神社は既に初詣を待機している人達で賑わい始めています。
娘、初めての巫女さんですが上手くいくでしょうか…。
今年は最後の最後まで送迎で振り回された私です。

昨日、比良山系の武奈ヶ岳へ登りました。
行程:JR新三田→JR近江高島→ガリバー村(冬季閉鎖中)
登山口(ガリバー村)→大擂鉢→広谷→イブルキノコバ→武奈ヶ岳→北稜→細川越→広谷→八雲ヶ原→北比良スキー場跡→金糞峠→青ガレ→大山口→イン谷口→JR比良駅
JR比良駅→JR新三田
比良山系は、かなり山の上まで沢が多いので、渡渉(としょう)が何度も出来て楽しいです。でも今の時季は濡れたら冷たいので慎重に。
広沢 明るい峠で一本取るのにちょうどいい場所ですね~ ↑北稜へ
武奈ヶ岳ピークハント! 眼下には、広がる琵琶湖、比良山脈がどこまでも続いて・・・360度の展望。
稜線はうっすらと雪が乗っていました。切れるほど冷たい風当たりでした。 転ばぬ先の軽アイゼンも装備して来ましたが、お守りに終わりました。
マウンテンでマウンテン 山でも家でも美味しいマウンテン。
比良スキー場跡 私はスキー場が出来る前もスキー場だった頃も知りません。山の中に突然開けている荒涼とした「跡」に立った時、何とも言えない気持ちになりました。数年後はまたこの場所に木や草が生えて「山」に戻って行くのかな。
八雲ヶ原の八雲池 荒涼なスキー場跡に寂しそうに残っている八雲池や湿原。池はじっとスキー場の衰退を見て来たんだろうな・・・
湿原に立つ道標 かつての名称が消されているけれど、この道標はこのまま残っていて欲しい、なんて思いました。
金糞峠 「北比良峠」の隣に黒く消されているのは「比良ロッジ」。 春はこの近辺はシャクナゲ群生地でした。
このV字の切り通しを下りると青ガレです。写っていませんが前方には琵琶湖が広がっています。このまま下山しないでずっとどこまでも縦走し続けたかったです。
比良山系はまだまだ一端しか知りませんが、今後も足繁く通いたい山になりました。しんみり好きになりました。
先日、久々に革の山靴を出して手入れをしました。保革油、防水油を塗って、乾かして、磨いて。
低登山ではいつもお気に入りのメレルのハイキングシューズばかり履いているので、たまに油なんかを靴に塗っていると、気が引き締まります。 そして足を入れると懐かしい感覚がよみがりました。
ハイキングシューズでも充分かもしれないけれど、たまにはこの靴で山へ行って来ます。 だいぶクラッシックな靴ですが・・・
スカルパの山靴
昨夕、波豆川から大船山へ登りました。大船山へは十倉からは数回登ったことがありますが、旧大舟寺の参道でもある波豆川ルートは初めてです。
大舟寺跡にて 枯葉の積もったカサカサふかふかの道。歩きやすいです。
峠の分岐 十倉からと波豆川からの道の合流地点
頂上の祠 登山口から45分で登頂。 風が冷たかったけれど視界は抜群でした。
逆光で悪い写真ですが、肉眼で明石方面の海がしっかり望めました。夕陽に光ってとてもきれいでした。
雲が重たくて夕焼けは見られませんでしたが、六甲、北摂の山々はもとより大阪のビル群も眺望出来ました。
登山道には1町~13町まで町石が置かれており、古の参道であったことがうかがえます。
紅葉はすでに終わり、落葉樹が裸木になって・・・山は晩秋から冬へ移り変わっているのを感じました。 冬の山も静かでまた良いものです。
私は十倉ルートより今回の波豆川ルートの趣が好みだなぁと思いました。
隣の家の角を曲がって官舎の方へ降りていく坂道。
一棟(右)が建て替えられていました。「築50年以上の官舎(全10棟)が1棟から建て替えられるらしいわよ。歴史的なことよ。」と母から聞き、見に行きました。子供の頃、各棟にたくさんの友達が住んでいて、官舎周りで毎日の様に遊んでいました。お父さん方のお仕事柄、どの子も数年で転校しちゃって・・・小学校の頃はしょっちゅうお別れ会をやってました。そんなこんなで、ここもまた懐かしい場所なのです。
庭の獅子柚子が今年もたわわに。大きさが子供の頭くらいあるのです。形状が脳みそみたいでしょう? そのうち送ってくれるらしいのですが楽しみなような・・・使い切れるか不安なような・・・。柚子ご飯や柚子味噌をいっぱい作ろうかな。
八千代台駅にて。↑すごく懐かしい、ツートンの車両です!今もこの色があるとは。驚きました。
帰路は、八千代台→日暮里→東京(エコと会って)→新大阪→大阪→新三田 の経路で帰宅しました。 往路は乗り換え3回、復路は乗り換え4回。
短い帰省でしたが、めいっぱい充実した時間を過ごしました。 「帰省の写真」ではローカルな事ばかり書きましたこと、ご了承ください。
さて、二日目の朝、早起きして東習志野方面へウォーキングへ出かけました。降下塔を経て三山のテレビ電波塔まで行ってUターンして帰る予定でしたが、小学校や中学校へ寄って感傷に浸っていたら時間が無くなったので、至らず。次の帰省では必ず三山まで行きます。
