割や やらなければいけない負担が、大人になると急に多くなると述べている。私もそう思う。人から、あれをやれ、これをやれと言われても、それに従う必要はない。男でも女でも、ひとりの人間が何でもかんでもできるはずがない。無理をすれば、体か神経か、どこかが悪くなる。

私は子どものときから、日本社会は間違っている、と思って、無理と思うことはやらないを貫き通してきた。闘うのが難しければバカなふりをすればよい。

ところで、彼女は、ADHDと診断された男女がうつ病や双極性障害になる割合は、女性は男性の2倍以上であるという論文を書いている。

アメリカでは、ADHDに限らくなくても、女性がうつ病になる確率は男性の1.5倍から3倍であると言われている。ADHDだから、女性がうつになる割合が男性の2倍となる、とは言えない。そうではなく、社会が女性に重い負担を要求しすぎるから、うつ病になるというのが、真実であると私は思う。

だから、女性だから家事も育児もやって、その上に、外で働いてお金をもらってくるというバカげた社会通念を蹴っ飛ばすべきである。

私の家は、私や妻の歳のせいもあって、ごみの山である。布団の周りも、布団の上も衣服や本がちらばっている。私の部屋や机がないから、食卓の上は本と書類を積んだままである。食事のとき、パソコンをどかして、そこに皿を置く。

社会通念にしたがって働けばうつになる。それより、知的な生活を送る方が、無駄なエネルギーも使わず、健康で楽しい人生を送れる。多少貧しいだけである。

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ところで、私は、朝日新聞が大人のADHDを強調しすぎのように、以前から思っている。個性ならば、ほっといてくれと言いたい。というのは、私の担当の子は双極性障害の薬に加えて、ADHDの薬が処置されている。双極性障害だ、強迫症だ、ADHDだと、本当にそんなに多数の薬が必要なのか、心の奥で、私は いぶかしく思っている。早く、精神医学も科学になってほしいと願っている。

大人になってからは、ADHDとパーソナル障害とは症状が似ているから判別しにくい。精神医学の診断名は、症状の分類にすぎないので、判別がむずかしい。

たとえば、咳やくしゃみが出ると、昔は「風邪」といっていたが、気温の変化に対する体の単なる反応かもしれないし、花粉アレルギーかもしれないし、コロナかもしれないし、インフルエンザかもしれない。現在は、それを判定する客観的方法を医者がもっているから、病因に対して有効な治療手段をもっている。

現在の精神医学は、病因を特定できる客観的手段をもたずに、治療するという、前時代的な業界であり、そのことを知っておいて、精神科に通うべきである。

60年前に、精神科医の診断がバラバラなので社会的批判を浴びた。アメリカの診断マニュアル DSMは、その批判をかわすために、問診などで同じ診断名がでるよう、開発されたものである。いつのまにか権威をもってしまったが、医師にによる診断名のばらつきを減らしただけである。

最新の診断マニュアル DSM-5によれば、ADHDの診断には、A「不注意または多動性-衝動性の症状」に加え、B「その症状のいくつかが12歳になる前から存在していた」、C「その症状が2つ以上の状況(settings)において存在する」、D「その症状が社会的・学業的・職業的機能に負の影響を与えている」、E「他の精神疾患ではうまく説明できない」の5つがすべて満たされたときのみ、ADHDと診断される。

診断基準Bがあるから、大人のADHDの診断はむずかしい。患者は医師に強く言われれば「12歳になる前から」症状があった気がしてしまう。だから医師が病気をつくる可能性がある。

社会が変われば、社会的・学業的・職業的機能に問題が生じないなら、病因もわからずにADHDの薬を使うより、社会を変えた方が良いと私は思う。


アメリカ政治学者 中山俊宏の突然の死を惜しむ

2022-05-10 22:32:16 | 国際政治

アメリカ政治学の中山俊宏が5月1日に くも膜出血で死んだ。55歳での死である。もっと話を聞きたかったので残念だ。

アメリカ社会に住む人びとは多様である。しかし、政治の表舞台に出てくる層はその一部である。人間が悪いから政治の表舞台に出て来れるのだ。したがって、批判的視点をもってアメリカの政治を見ないといけない。

中山俊宏をテレビで はじめて見たのは、11年前、「ウォール街を占拠せよ」運動についての座談会である。このとき、彼は、アメリカで「機会平等」というアメリカン・ドリームが死につつあるとコメントした。このとき以来、彼を私は信用している。

