浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

肉体の限度にいどみ人救う
愛の行い我が内の神

「御垂訓」

2021-03-13 23:29:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

              講演集、三

          子供は親に目覚めを導く


今から十三年前、私の家内がくも膜下出血で突然亡くなったのです。
或る日、突然、子供二人を残して亡くなってしまいました。
その時、下の子は中学三年生、上の子は高校三年生でした。
まあ、子供たちにしてみたら、突然、母親を失ってしまいまして、
上の子はまあよかったのですが、
下の子は中学三年で一番心の揺れやすい年ごろであり、
不安定な日が続いたのです。

ちょうどあくる年は、上の子が大学入試、下の子は高校入学という時期でした。
下の子はさびしいものですから、つい友達の所に遊びに行き、
そしてだんだんと、夜、帰ってくるのが遅くなる、
そういうことが続いているうちに、夜、帰ってこなくなりました。
家内がいてくれましたら、「お前、留守番していてくれ、わしが探してくる」とか、
或いは「お前のしつけが悪いから、こんなことになったのだ」とか言って、
喧嘩もできるのですが、一人ぼっちになってしまいますと、喧嘩をする相手も
いないのです。

そうしているうちに、上の子は大学に合格して、寮に入ったのですね。
ですから、今度は下の子と二人です。
夜、十時になっても十二時になっても、帰ってきてくれないのです。
その時、十時になっても十一時になっても十二時になっても、
帰ってきてくれないのです。
その時の辛いことは、言葉では表しようがありません。
ほんとうに自分自身に与えられる苦しみであれば、自分が耐えたらいいのですけど、
子供を通して与えてもらう苦しみは、子供が立ち直ってくれなければ、
それはどうすることもできないのですね。


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「御垂訓」

2021-03-13 00:11:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

                  講演集、三

              偶像は神理を伝えない


先の続き・・・

私たちが今まで神と思ってお参りしていたこの世の神様は、
全部人間が作った神様ですね。
宮大工が社(やしろ)を建て、ご神体なるものを人間がこしらえたのです。
こういう言いかたをしますと、宗教関係の方からお叱りを受けるかもしれませんが、
これが神理ですから、逆らうことはできないはずです。

「我が屋の神様は重要文化財で、値のつけようもないありがたいものだ。
お前のは何を言うのか」と叱られた時は、このように言おうと思っています。
ちゃんとその答えは出ています。
「では、お宅の神さんはものを言われますか。お宅の神様に私が頼んだら、
ちゃんと聞いてくれますか」―――。

これは聞こえるはずはないのです。
ものも言えない神が、どうして神理を伝えてくれますか。
答えることはできないはずです。
妙な力のある神様が祀ってありますが、あれは神様ではなくて、
悪しき霊が入っているのです。
これは人に災いを起こします。

私は、今まで数えきれないほど、神様と称する霊をお救いしました。
祀った神様に、「この社の中に祀られているものはよく聞きなさい。
あなたは神でも仏でもない」と言い聞かせますと、
神様は「はい、はい」と聞いています。
これはほんとうのことです。
そして、供養をしますと、いっぱい詰まっていた霊の方が皆、反省に入られ、
懺悔をされ、きれいな魂となって、救われていかれます。
たとえ何千何万の霊の方でも、いっぺんに救うことができます。
これがほんとうの法の力です。


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「御垂訓」

2021-03-12 01:04:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

  恩師のご著書「講演集」より

              講演集、三

          偶像は神理を伝えない


「多宝塔だと」いって、大きな塔を建てた人があります。
あれはA宗教で、信者さんに多宝塔を買わせて、
千日講といって千日拝むのだというのですが、
そんなものを拝んでも、何の意味もありません。
モーセは、「偶像を信仰してはならない」と言っておられます。
偶像とは、人が手をもって作った形あるものです。

人間がその手をもって作った物は、
その材料が金であっても木であっても、
又、ちゃんと目があり、鼻があり、口があり、
手足までついていても、動くことはできません。
偶像は動かないものです。
目がついていても、見ることはできませんし、
耳がついていても、聞くこともできません。

口がついていても、ものを言うこともできない、
そんなものがどうして人を救うことができるでしょうか。
聞くことができないものに、
こちらからいくら頼んでも聞こえるはずはないし、
話すことのできないものが、どうして神理を伝えてくれますか。