西のエコの家(実家)の近くのもみじ。きれいだった~。
西のバイク屋さん とても古そうな、「動くの??」って感じのバイクばかり店内にありました。一番ごつい感じのバイクをガラス越しに撮りました。
玄関と壁の看板に「公民館」としか書かれていなくて。「〇〇公民館」って書かれていないところがいい感じです。 西と東習志野の境辺り。
私が通った中学。 3年の時の思い出深い教室は今は多目的教室?みたいなのに使われていました。そう言えば3年の時、私の組で野良犬を飼っていて、担任の小山先生共々みんなで可愛がっていました。給食の余りをあげたり。教室が一階だったので、生徒も犬も外から自由に出たり入ったりして、いつも床はドロドロでした。授業中は誰かの足元で寝ていたり・・・1組の人気者で、卒業アルバムにも載りました。いい思い出です。
テニスコート エコもテニス部(軟式)だったけれどペアじゃなかったね。私はコミ(小宮さん)とペアだったから。コミどうしてるかな・・・
下校時によくこのコンクリート塀を駆け上がる遊びをしていました。結構面白いんですよ。下からだだだっと。西小の前。
帰省した時の写真がしばらく続きます。八千代市や八千代台の人が見たら「ああ、あそこね!」と解るかもしれませんが、他府県の人が見てもどこだか解らず面白くないので、しばらく見なくてよいと思います。
さて、帰省時にも書きましたが、兄の入院する病院から実家までの道のりは、ほぼ高校時代に自転車で通った通学路です。今回、懐かしさで歩いてみました。
兄に「また来るから。」と言って出た病院前。 複雑な気持ちで見上げる空が青くて寒かった。
国道16号線 ここをひたすらまっすぐ手賀沼まで、よく自転車で行きました。
ふるさとの川、新川は色々な思い出がたくさんある川です。冬は自転車で川沿いを走るのがとても寒かったです。時々氷も張りました。 (宮内橋の上から。)
小さな川ですが、昔は漁(川魚?)をしていた様で、今も川に木船が何艘か浮かんでいます。漁を生業にしていた人の家が堤防に残っていましたがすでに廃屋でした。そしてそこに猫達が数匹棲みついていました。何故かどの猫も太っていて・・人なつっこく可愛い猫達でした。
新川サイクリングロード
ブロンズの立っている村上橋を渡って球場、体育館、市民会館を通り過ぎて警察の前を市役所方面へ上がった所に、素敵な自転車屋さんが出来ていました。「自転車じて吉」!店名も良いですが、このマーク!!!!
カエルと自転車・・・私が好きなものの組み合わせではありませんか!しかもリアルな感じのカエルが自転車を漕いでいる、という素晴らしいセンス!!!! お店に吸い込まれそうになりました。
県道262 通称、成田街道。
市民の森(北) イチョウの落葉が積もっていました。森からは実家まで10分くらい。日が暮れて寒くなったのでこれ以降、写真は撮りませんでした。
新しいお店が出来ていたり、古くからあるお店が健在だったり、変わらない景色が嬉しかったり・・・高校時代は自転車で通り過ぎていた風景一つ一つが検証出来ました。寒かったけれど歩いてみてよかったです。
昔は自由に入れた習志野原です。幼い頃によく兄や兄の友達と広大な野原を駆け回りました。戦争ごっこや爆竹、キャンプもどきな焚き火をしたり・・・危険なことも楽しいことも、広大な野原で大らかにやりました。
春はわらびやたらの目を採ったり川でおたまじゃくしやドジョウも獲りました。今は周囲が住宅地で囲まれて地図で見てもずいぶん縮小されてしまいましたが、30年前は敷地が今の倍以上はあったようです。
帰省すれば必ず近くまで寄って見るのですが、有刺鉄線に囲まれ遠くから眺めるだけです。
大阪駅 11番ホーム サンライズ瀬戸 東京行き 14号車乗車口
入線! 実物のサンライズだ!!!! 感激。
14号車に乗りました。(シングルB個室) 10号室でした。↑部屋のロック
明るい室内、少し湾曲した広い窓 お布団・枕・パジャマ
コップ完備
時計・空調・FMラジオ・照明他 スリッパ完備
通路 ラウンジ 洗面所
↑私が泊まった10号室(灯り、点けっぱなしでした)
さようなら、サンライズ瀬戸。いつまでも乗車してどこまでも行きたかった・・・ またぜひ乗りたいです。
名前と言えば、今回の帰省で初めて解ったことがありました。
父の名前の由来です。
父は健市(けんいち)という名前ですが、「市」の字が使われている意味が実は今までよく分からなかったのです。
内訳:
父の父(亡き祖父)は大工で、父が生まれた頃は東京は都(と)ではなく東京市だったそうです。
「東京市でたくさんの家を建てたい」と言う気持ち意で「市」を使い、最初は『建市』にしようかと思ったが、
にんべんが付く「健」の字を使い「健市」に名付けた、と。
意外に込み入った由来でした…。(第一子が生まれた時の祖父の意気込みでしょうか。)
母も知らなかったそうです。父の生存中に聞いておいてよかったと思いました。