偕楽園内好文亭近くに徳川斉昭が書いた偕楽園記の石碑がありますが、その裏にも漢文で「禁條」が彫られています。碑の後に樹木があってほとんど見ることができず、上の写真は辛うじて撮れたものです。短いので下に全文をあげてみます。
厳しい倹約令で、生活に潤いがなくなるのを補いたいという気持が徳川斉昭にはあったようで、藤田東湖らの改革派もあまり乗り気でなかった偕楽園建設を押し進めたようです。
凡(およ)そ園亭(偕楽園)に遊ぶ者、卯(う 午前6時ごろ)に先だちて入り、亥(い 午後10時ごろ)に後(おく)れて去るを許さず。
朝の6時ごろから夜の10時ごろまでいてよかったようですから、今よりゆるやかだったようです。
男女の別、宜(よろ)しく正すべし。雑沓(ざっとう)以(もっ)て威儀を乱すを許さず。
男女同伴はだめだったようです。また、武士と庶民の入園日は区別されたそうです。雑沓でも礼儀を失してはいけないということでしょう。
沈酔謔暴(ちんすいぎゃくぼう)及び俗楽も亦(また)宜(よろ)しく禁ずべし。
泥酔したり、ふざけたり、あばれたりすることや、三味線などの楽曲などの楽しみも禁じたようです。茶を飲んだり、瓢箪・吸筒(すいづつ)の酒を酌み交わしながらウメをめでたり、詩歌などの宴を開くことは許可されたようです。
園中、梅枝を折り梅実を采(と)るを許さず。
今もそうですが、梅の花(枝)・実をとってはいけなかったようです。斉昭は、早くから苗を育ててその実(種)をまかせたり、モモの台木にウメを接ぎ木しろと命じたり、他藩から水戸にない品種を取りよせたり、いろいろと努力していたようです。
園中、病(やまい)無き者の轎(かご)に乗るを許さず。
園内に病人以外、かごに乗ってはいってはいけないとありますが、これは武士用でしょう。
漁猟禁有り、制を踰(こ)ゆるを許さず。
魚や獣を獲ってはいけない、規則を破ってはいけない。魚はともかく、獣は何が獲れたのでしょう。水戸城本丸あたりは猪山とも言われていたそうですから、イノシシなども出たのかもしれません。