形ある人間が作った偶像は、見ることも、
聞くことも、喋ることも全くできません。
なぜかというと、その中には神の命がないからです。
神の生命が通じていないから、生きるものとは違うのです。
神とは、人が作ったものではなく、人を造り給うた自然の力、
これこそ、ほんとうの神様です。


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「御垂訓」

2021-03-11 00:08:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、三

          内なる神理、すなわち多宝塔


私たちは日々の生活で、自分の心を安らかにして、
自分の心を苦しめないようにして、
そして悪い事はできるだけしないように努力することです。
失敗はしてもかまいません。
再び繰り返さないようにすることです。
過ちを犯してもかまいません。
すぐに悔い改めることです。

私たちは過ちを犯すように作られているのですから、
「私は悪い人間だ、私は罪人だ」と思って、自分を責めてはいけません。
人は神の子であり、たとえ罪を犯しても、その罪を犯すことによって、
罪を犯した時の苦しさを学ぶようになっているのです。
何をしてもよいけれど、しかし過ちは即、悔い改めていくことです。
そして、少しでもよい行いをすることです。

よい行いとは、人々に喜んでもらうこと、
自分の身の周りの方に喜びを与えることです。
これは誰でも実践できる道です。
寒いのに、池の氷を割ってその中で、「摩訶般若・・・」と唱えても、
護摩を焚いて「ハァー、ヤァー」とやっても、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と
何万回唱えても、何にもなりません。
百回の護摩を焚くよりも、ただ一言の正しい神理を聞くことのほうが、
どれほど価値あるかわかりません。

お釈迦様は、「何日間も食べずに厳しい肉体行をすることよりも、ただ一言の
ほんとうの言葉を聞くほうが価値がある」と、おっしゃっています。
ただ一言の正しい神理を聞くほうが尊いし、またありがたいのです。
私が話していることは、すべて神理です。
そして神理は、ほんとうは外から聞くものではなく、自分の内から聞くものです。

こうしてお話させていただきますと、お話は無限に湧き上がってきます。
途絶えることはがありません。
汲んでも尽きないように湧く井戸のようなものです。
これを、「パーニャパーラーミータ」すなわち、
「内在された智慧」といいます。
この内なる智慧こそ、ほんとうの神理ですね。
皆さんのお一人お一人の心の内には、神理が詰まっております。
自分の内に、ちゃんと神理が内在され、奥にしまってあるのです。
これを多宝塔とも言います。
仏教でいう多宝塔です。


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「御垂訓」

2021-03-10 00:23:43 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

         私たちの想念は現象化する


私たちは環境の中に生きていると、錯覚を起こしておりますけれど、
ほんとうは自分の心の中に生きているということを知ってください。
心の在り方の中に生きているのです。
どれほど厳しい環境の中に生きておりましても、
その環境を喜びに変えることができた時、
その環境はまた整ってきます。
厳しい環境に打ちひしがれて、泣き苦しみ、悲しんでおりますと、
良くないことがまた起こってきます。

あるお宅で、何か良くない出来事が起こりますと、
人はつい不安に囚われます。
「ああ、また悪いことが起こるのと違うか」と思います。
すると、その暗い想念が、又次の災いを呼ぶのです。
人生はいろいろなことが起こって当然、それは、喜び事よりも、
苦しみ悲しみのほうがより多く与えられるようになっております。

もし、苦しい出来事が起こった時は、「これぐらいで済んで有難い、
これも人生の学びの一つだ、ああ、結構なことだ」と、
笑い飛ばしてしまいますと、次の災いは起こってきません。

「ああ、恐ろしい、また同じことが起こると恐い」と思いますと、
想念はものをつくります。
思いは物質化現象として現れてきます。
想念とはエネルギーです。

この現象世界、形として現れているのは、
想念によって現れているのです。
私たちの思いによって、良くない想いを持ちますと、
必ずその良くない想いが現象化します。

良くない中にあっても、良き想いにチェンジして、
感謝、喜びに変えた時、その良くない出来事は続かないのです。
喜びのほうに心を向けますと、又、喜び事が訪れます。
どんなことがあっても、自分の心を苦しめてはいけません。
これは神のご意志に背きます。

