~ 恩師の御著書「講演集」より ~
講演集、 一
「心を入れ変えた息子さん」
大阪のTさんの子供さんは、
手の付けられない子だったそうです。
私は知らないのですが、思い余った母親が、
何とか話を聞かせてやってもらえないかと連れて見えたそうです。
大学四回生です。外に出る時、
必ず「履物を揃え」と言うんだそうです。
お母さんが履物を揃えるんですね。
ちょっとでも曲がっていると「もっと真っ直ぐにせい」と言って、
納得がいくまで直させる。
母親は「私はあなたの嫁とは違うで」と言いながら直す。
しかしその通りにしてやらんと怒ります。
また夕飯の時間もキチンと、一分違ってもいけない。
おかずは何が何グラム、
何は何グラムという具合で高く付くんです。
それは大変な息子さんで、後になって聞いたのですが、
気にいらんことがあると、
物はぶつける、お母さんを殴る、お膳はひっくり返すと、
しょうがなかったようです。
その子を連れて見えたので、何か話をせなしょうがないから、
「あなたはあの世はあると思いますか」と聞いたのです。
「僕は見たことないから知らん」と言います。
その通り、見たことがないのだから知らんのは当然です。
しかしあると仮定して、
ではこの世とはどういう所だと思いますか、
と質問をしたのです。この世――それは
あの世の地獄と極楽のちょうど中間に幻のように現れている世界、
それが、この世の存在です。下は地獄、上は極楽。
その中間に物質化現象として現れている世界、物質と化し、
形として現れているのがこの世です。幻のようにね。
オギャーと生まれて成長して五十年、百年で皆消えて行く存在です。
特に口にいただくものは早く消えて行きます。
お饅頭、お蜜柑、いろいろご馳走を出していただいても、
今、目の前にあるものはあたかも実在しているが如くにありますが、
いただきます」と言って口に入れたら、
もう完全にこの世から消えております。
「お饅頭は本当はないんですよ、
ただ形として現れただけです」と言いましたら、
どなたも皆、「いや、ここにある、
あなたは頭がおかしいのではないか」と言われます。
しかしいただいたらもう二度とこの世には現れません。
消えた存在です。ご飯にしてもおかずにしても全部同じです。
ここにある綺麗なお花も同じです。
今こうして存在しているが如くにありますが、
しかし時間が経てばこの花はしおれてしまいます。
水遣りを忘れたらこの葉もなくなります。
すべてが現れた世界に、
或る方は砂袋をつり下げたようにしてぶら下がっておられます。
砂袋とはその人の心です。
砂を一杯詰めた砂袋をぶら下げて人生の旅をしている。
心の軽い方は風船玉かアドバルーンをあげるように、
上に浮きあがりながら人生の旅をしている。
心の軽い方は、心の世界で風船が浮かんでいるようなものです。
心の重い方は重いからぶら下がってしまう。
しかし心の重い方も軽い方も肉体の命のある限りは、
この世から離れることができないでいます。
命の糸が切れた時に、軽い人は必ず上に上がります。
重い人はストレートに下に落ちて行きます。
行く先はおのずと決まっております。
それじゃ、その砂の材料は一体何だと思いますか、
とその息子さんに聞いたのです。
「分かりません」という返事。それで、
砂の中味は怒り、妬み・・・、
自分の心の中にどれだけ砂が詰まっているか
想像してみて下ください。