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水戸の見て歩き

水戸の酒の話(13)

2021-04-10 20:37:48 | 水戸

 佐竹氏の家臣だった大和田重清の日記には、佐竹氏の水戸在城時代のことが書かれているそうです。灯火用にはロウソクの提灯を用いたとか、肉では、キジ、イノシシ、タヌキを食べたとか、主食は粥、湯づけだったとか、接待の多い武家で酒は客用に宇都宮酒、普段はどぶろくだったとかいったことがあるそうです。写真は、常陸太田市天神林町2404にある、佐竹氏の祈願寺だった佐竹寺です。

 

 岩根村の庄屋だった薗部(そのべ)氏の邸宅を、徳川光圀が雀躍亭(じゃくやくてい)と名づけたそうです。後年、藤田東湖が雀躍亭を訪ねて痛飲し、酒ですった墨で書いたという掛軸が今に残っているということです。写真は飯富市民センター(飯富町4449-8)にある雀躍亭にあった4代藩主宗堯(むねたか)が座ったという腰掛石です。

 

 天保13年(1842)に、徳川斉昭が養老会を開いたそうです。千波村に101歳の老婆がいて、招かれたものの、歩行できないからと断ったそうです。それを聞いた斉昭は籠(かご)に乗ってと伝えると、籠からおりても、好文亭の庭の中も歩けないから無理だとの答え。斉昭はそれでも構わないと伝えて、当日は籠のままのお目通りをしたそうです。斉昭手ずから肴等を渡し、盃と紋付をこの老婆一人だけに与えたそうです。写真は養老会が行われた好文亭内の東塗縁(ひがしぬりえん)です。

 

 武田耕雲斎の屋敷に藤田東湖がやってきて酒を飲んだそうです。耕雲斎は体裁をつくる人だったそうで、それをきらう東湖は、耕雲斎が書物の内容を問うても、自分は学ぶことはできても、他人に教えることはいまだに知らないといって、馬鹿話ばかりしていたそうです。また、庭へ小便をしたり、雨が降ってくると、尻っ端折りをして、はだしで帰って行ったそうです。写真は弘道館で見た木彫東湖像です。

 

 横山大観は、酒井捨彦(すてひこ)の長男で、21歳の時、母方の親戚である横山家の養子になったそうです。明治維新後、窮乏した父・捨彦は、磯浜村(現・大洗町)に水戸から引っ越して酒屋を開業したそうです。秀蔵(大観)は酒の空樽を回収して町を回ったそうです。「雪の日や あれも人の子 樽拾ひ」という句があるように、大変な仕事だったようです。樽拾いは、酒屋の丁稚のことをいったそうです。大観は後年、岡倉天心の酒教育で、酒仙になったようです。写真はヒロサワシティ会館前にある横山大観碑にある彫像です。

水戸の酒の話(12) 

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