
大原の庵から、久しぶりに井の尼が下りて来た。作者は懐かしく感じて、都から近いし、それほどの鄙(ひな)ではなかったでしょう、と歌を遣わした。ところが尼の返歌は・・・。(補説)
ひらかなy130:よをはなれ ほかではなくて おおはらに
おすみになった いごこちいかが?
ひらかなs1630:よをそむく かたはいづくも ありぬべし
おおはらやまは すみよかりきや
【略注】○世をそむく=世の中に背を向ける。世を捨てる。
○方=(方角、方向→)場所、住まい。
○大原=(京都市左京区)古来、大原炭の産地として知られる。
だから「炭」と「住み」が掛詞。
○和泉式部=悠 053(09月08日条)既出。補説あり。
【補説】①返歌。
1639 思ふことおほ原山の炭窯は
いとどなげきの数をこそ積め 少将井尼
かえって、なげき(木)という薪(まき)を積むばかりでしたよ。
②大原の炭。『後拾遺和歌集』に
「心ざし大原山のすみならばおもひをそへてみこすばかりぞ」
と、ありと。
③翁地蔵(大原炭伝説)。
http://www.tabit.ne.jp/kaburituki/kyoto/ohara/h_ohara.htm
「むかしむかし、三千院のそばの小野山の麓に炭焼きの翁がすんでおりました。
樫の木を伐っては炭にし、 楢の木を倒しては炭に焼いておりました。その焼く
炭は天下一品、翁の名は都にまで及んでおりました。 「太山木を朝な夕なにこり
つめて寒さをこうる小野炭焼」などと和歌によまれたり、画題になったりで、 三千
院から少し足をのばして翁の炭焼きがまを訪れる人がずいぶんありました。やが
て翁が亡くなると 淋しく思った人々が皆でかま跡にお地蔵さんをたてて翁を偲ぶ
ことにしました。いつしかこのお地蔵さんを 「翁地蔵」とか「売炭地蔵」とか呼ぶよ
うになり、またどういうわけかお供えの水をつけると子供の 「夜尿症」が直ると伝
わるようになりました。今でもひそかに翁地蔵にお参りする親子の姿をみかけま
す。 翁地蔵さんは、三千院の境内の紫陽花苑の奥の津川をわたったところにあ
ります。」
☆「草稿中」にしておいたものを、早朝開いてみたら、この記事が全部消滅していた。いつも控えはとらないので、ゼロからの修復作業だった。goo さん、どうして?