神のご意志に背いて、幸せになれるはずがありません。
私のテープを聞いていただいたら、毎回、
このことはしゃべっていると思います。


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「御垂訓」

2021-03-09 00:35:22 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

        この世における償いの法則三つ


しかし、この世には償いの法則というのがあるのですね。
犯した罪は自分が償わなければなりません。
まず、その罪の消滅のために、「善行を積むこと」です。
亡くなった方は意識の世界ですから、悔い改めれば許されます。
しかし、この世に生きて肉体をもっておれば、過ちを認めた時、
これを悔い改め、そして償いの善き行いを積むことによって
贖罪することができます。

中国の方は、それを短い言葉で「止悪作善」と言って、
悪をとどめて善を積みなさいとお説きなっています。
私たちはあのAさんの幼な子のように、綺麗な心で生まれてきたのです。
神が私を通して現わされるその光を、あの幼な子が見ておられるのです。
だから礼拝をされます。

それが成長するにつれて心を暗くしていきます。
怒り、憎しみ、不安、増上慢によって、
やがて心を真っ黒にしていきます。
ではどうしたら、この真っ黒になった私たちの心を
また元のあの幼な子の心に戻せるかです。
まず怒り、憎しみ、妬み、愚痴、恨みを止めることです。
即、断つことです。
それに代わって、今度は善い行いを積み重ねていくと、
いつの間にか清らかな心に戻るはずです。
これが善き行いによる償いの行為です。



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「御垂訓」

2021-03-08 00:05:20 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

 恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

          先祖供養の窮極の目的


先の続き・・・

「もし、お仏壇の中に意識を持っておられるご先祖様がおられましたら、
私の申し上げることをよく聞いて下さい。
仏壇の中に思いを残しては、成仏ができないのです。
あの世とこの世とは、世界が違います。
私たちは、この世を去れば、ほんとうの心のふるさとに帰ります。
仏教では極楽と申しております。
キリスト教では天国と申しています。

その世界に帰ってこそ、ほんとうの成仏ができるのです。
ですから、この地上から一切の思いを離して下さい。
この地上において生活された五十年、
百年の間をよく振り返ってみて下さい。

私たちは、この肉体の故に、或る時は腹も立てました。
又、愚痴、恨み、憎しみを持ちました。
そのような時、皆様の心は如何だったでしょう、
苦しくはなかったですか」と、
聞いてみるのです。

苦しいのは当たり前ですね。
「その苦しみこそ心の錘となって、
その為に光の世界へあがることができないのです。
ですから、よく自分の人生を振り返って、
自分の行いを反省し、心の苦しみを
作った原因があれば、まことの神にお詫びしなさい。
その時、必ず心は安らぎます。

心が軽くなります」といって、話をさせてもらいますと、
皆さんが自分の人生を振り返ってくれますね。
「自分の心を苦しめたことによって、
天にあがることができないことを知って
下さい」と話をさせてもらって、三分から五分経ちますと、
仏壇がパァーと
光り輝いてきます。

仏壇に触れもしないのに光り輝いてくるのはなぜかと言うと、
その仏壇の中におられた諸霊が、極楽へ行って下さったからです。
そう思います。
即、変わります。
長い時間は要りません。
心から悔い改めた時、私たちのどのような罪も過ちも許されます。


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「御垂訓」

2021-03-07 00:11:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

         講演集、三

       先祖供養の窮極の目的


先の続き・・・

その証拠に、こういう例があります。
或る宗教を信仰される方が、
拝めば拝むほどご利益があるのだと言って、
いっぱいの霊を集めて拝んでいたのです。
その場所が狭いお宅だったらしくて、
箪笥の上に祀ってあったのですね。

南無妙法蓮華経と一年ほどやっておられて、
夜、その人が休まれてうとうとしていると、
その霊が箪笥の上からドスンと飛び下り、
ミッシミッシと歩いてきて、ガッつと体を押さえます。
その方は金縛りになって、もう動けないようになるのです。
これはえらいことだと思って、さらに一生懸命拝みますと、
又、晩になると出てきます。

そういうことがずうっと続きました。
それで、「拝むのをやめなさい、止めてみなさい、
そしたら、それが無くなるでしょう」と言いまして、
その人が拝むのを止めますと、
その晩から下りてこないようになりました。
一生懸命拝んで霊を呼んでいるのです。
そして自分が押さえつけられています。

