こんなに長く

2009-05-27 21:31:14 | 日記風
 私のいる所に前に住んでいたのは編集者の人だ。
 まだ荷物があった時部屋を見せてもらった。ウォーターベッドが自慢だったらしくわざわざそれだけ紹介していただいた。部屋にありあまるベッドがあったことがまるで昨日のように思い出される。

 いらないからと鏡台を置いていってくれた。
 備え付けの筈の靴箱は持っていかれた。
 お陰で私の家に長らく靴箱がなかった(笑)

 ウォーターベッドもいらないからと置いていかれることはなかった(笑)

 唯一気になることがあるといえばその方が50近くになって独身でいらしたことだろうか。

 結婚するから越したという部屋の物件もあるから・・・そういうの知ってるから気になるだけだ。

 もしかしたら、そういうところも引き継いだのかしら?
 そんなに長くいるとも思えなかったのに。
 
 なんて長い月日が経ったのだろうか。
 今日はなんだか家にいるのが嫌になって外へ出た。

 家の周りの住人の騒音が聞こえてくるとそんなことを思い出してしまう。

初恋が終わった日

2009-05-27 17:57:30 | 日記風
 人の言葉に縛られることがある。
 恋って意外とそんなところから始まりませんか?
 
 気づいていなかったけど過去を思い返してみると、あの時あの人が言った言葉がその人に惹きつけられる原因になった。そう感じる時がありませんか?

 その言葉が罪にならなければいいんだけど・・・。

 あの人が言ってくれたは、恋に落ちるパターンのように思います。
 その一言である人が特別な人になっちゃう。
 その言葉が胸の内に生きているから恋がいつまでも続く。

 実際今も側にいる人じゃなくても。いつも胸の中に時がきたら爆発する爆弾のようにある人の言葉がある。

 あの人がいってくれたから。

 何かのきっかけで爆発する。
 やけぼっくりに火がついてなんてこんなものかもしれません。
 
 そうなってくると罪です。
 時限爆弾は1度爆発したら終わりだけど恋にまつわる言葉はもしかしたら永遠に時限装置が作動し続けるかもしれない。何度でも何度でも時期を置いて。

 罪だ。それが罪じゃなくて何が罪だ?

 何らかの形で成就しちゃえば消える言葉かもしれない。明白な別れがあれば思い出として葬ることができるかもしれない。

 じゃなかったら一生の時限装置を背負ったままかも。
 
 そうなってくると、経過を確かめてみるのも面白いかもしれない。

 時は長い。いつか答えが見つけられるかもしれない。
 あの人の言葉を葬る日が来るかもしれない。

 そしてその日を初恋が終わった日と思えばいいだろう。

響く言葉

2009-05-27 15:32:20 | 日記風
 死去と言う言葉がやたら耳に付く日です。個人的なことではなく、テレビだったりインターネットのニュース記事だったりです。

 それでも重い言葉になります。

 昨夜親戚から電話があり、家の家族の病気のことで「どうしてこんなことになったのか・・・」と言われたことが尾を引いている。

 言われてもね。答えなんてないですものね。
 少なからずどうしてそうなったのかより、これからどうしていくか、今、どうやって現実と向き合っていくか・・・それしかないですものね。
 別に家の場合は死に直結する話ではないですが、いつ終わるか判らないことは出口が見えないと言うことですから・・・却ってどうしていいか判らないというのはあります。

 私が物事、人に相談しながら進める方じゃないっていうのもあります。私がやっと落ち着いた頃、周囲に話が行き、今更そんなことをって話題になってしまうらしい。
 
 けれど決断しなきゃいけない時にのんびり相談してられない。
 選択肢は決まってますし、直接回りにいるものが決めるしかないのなら余計な相談はいりません。
 解決させることを優先させなきゃいけない。
 そんな事情もあります。

 親戚というとどうしても年齢の高い人が多くなりますから、余計繰り言が多くなる・・・病気というのは自分自身にも差し迫った問題だったりします。

 最後は「頑張ってね」となるんなら、自分でやりますわとなってしまう。
 
 似たような問題を抱えた方と話す機会がありました。そっちはそっちで大変らしいです。
 気の強い女は不必要に大変です。
 最終的にそう思いました。

 だから「どうしたらいいの・・・」と泣き崩れてるくらいがちょうどいいと思うんだよな。
 できないけど。

 これもそこれも親に似てると思うと皮肉なものです。
 
 なるたけ今週末までは外に出るようにしたいものです。天気もいいですしね。
 じゃないと私・・・いろんなものが溜まり、なまりだします。

稽古場で迎えてみたいこと

2009-05-27 13:02:33 | 日記風
 どうでもいいけど稽古中で誕生日を迎えたことがありません。
 巡り合わせなのか、稽古と言うものによほど縁がないのか。
 
 ちょろと聞いたけど、例えば野球の選手がどんなに活躍していても誕生日がシーズンオフにあるとやはり試合中に誕生日を迎えることがないらしい。
 そりゃそうだわな~。

 これから書いてることが増えたら、書いてはいる。書いてはいるが家で1人淋しく書いてるだけで迎える・・・となってくるのだろうか。

 と言いつつ、最近は私の誕生日を知る人がめっきり少ない。

 言って楽しいことがあるのか?
 そこが疑問なのだ。

 20を過ぎたら誕生日禁止令を出した方がいいと本気で思う時がある。
 20を過ぎたら年はとらない。

 いいじゃないか、それで。成人したんだ他に何がいる?

 子供が「ママおめでとう」と祝ってくれたら嬉しいだろうか。
 恋人とか夫が祝ってくれると言うところが抜け落ちていますが、抜け落ちるもんですよ。
 結婚するまでは恋人からプレゼントをもらったのに恋人から夫になった彼に現金をもらって複雑な心境になる・・・とかあるらしい。
 現金でもいいじゃないか、もらえれば。

 プレゼントと現金の差の意味がいまいち判らんな。
 家は親からも現金をもらっていたぞ。

 「あんたは難しい」そうです。

 1度稽古場というところで誕生日を迎えてみたい。
 が、どうも今年もかぶりそうにない。
 そして誰も私の誕生日をしらない(笑)

乞うご期待!

2009-05-27 00:00:00 | 戯曲塾
 劇作家コースの中でやってきて今まで大きな勘違いがあったことに気付いた。
 誰からも指摘されたことない。

 してもらって気づくことでもなく自分で気づけば良かったことだ。

 気づいとらん。なんとなく予感があった程度だ。

 それでも続けてきたことに意味があり、今、勘違い?と気づける自分がいることでいいのか?

 判断はとても微妙だろう。
 微妙だが早くて良かった。
 これからも勘違いし続けるよりは傷は浅いと言いたい。

 それしかないし。

 ここから何に気づきどこへ向かうか・・・。

 このところ、この数年間何を書いてきたのだろうと考えるのだけどどうも判らない。思い出せるものもあるんだけど(といかファイルを開けば一発だ)下らんものを書いてきた気がしてしょうがない。

 限られた時間の中でやっていればそんなことも起こるだろう。

 今年は、ここ数年の集大成を自分の中で出す時が来たんだと思う。

 自分自身に乞うご期待。