2024年 ポタリング 大堀川水源地から国道6号線呼塚橋際(2)
※ 「2024年 ポタリング 大堀橋水源地から国道6号線呼塚橋際(1) へ
右岸を「つくばEX」高架下の橋下を過ぎ、その先のカーブを曲がると「美田駒木橋」です。護岸を上り、この橋を渡って左岸に向かいます。左岸へ下るスロープは、なだらかでした。「美田駒木橋」は、「おおたかの森東」交差点際にあり、斜め前には「柏の葉公園」へ向かう午前中に渡った「おおたかの森橋」を直近に見る橋です。写真でもわかるように大堀川両護岸、2つの橋とも大変良く整備されており、「「つくばEX」と共に新しく造成開発された場所」というイメージが感じられました。
(水源地から少し下った「美田駒木橋」より川上をのぞむ ⑫)
(「美田駒木橋」より左岸へ下るスロープをのぞむ ⑬)
(川下「おおたかの森東」交差点と「おおたかの森橋」をのぞむ ⑭)
「十太夫橋」を過ぎるとアシやヨシが河原に繁る開けた場所に出ます。地図上「防災調節池」となっていますが、左岸を来たAには、よく見えませんでした。大堀川は、ここで流れを東に大きく向きを変えます。少し下ると「新駒木橋」が見えてきます。付近の両岸は、住宅地が迫っています。
(「新駒木橋」より川上をのぞむ ⑮)
大堀川左岸、「新駒木橋」たもとの施設から勢いよく水が大堀川に注水されていました。大きな電光表示板と1棟の建屋、「大堀川注水施設」の説明看板が柵にくくりつけられています。それまで澱みのようだった川が、大量の注水を受けて、目にも明らかに「流れ」が変わったようです。注水量は、「1㎥/s」と後から知りました。
※ 北千葉導水路
利根川(我孫子市布佐)と江戸川(松戸市主水新田(もんとしんでん))を繋ぐ28.5kmの人工河川水路。利根川より約3/4区間は埋設管路、残り江戸川まで1/4は坂川放水路。3つの主な役割は、①台風・大雨による川の氾濫防止のための利根川・江戸川への内水排水。②江戸川に送水することによる都市(東京・埼玉)用水の確保。③水質汚濁の激しい手賀沼の水質浄化。
これから向かう大堀川左岸の一部地下に埋設導水路があることや、目の前の激しい注水が、手賀沼の水質浄化の一環であることも説明看板で知りました。手賀沼CR沿いの「北千葉導水ビジターセンター」に導水路に関しての広報施設があるらしいので、言ってみる気になりました。
(「新駒木橋」右岸より「大堀川注水施設」をのぞむ ⑯)
(北千葉導水路「大堀川注水施設」 ⑰)
(「大堀川注水施設」説明看板)
(「大堀川注水施設」注水口から大堀川への注水 1㎥/s)
大堀川左岸の遊歩道は、水源地手前の「つくばEX」高架下より、国道6号線直前の「木崎橋」まで、舗装されているようです。
「駒木橋」を越えたあたり左岸に「遠上樋管」があり、川幅1mも無いような「流れ」が川床の状態によるものか、白く泡立って早瀬のようになっていました。「先ほどの注水施設の威力で、手賀沼の汚濁浄化・希釈が、目立たないところで進んでいる!」と感じました。余り聞かない「樋管」という名前を目にしたので、樋管(ひかん)・樋門(ひもん)・水門(すいもん)をググってみました。
※ 樋管 樋門 水門
堀・用水路など堤内の水路などが、より大きな川に合流する時、合流する川の水位が洪水などで高くなった場合、その水が堤内に逆流しないように設けた施設が、樋管・樋門・水門。樋管・樋門は、堤防の中にコンクリートの水路を通し、ゲートを設置したもの。構造が丸い管状で規模も小さいものを樋管、箱形構造で規模の大きなものを樋門と呼びますが、明確な区別を設けない場合もあります。水門は、堤防を分断し、ゲートを設置したもの。ゲートを閉めた時は、堤防の役割を果たす。
樋管・樋門の区別は、分かりづらいですが、水門はわかるような気がします。大堀川を下るに多くの樋管が設けられているようで、資料によれば、両岸合わせて20近い「樋管」の名が列記されていました。
(大堀川左岸遊歩道脇の「遠上樋管」 ⑱)
(「遠上樋管」前の大堀川の流れ)
「青葉橋」を過ぎて「天神前樋管」が見える所は、桜並木のある幾分幅広い場所で、「高田の水切場」へ向かう用水路沿いの入口(案内看板は無い)がありました。風も無い快晴の中、用水路沿いの静寂な畑地中の道は、のどかでポタリングを楽しむこの上ない一服の時でした。数分後、何の変哲も無い車道の向こうに立て看板「うなぎ道と高田の水切場」がありました。立て看板の他には、全く何もありません。
※ 「うなぎ道と高田の水切場(みずきりば)」(要旨)