アメリカン・ドリームという幻想は、ほんのわずかな人の成功をもって、不平等を肯定するペテンである。確率で考えると、アメリカ社会では、金持ちが もっと金持ちになる確率が、貧乏人が金持ちになる確率より、はるかに大きい。競争社会で確実に勝つにはイカサマをするのが早い。もちろん、多くの人が公平な競争が行われていると信じているとしてである。金持ちは自分が勝つ可能性の高い法律や制度や信念を社会に押しつける。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻で、日本や欧米のメディアが西側の価値をほめたたえている。しかし、西側の価値とは怪しげなものである。単にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランスで権力の座にあるものに都合のよい理念を述べているだけである。

西側の価値の1つである「自由」は「私的所有」を拡大する自由である。誰にも命令されない、あれこれ指示されないという「自由」のことは おおやけには 忘れられている。どこかに「務める」ということに対する嫌悪感を誰もおおやけに口にしない。私は、就職するということがとても嫌だった。なぜ、上司に私が命令されなければならないのか。

「私的所有」を拡大する自由は貧富の差を拡大する。しかし、「公的所有」も必要ではないか。「道路」が私的所有の対象で、道路を使用するたびに通行料を払わなければならない社会が望ましいのか。人の命がみな平等なら、救える命を救う医療が公的なものでなければ、おかしいのではないか。

「私的所有」の自由よりも、上司や部下という関係を否定する「自由」のほうがだいじではないか。雇用、被雇用という関係を拒否する「自由」のほうが楽しくないか。

西側の価値のもう1つの「民主主義」は「議会制民主主義」と「三権分立」である。しかし、宇野重規が指摘するように、デモクラシーはギリシア語のデーモス(大衆)とクラトス(力)の合成語である。したがって、本当に大衆が力をもてているのか、に着目して議論しないといけない。多くの国では行政府が権力を握ってしまう。とくに日本では、戦前の天皇制の「勅令」を継承し、内閣府が「政令」をだし、各省庁が「省令」をだし、現場の役人が「通達」をだす。これらのため、議会が作った法律が、行政府の解釈を通し、恣意的に運用される。

さらに、日本は、ロシアと同じく、行政府が教科書の中身に口をだす。日本は、小学校から大学まで、行政府がその運用を監視し、補助金の金額を定める。

西側の「民主主義」は大衆の力を抑え込んでいる。イカサマが潜んでいる。だから、アメリカでは、ワシントンの既得権力層に対する大衆の不満が、6年前、トランプを大統領に押し上げた。2年前の大統領選で、バイデンがトランプに僅差で勝ったが、トランプの得票数は6年前の得票数より多かった。大統領選後の座談会で、中山俊宏はトランプが得票数を伸ばしたという事実をもっと注視し、なぜかを考えないといけないと警告した。

今回のロシアに対する国連の非難決議で棄権した国々が多い。ロシアに対する経済封鎖となるとアジア諸国のほとんどが加わらない。ロシアが悪いがアメリカも悪い。アメリカに対する不信が世界に渦巻いている。なぜなのか。

ロシア軍のウクライナ侵攻を前にし、中山俊宏による辛口のアメリカ政治批判がもう聞けないのはとても残念である。


日本は敵のミサイル基地を攻撃する能力が必要か?

2022-05-08 23:07:04 | 戦争を考える

「新しい資本主義」という意味不明な標語を岸田文雄が掲げて8カ月がたとうとしている。いっぽう、この間、立憲民主党の弱体化が目立っている。立憲民主党がというより、平和と民主主義を求めるという勢力が後退しているように感じる。

平和とは、日常の生活を あたりまえのように おくれることである。砲撃の音が聞こえたり、突然逮捕されて牢に閉じこめられたりしては、明らかに「平和」とはいえない。

20世紀の戦争は、総力戦だった。そして、「平和」といわれる期間も、戦争に駆り出されていないだけで、戦争の準備のために、生産力の多くを兵器の生産にあててきた。私はソヴィエト連邦の崩壊は、兵器の生産にあまりにも国力を費やしすぎたからだと思う。

民主主義とは、形式のことではなく、みんなが対等で、だれか一握りの人が残りの人を指示したり、命令したりすることがない社会である。会社で社長がみんなを集めて訓示したりするのは「民主主義」的ではない。会社で辞めさせたい社員をみんなでいじめたりするのは、もってのほかだ。競争は格差を正当化するためにあり、「民主主義」的な社会をむしばむ。

