恩師のご著書「講演集」より
講演集、 二
人は生まれにより、その行いによって尊さが出る――イエスの生誕
先の続き・・・
結婚前に身重になってできた子は「神のみぞ知る」であって、
普通の人々は何と言ったでしょう。
恐らく父なし子不倫の子呼ばわりをしたはずです。
婚約者ヨセフは貧しい大工左官の職人だったそうです。
イエスは世のあざけりとさげすみの中で成長されたのだと思います。
逃避と苦難の成長期に間違いありません。
後にイエスは言われました。
「私は世の人々のすべての苦しみを理解することができる。
それは、私はそのすべてを体験してきたからである」と。
人間イエスは生まれた時から、
普通の我々の味わい得ない苦しみ悲しみの十字架も背負っておられました。
生まれは貧しく、非難中傷を受け易い環境を選ばれ、
その中であらゆる苦しみ悲しみを体験して、愛を学んでいかれたのです。
自然界の法則では、
天と地と、プラスとマイナスと、陰と陽、雄と雌、男と女が縁に触れて和合し、
初めて種の保存が成立するようになっています。
尤も最下等の動物では雌雄両性を持つものもあり、雌雄どちらにも変性するものもあり、
細胞が分裂して種の保存をするものもありますが、自然の法則では、人間は男女の縁に
よって子供が授かるのが当然です。
ゴータマ・ブッダ釈迦牟尼仏が摩耶夫人の腋の下からお生まれになって、その場で七歩
歩かれて、片手を天上に挙げられ片手は地を指して「天上天下唯我独尊」とおっしゃった
と仏典に書かれています。
これも普通の常識では考えられないことです。
では、なぜこんな非常識なことが仏典や聖書に書かれているのでしょう。
洋の東西を問わず遠い昔から、
人間離れした偉大なるお方は普通の人間のような生まれ方はされないという言い伝えがあり、
偉大な方を神格化する思想がありました。
人々は皆そのように思っていたのです。
そこで、その思想のままに書き残されたものだと思います。
信じる信じないは人それぞれの自由です。
しかし自然が神のみ姿であり、自然が神御自身であれば、
自然に背いて神の御使いが現れるはずがありません。
このようにしてイエスは、
人間社会において最も厳しい環境を自ら選んでお生まれになりましたが、
その生涯を通して、思いにおいて、言葉において、行為において、
神御自身の愛をお示しになりました。
人は生まれによって尊いのではなく、
その人の生きざまによって尊いのであることがよく分かります。
私たち人間は生まれによって尊いのではありません。
その人の行いによって尊さが出て来るのですね。
だから、たとえ総理大臣であろうと、
この世のどんな素晴らしい家柄に生まれた方であろうと、
その人の行為、想念、言葉が正しくなかったら、その人には何の尊さもありません。
逆にどんなに貧しい家柄に生まれても、処女懐妊でも非処女懐妊でも関係なく、
その方が神の愛を行った時、その行為がその人を尊くします。
「法は実践の中に生命が宿ることを知れ」です。
~ 感謝・合掌 ~