倹約をもっぱらとした徳川斉昭は、絶対に大名が使用するはずのない、昼食には漆の重箱を使わずに骨柳(こり)弁当箱(柳の枝を組んでつくった弁当箱)を使ったり、雨の日には蓑(みの)を着たりして、周囲を驚かせたそうです。写真は、柳製でなく竹製のようですが、水戸市立博物館(大町3-3-20)で開催された昭和浪漫展で展示されていた弁当箱です。柳製も似たような感じだったことでしょう。
好文亭3F・楽寿楼から、外国船が海岸に近づいたことを知らせるのろしを見るのに、竃神社の森が妨げになるということで、それを伐採することを命じたそうです。たぶん、境内にある上部が切られた大ケヤキはその際のものでしょう。近くにある吉田神社(宮内町3193-2)の樹齢300年の大ケヤキも同じような姿になっています。これも、ひょっとすると同じことだったのかもしれません。写真は吉田神社のケヤキです。
蕃書調所が創設されたとき、斉昭は、あくまでも国学を基礎として、その後に儒学、最後に洋学を位置づけるべきであることを主張したそうです。儒学にせよ、洋学にせよ、相手を知ることが自らの防禦になるという考え方が基礎にあったようです。写真は昔撮った蕃書調所跡(千代田区九段北1-3-2)の表示です。
初霜という名器の茶わんを、100両で買い上げを請う者がいて、斉昭は自分が作る楽焼きの手本にしようと、近臣に語ったそうです。するとその内の一人が「このような器物は何か武道に用いるところがあるのでしょうか」といったそうです。斉昭は笑って買うことをやめたそうです。もし長次郎の黒楽茶わんだったら100両(今なら高くて1千万円くらいでしょう)は安いような気はしますが…。
ウメの木を植樹するとき、台木にモモの木を用いると花の咲くのが早くなるのでよいが、モモは長持ちしないので、台木とともにウメも枯れてしまうので、深く植えるように。そうすると、桃は根となり梅からも根が出て枯れることがない、といった、実に細かい注意を斉昭は関係者に伝えていたそうです。
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