ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にある碑の題字を書いた人

2020-07-13 20:06:21 | 水戸

伝万世碑(吉田神社 宮内町3193-2)
 今は中台から上が壊れてしまっている大灯籠ですが、以前も地震で壊れたようで、それを修復したという記念碑が明治29年に建てられたようです。万葉仮名らしい漢字で書かれています。佐野常民(つねたみ)が題字(伝万世)を、鹿島則泰(鹿島神宮宮司)が文を書いています。佐野は、佐賀藩士で、藩の海軍育成に携わり、明治維新後は、海軍の創設にかかわったそうです。大蔵卿や枢密顧問官になり、西南戦争後に博愛社をつくり、それがのちに、日本赤十字社となって、その社長になったそうです。

 

 

仰景碑(常磐神社 常磐町1-3-1)
 徳川斉昭の治政と徳を慕った12軒の農家の人たちが、御陰講(みかげこう)をつくって斉昭をたたえ、斉昭等を祀る常磐神社には、1200株の杉の木を植えたりしたそうです。明治31年に、福羽美静(ふくばびせい)の題字(仰景碑)、栗田寛の文で碑が建てられたようです。福羽は津和野藩出身で、平田派国学者として活動し、明治維新後は、神祇政策に携わったり、侍講になり、後、元老議員や貴族院議員になったそうです。

 

 

忠魂塔碑(回天神社 松本町13-33)
 回天神社の前身である、昭和8年に建てられた忠魂塔の由来を記した碑のようです。題字(流芳万古)を田中光顕(みつあき)が、碑文を徳富猪一郎(蘇峰)が書いています。田中は、土佐藩出身で、幕末から維新後にかけて政治に携わり、警視総監、学習院院長、宮内大臣などになったそうです。大洗にある幕末と明治の博物館を創設したそうです。

 

 

水戸戊辰殉難慰霊碑(祇園寺 八幡町11-69)
 幕末の争乱で殉難した諸生派の人たちを慰霊して、昭和9年に建てられた碑だそうです。室田義文(よしあや)が題字(恩光無辺)を、諸生派の家から出たジャーナリストの朝比奈知泉(ちせん)が文を書いています。室田は、水戸藩士で、外務省に入り、特命全権公使、貴族院議員、第百十国立銀行頭取、水戸育英会長などになったそうです。ハルピンでの伊藤博文遭難の際には、主席随行で、自身も負傷したそうです。天狗派だったそうですが、両党ともに祀られるべきと、碑の建設に協力したそうです。

 

 

高倉長八郎、新太郎事跡頌徳之碑(くすりの司命堂(河和田3-2329-1)左隣)
 司命丸は徳川家康から水戸徳川家に伝えられた保命長寿の薬だそうです。高倉家は、その製造頒布を任されて、財を成したそうです。その高倉家に生まれ、幕末から明治かけてに生きた長八郎、新太郎父子の頌徳碑があります。長八郎は、幕末、天狗派を援助して、活動の後押しをしたそうですが、そのため、身辺危険となり、水戸を離れ、京都で活動したそうです。蟄居中の岩倉具視に、その警備のため、鯉沼伊織(のちの香川敬三)を紹介したりしたそうです。新太郎は河和田村長、県会議員、郵便局を開いて長になったりしたそうです。昭和45年に建てられた碑は、佐藤栄作が題字(愛国)を、歴史学者の肥後和男が文を書いています。佐藤は山口県出身で、総理大臣を3期つとめたそうです。岸信介の弟で、ノーベル平和賞を受賞したそうです。

徳川家の人たちが書いた題字


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