3月中旬から4月下旬にかけての朝日新聞の世論調査(5月3日公表)では、全体として穏当なところだが、一部見過しできない結果がでている。

「安全保障を考える上で、軍事的面と外交や経済などの非軍事的な面では どちらがより重要だと思いますか」という問いに、軍事面だとするのが19%、非軍事面だとするのが73%だった。

この結果は穏当だと思うが、この問いの「安全保障を考える上で」は どこか変である。回答者はどう問いを受け止めて、回答したのだろうか。

「日本の防衛政策は、『専守防衛』の方針をとっています。専守防衛とは、相手から攻撃を受けた時に初めて反撃し、その反撃の方法や装備は『自衛のための必要な最小限度に限る』という立場です」という問いに、その方針を維持すべきが68%、見直すべきが28%だった。

まあまあ穏当なところだが、好戦的な応答が、前問より少し増えている。

ところが、つぎの質問で、情勢がひっくり返る。

「日本の自衛隊は、敵のミサイル基地を攻撃する能力をもっていません。敵基地への攻撃は、アメリカ軍に依存しているためです。日本が敵のミサイル基地を攻撃するための能力を持つことに」という問いに、賛成が44%、反対が49%である。

「ミサイル基地」とは何を言うのだろうか。現代では、ミサイルは移動式の装置から発射される。装甲車だったり、巡航艦だったりする。回答者はミサイルは軍事基地から発射されると考えているのだろうか。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻で、ウクライナ軍はロシアの軍事基地に反撃していない。今回、ウクライナ軍が反撃したのは、ミサイルを発射する巡航艦に対してであって、アメリカからの供与のネプチューンと衛星からの標的情報を使ってと推測されている。

イスラエルはシリアからミサイル攻撃に対しては、ミサイル迎撃網で対応し、敵地反撃を行っていない。

どちらも、ミサイル攻撃に対して地下壕を準備しており、「専守防衛」の範囲である。

敵基地反撃能力は本当に抑止力になるだろうか。ウクライナもイスラエルもそうは思っていない。

先日の朝日新聞オンライン『<侵略>と<戦争>を考える』では、政治学の杉田敦は、攻撃されれば壊滅的災害を起こす原発を廃止するとか、地下壕を整備するとか、攻撃を受けても耐えられるインフラを整えることを主張していた。ウクライナの鉄道は網の目のように張り巡らされていて、どこが攻撃されても、輸送に困らないようになっているとのことである。

国民の間に、平和が脅かされているという不安だけが煽られていて、他国が日本を侵略する動機は何なのか、それに対応する「外交や経済などの非軍事面」とは何か、また、侵略が行われたとき、それに耐えるインフラの準備とは何か、長期にわたる軍事支配に屈しない力はどこから生まれるのか、という基本的な問題が議論されていない。

もう少し理知的にものごとを考えよう。戦争大好き人間に騙されて欲しくない。


ETV『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送にふたたび泣く

2022-05-07 21:51:06 | 教育を考える

きょう、、ETV〈こころの時代〜宗教・人生〜〉で何年かぶりに『私は、母になる〜餅田千代と孤児たちの戦後〜』の再放送を見た。前回と同じくおろおろと泣いてしまった。戦後、長崎で孤児施設「向陽寮」の初代寮母になった餅田千代の物語である。

今回、泣きながら記憶に残ったのは、1つは施設に孤児60人がいたことである。もう一つ記憶に残ったのは、彼女が12歳になる孤児の男の子たちとお風呂にはいったことである。

私の子ども時代の1教室の定員は同じく60名だった。それにもかかわらず、先生たちに私はすごく愛されたと思っている。

私のいる放課後デイサービスの教室責任者(彼女)は小学校教師を25年務めた。務め始めたときは、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると感激したと言う。ところが彼女は3年目に仕事を続けることが苦しくなったという。それは、クラスのみんなに愛情を平等にいっぱい注ぐことができないということに気づいたからだ。彼女は苦しさから逃れるためにピアノの練習などに打ち込んだという。

私より約20歳若いから、当時のクラスの定員は40人ほどだと思う。現在、放デイサービスの法定定員は1教室1日10人である。そして、ふたたび、お金をもらって大好きな子どもたちと接することができると言い、張り切っている。