江戸期の古文書にもありますが、利根川や手賀沼のうなぎは、大変美味しく江戸の人々に喜ばれました。当時、利根川の布施河岸と手賀沼の呼塚河岸からうなぎを運ぶ2つのルートがあり、この「高田の水切場」で交わりました。さらに、駒木・市野谷を経て江戸川の加村河岸(流山)から舟に積まれて、消費地の江戸に向かいました。加村河岸までの行程約14km、3時間余りの道中でしたが、うなぎは他の魚と異なり生きたまま運ぶため、途中2ヶ所、およそ1時間毎に馬から下ろし、水に浸し、生気を取り戻させました。また、馬に積むときによく水を切ったので「水切場」という名が付きました。この「高田の水切場」は湧水でしたので、うなぎの体力回復ばかりでなく、運ぶ人夫や旅人の喉をも潤しました。
(「青葉橋」を過ぎると左岸に「天神前樋管」 ⑲)
(桜並木広場と「高田の水切場」へ入る用水路沿い入口 ⑳)
(「高田の水切場」へ向かう用水路沿いの田舎道 A ㉑)
(「うなぎ道と高田の水切場」の看板のみ ㉒)
史跡も湧水跡も無かった説明看板のみの場所から「うなぎ道」を300m東に向かい(㉒写真の上方向)、交差点を右折して大堀川「新橋」に出ました。わずか300m走った「うなぎ道」には地図上「諏訪道(すわみち)」の名称が付いておりました。
※ 「諏訪道」
「うなぎ道」である利根川(布施河岸)と江戸川(加村河岸)を結ぶ陸路は、関宿廻りの水路と共に江戸期より明治初期にかけて重要な物資の輸送路でした。銚子から高瀬舟で運ばれてきた海産物や米、うなぎは、布施河岸(利根川)にて付け越し(舟で運んできた荷物を馬に乗せ替えて運ぶこと)されて3時間余り、加村河岸(江戸川)より再び高瀬舟に積み替えられて江戸へ送られました。この陸路は、諏訪神社(流山・豊四季)への参詣者が往来した信仰の道でもあったため「諏訪道」とも呼ばれ、古くから東葛・下総で広く信仰を集め、江戸からの多くの崇敬者が来ました。
「新橋」より2つ川下の橋は「勝橋」ですが、その先には、大堀川「西前田樋管」に上がるスロープの上り口に「うなぎの水切場」の説明看板がありました。説明の内容は「高田」のものに及ばない簡単なものですが、川沿いのため現実味があります。また、「うなぎ道」(諏訪道)から直線で100mも無いようなので、時代時期の違う別の「水切場」かもしれません。樋管に上がるスロープの手すりには「うなぎ籠を載せた馬を引く人夫」の透かしのオブジェがはめ込まれておりました。ここは、ブッシュに隠れて見逃すような場所にあり、樋管上より見下ろす大堀川の澱みには、鯉の魚影も数匹見えました。
(大堀川「西前田樋管」の「うなぎの水切場」説明看板 ㉓)
(大堀川左岸「西前田樋管」)
(「西前田樋管」スロープの手すりにはめ込まれたオブジェ)
(澱みの鯉の魚影)
昼1時半を過ぎていました、事前に、近くの台地を上がった場所にうなぎを食べられる店の目星を付けておきましたが、のれんが出ておらず空振りに終わりました。
駐車場を出立した頃は、風もあり寒く感じましたが、昼をまわると快晴で気温も上がり風もほぼ感じられなくなりました。川沿いの遊歩道にも自転車や散策する人が多く出始めました。食事のチャンスを失い、気力の萎えも手伝って、一気に「木崎橋」そばの「地金堀樋管」まで下って来ました。
目前の国道6号線と物流施設「ロジポート北柏」は、それ以前のアサヒビールの頃より馴染みがあり、国道を通過するたび目にしていましたが、その「呼塚橋」をくぐり遊歩道を通る機会は、一度もありませんでした。ポタリング計画の時から、6号線をくぐって大堀川沿いを手賀沼に行くことは、Aのチョットした期待と楽しみになっていました。
「弁天池」の染み出すような湿地と水溜まりのような「こんぶくろ池」の水源が、「地金堀」から「地金堀樋管」を通って大堀川に注ぐ様子を目の当たりにするに、何か感慨深いものを感じます。大堀川左岸沿いの道は、「地金堀樋管」の先はありません。「木崎橋」に戻って、右岸に渡り、「呼塚橋」脇の階段を下りて、橋直下の河原沿いのコンクリート河川敷を行く予定でした。
(「ロジポート北柏」真横の「地金堀樋管」 ㉔)
(「地金堀樋管」この先の道はありません)
「呼塚橋」の手前は、チョット開けた野原になっており、時間は2時をまわっていました。「柏の日没は5時、自宅帰着は明るいうちに!」、空腹の身体に「安全 無事 迷惑」の意識が働いたのかもしれません。ここから戻ることにしました。
「木崎橋」より右岸を進み「青葉橋」で左岸へ、右岸はボロボロの舗装路と草地・露地でした。左岸を下る途中、対岸に人影の少ない訳が分かりました。「流山総合運動公園北側駐車場」へは、大堀川沿いを西行き、「おおたかの森東」交差点を経由して50分ほどで着きました。
結構、楽しませてもらったポタリングでした。
(国道6号線「呼塚橋」直下の大堀川右岸コンクリート河川敷 ㉕)
下記ルート図中の①~㉕は、文中写真の番号を示しています。
(2024年1月24日ポタリングルート)