こんな結果がなぜ出るかと言いますと、
成仏されていない証拠なのです。
私はどこかへ行って、
お仏壇にお参りさせてもらいましても、
まあ三分から五分の時間です。



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「御垂訓」

2021-03-06 01:05:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

         先祖供養の窮極の目的


さまざまの宗教は、先祖供養を主としてやっているのが多いですね。
この先祖供養の窮極の目的は何か―――。或る宗教では、六親眷族の中の
一人でも多くの死んだ人を寄せ集めてきて拝んだら、功徳があると言って、
それに戒名をつけてもらって、もう何百体という親戚縁者の死んだ人を集めて、
一生懸命に拝んでいます。

これは、もし悟っておられる方であれば、戒名を付けようが、
名前を呼ぼうが、あの狭い仏壇の中には来られません。
悟ったお方はもう自由なのですから、もしも、そういうものに救いを求めて
こられる諸霊があれば、これは成仏のできていない未成仏霊ばかりです。
そういう方をいっぱい自分の家の仏壇にお招きしますと、必ず良い結果が
出ません。

先祖供養の窮極の目的は、この現象の世界から思いを離して、
ほんとうのふるさとへ帰っていただくことです。
天上の世界ですね。
それ以外に、先祖供養はないと思います。
一般の先祖供養をなさっている古い宗教、或いは新しい宗教がありますけど、
それは窮極の目的を知らないで手段をとっているだけです。

例えば、物を供える、お経をあげる、或いは線香、ロウソクを供えるのですが、
こんなものでは成仏できないのです。
成仏どころか、「ここにおれば安心だ、ここにおれば、お経も線香も供えてくれる、
ああ長いこと放ったらかしにされていたけど、ここにいたら安心だ」と言って、
却って霊をその場所に留めてしまって、成仏できない結果になります。
執着を与えるのです。




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「御垂訓」

2021-03-04 23:59:54 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
      恩師のご著書「講演集」より

               講演集、三

        先祖供養はまず己が成仏すること


先の続き・・・

私たちの子供は「病気で苦しい」とか、
「貧乏だから叶わん」とか、
「お金を下さい」とか、「喧嘩ばかりして悲しい」とか、
言ってきたとしたら、
親の立場としてどんなに苦しいか分かりません。

代われるものなら代わってやりたいと思いますが、
肉体をもっていても、
代わってやることはできません。
死んだら、今度は急に力が出るのかと言うと、それは出ません。
親が子を思うように、先祖様も私たちを思って下さいます。
可愛い、いとしいその血縁の者が、
嘆き苦しむのを喜ぶご先祖様はどこにも
ありません。

ましてや、罰を当てるご先祖などがあったら堪りません。
ご先祖様が祟ったとかいいますが、
そんなことはあるはずがないのです。
しかし、ご先祖様が迷っておられますと、
苦しい故にその苦しみを訴えて
こられる場合があります。

もし、頭痛、腹痛で、それを肉体の苦しみということを
悟ることができない方は、
あの世へ行っても苦しんでおられますね。
そういう方がもし苦しみを訴えてこられた時、
肉体を持った自分の可愛い子供に、
同じように現れる場合があります。
だから、罰を当てておられるのとは違って、
救いを求めておられるのです。
そこを誤解してはいけません。


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「御垂訓」

2021-03-04 00:29:25 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

      恩師のご著書「講演集」より

               講演集、三

         先祖供養はまず己が成仏すること


ご先祖様についても、同じことが言えます。
ご先祖様を地獄へ落とそうと、極楽へお上げしようと、
それは私たちの生活態度の中にあるのです。
「南無妙法蓮華経」または「南無阿弥陀仏」と言って、
三時間も四時間も拝んでいても、
自分たち親が喧嘩ばかりして不調和な生活をしておりましたら、
いくら拝んでも駄目です。

ご先祖様に成仏していただこうと思えば、まず己が成仏し、
自分が救われることです。
ご先祖様というのは、私の上にはお父さんお母さんがあり、
そのお父さんお母さんの上には、又それぞれお父さんお母さんがおれれます。
三十代溯っただけで、なんと、十何億という数になるそうです。
だから十何億というご先祖様の尊い縁の凝固したのが、私たち一人一人です。
ですから、何々家先祖代々という一本の筋かと思いますと、
そんなものとは違って膨大なご先祖様の筋があるのです。

それこそ十何億という大勢のご先祖様の因縁を頂いて生まれた私たちですから、
その大勢の方の良いところ、悪いところを頂いているはずです。
今、肉体を頂いた自分が救われた時、自分に縁あるご先祖様は成仏して下さいます。
自分が苦しんで迷っていて、どうしてご先祖様を救うことができますか。
ご先祖様の前で自分の悩みや苦しみを聞かせることが大変先祖不孝です。