餅田千代は、子どもが好きだから寮母になったのではなく、親のいない子どもを社会人と育てることが、自分の「使命」だと受け入れたからではないかと思う。長崎県がGHQの指示で孤児施設「向陽寮」を開くとき、英語が少し話せるという理由で、未亡人の彼女を選んだ。

社会から見捨てられたともいえる孤児を社会人として育てることは並大抵のことではない。彼女は「子どもに負けない」ということを誓い、施設の職員にも そう言い伝える。人のものをとってはいけないと教える。自分の働きで食べていくことのだいじさを教える。だれかのボスになってはいけないと教える。

しかし、これを子どもたちが受け入れたのは、自分が彼女にすごく愛されていると感じたからだと私は思う。

彼女が孤児といっしょにお風呂にはいったというエピソードは、肌感覚の愛情を与えるための1つの選択だったと思う。抱きしめられるとか手を握られるとか、肌と肌との接触は、幼児が親からうけるだいじな愛情表現である。新型コロナで、このような接触は失われているのではないか、と気になる。

本当は、親子だけでなく、一般に、子どもが大人からの愛を受け入れるうえで、この接触が重要なのではないか、と私は思う。

私は小学校1年のとき運動場で転んだとき、膝の傷口をとっさに担任の先生(女)になめられた。私はこのことを今でもありありと覚えている。

日本では、親以外から肌接触は、性行為だけである。ヨーロッパやロシアとは大きく異なる。公衆衛生の観点からは日本の慣習のほうが優れているが、新型コロナの感染が収まったら、少なくとも、手を握る、肩をだくという行為を再開したほうが良いと思う。

3年前に放デイサービスで、小学1年の子と机を挟んで互いに椅子に座って学習指導しているとき、その子は、毎回、足を延ばしてきて、私の足に接触しようとした。日本では、大人と子供の肌接触は、親以外ではロリコンと誤解される。それで、私は気づいていないふりをした。

これが、女の子だともっと困る。いじめられて泣いている子は、誰かの胸に頭をつけて慰められたいのである。しかし、小心な私はどの子も抱いて慰めたことはない。日本でそういうことをすると性的虐待とみなされる。

情緒不安定になる子には、親から抱かれて慰められたことがない子が多い。理由は、子どもを甘やかしていけないという教育方針を信じていたり、親自身が情緒不安定で子どもに愛情を与えることができなかったりするからだ。

現在、日本社会が、肌接触をなんでもかんでも性行為の一部とみなし、性的虐待と大騒ぎするのは考え直すべきだと思う。肌接触の重要さに気づくべきだ。


ロシアのウクライナ軍事侵攻はロシアの拡張主義の終わりを招く

2022-05-05 21:49:37 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

5月9日にプーチンがどんな決断をするかに注目が集まっている。大方の予測は戦争続行しかないという見方である。

ブルガリアの歴史、ポーランドの歴史を読むと、17世紀以降、ロシアの拡張主義が周辺諸国にとって脅威になっている。20世紀にソビエトがロシアに誕生しても、依然として周囲の国々に脅威をあたえた。

今回、プーチンはロシア軍をウクライナに侵攻させたが、戦争を続行させれば弾薬がつき、多くの優秀な兵を失う。どこかで、戦争を止めなければ、地上軍では、ヨーロッパのどの小国よりも軍事力が弱くなる。じっさい、モルドバの大統領にもバカにされ始めている。ベラルーシもカザフスタンも過去のロシアへの怨念を晴らすときを待ち構えている。

現在、ロシアが占領している地域は、ウクライナ侵攻以前より多いが、それを維持するのはむずかしい。

ウクライナ政権が存続する限り、おとなしくロシアの支配を我慢することはあり得ないであろう。占領地域の住民ひとりひとりを取り調べ、ロシア政府に従わない住民を強制移住させるか、殺すしかなくなるだろう。しかし、現代において、おおっぴらに殺すことはできない。したがって、ウクライナ側に、ロシア政府に反抗する住民を追放するしかなくなるだろう。

どんづまりである。

戦争を続行するプーチンに残されたものは、核兵器しかなくなる。しかし、核兵器を使用しても、その後の世界は、プーチンの望むものではないだろう。

プーチンはウクライナ侵攻で歴史に大きなねじれを生んだが、それがロシアにも跳ね返り、ロシアの拡張主義が終わりを迎えつつあると思う。