恩師のご著書「講演集」より
講演集、 一
「無我の体得」とは
先の続き・・・
私にはああいう生活はできない、
いっさいそういう時間は与えられない。
でも肉体を持って生まれていますから、
いいなあとは思います。
しんどい時は休みたいなと思います。
しかし、そういう自分を完全に捨てて
人さまの中に生きさせてもらった時、
自分、自我はないのです。
自分があったら、こんな馬鹿げたことはできません。
これは無我の体得、無我の生活、
自分自身のない生活です。
そして神の「僕(しもべ)」であり、
自ら人々の僕としてこの世に生まれ、
人さまに使っていただくために生きて行くのです。
その時、私たちは、自分が本当に
神の御子だということを知りますね。
有我の間はそんなことは思いもできません。
だから常に僕であることです。
私の所に来ていただいたら反省会(禅定)のあとで、
私は皆さんにおやつを分けるのですが、
来て下さった方は坐って有難うございますと言って受け取ります。
心ある人は「先生にそんなことしていただいては勿体ない」と言って
代わってして下さいます。
「いやいや、ここの先生は男衆です」―――
「おとこし」とは僕のことですね。
―――といって、私は履物を揃えさせてもらったり、
お茶を汲ましてもらったり、おやつを分けさせてもらったりして、
神の僕、人々の僕となって生きる実践をしております。
常に周りの方々のお役に立たせていただけるような日々を過ごすことが
大事です。
家庭の中では両親に対して、ご主人に対して、
或いは奥さんに対して、又子供に対して
自ら僕となって仕えた時、周りの方は
必ずそのままでは置いておけません。
この人は大切な人だ、
大事にしなくてはいけないと今度は高く持ち上げてくれます。
私は偉いのだと反り返っていますと、
人々は下へと引きずり下ろします。
私は恵まれた環境をいただいて、
こうして日本国中を回らせていただいております。
私にはいっさいの求める心がない、ただ、
させていただいているだけで、
何ものをも求めません。
この心があるから、あの世のすべての霊を救うことが許される。
なぜかと言うと、霊の世界でも、救われない霊もあれば、
深く修業した霊なども一杯あるからです。