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「御垂訓」

2021-03-03 00:04:15 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

   恩師のご著書「講演集」より

             講演集、三

         師、親の価値を決めるのは自分


高橋信次先生はもう古いと言って、掲げていた先生の写真を下ろして、
法を説いていられる方があります。
私は生きている限り、先生のお写真は下ろすまいと思っております。
私の死んだ後は知りません。

尊い師を地獄に落とすのも、天上の世界に上げるのも、
私たち弟子の行いの中にあります。
それは、親子の関係でも同じことが言えます。
価値ある親にしようと、価値のない親にしようと、
それは、子供の生き方の中で決まるのです。
もし、子供が世間様に対して恥ずかしい行いをやってくれたら、
親はどれほどつらい思いをしますか。

そして、あの子があんなだから、親もあんな人間だろと言って、
親の値打ちを落とします。
親を悩ませ悲しませると、自分を生んでくれた親をさえ地獄へ落とします。
心配をかけ、夜もオチオチ寝られないような心配をかけたら、
親の心は地獄です。

正しき道を日々に行じ、
そして喜んで安心していただくように私たちが生きた時、
「あの親あって、あの子があるのだなあ、あの子あってあの親はある」
親は立派だと、親を極楽へ上げることができます。
価値ある親にするのも、しないのも、
私たち子供の肩にかかっているのです。




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「御垂訓」

2021-03-02 00:02:07 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
   
 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、三

           大樹に実る神理の実


私は大地にしっかり根を張らせて、
地震や大風に遭ってもビクともしないような
大樹になりたいと思います。
その大木にはいっぱいの実をならせて、
小鳥とか栗鼠とかが私の実を思う存分食べてくれたらいい。
「この木の中はいい場所だな、ここにいれば安心だ」と思えば、
私の木の中に巣を作ってくれても結構、
実をいっぱい食べて満腹すれば、
又、余所へ飛んでいってくれても、これも良し。

その母なる大地に自分の根をしっかり下ろして、
神から栄養を頂き、
そして、神理の実をみのらせることです。
真理の実はいくらでも実のってくれます。
その実を皆さんが好きなだけ食べてくれたらいいのです。
心の糧としてもらったらいいのです。

飛び去るもよし、あの実はやはりうまかったと言って、
帰ってきてもよろしい。
常に実をならせ続けたい、
そのような存在でありたいと思っております。
去る方は自由です。

来てくれる方はこれも自由です。
いっぱい私の実を食べて下さい。
私の実は神のみ言葉です。
神理です。

それを日々の生活に実践していただいたらいいのですね。
去るもよし、来るもよし、風とか地震とかに
揺れ動かない不動の心、
その不動心をつくって常に神の実をならせ続けていきたい、
このように願っております。

私から離れたら罰が当たるとか、そんなことは言いません。
言わないのが自然の姿だと思います。
ほんとうに為になるものならば、必ず集うてきます。
自分がどうこうは考えなくてもいいのです。
その証拠は、このように私のつたない話を全国の縁ある方々に
聞いていただくことが証明です。


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「御垂訓」

2021-03-01 02:50:04 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、三

           誤った信仰の怖ろしさ


先の続き・・・

そして生き返りまして、神の許しを頂きました。
それから四、五年経ちますが、まだ生きていられます。(一同大笑い)。
その先生が、また講演の中でおっしゃっているそうです。
「あの人は二月十五日に死ぬという命を、
私が神に交渉して延ばしてあげました」と。
誠に口は便利なものです。
口では大阪の城も建つ」です。

あのまま放っておけば、あのお母さんは、ものこの世の人とは違います。
完全に死を迎えていたのです。
ところが、ほんとうの神の許しを頂いたら、その場で生き返りました。
それを今度は、「私が命を延ばしてやった」と言います。
間違った指導者の教えを信じてしまうと、とんでもない不幸になります。
悪くいけば、命さえ失います。

誤った信仰を盲信、狂信すると、その言葉の力をより強く受けます。
その恐ろしさを体験させてもらいました。
これと同じようなことが、いろんな宗教で起きます。
偉い人だと信ずれば信ずるほど、その人の言葉は力を現わします。
ほんとうの正しい教えならば、人の命などを予言はしません。

神のみがお知りになることであって、
私たち人間が「ひとの命」を予言することは、人の道にはずれていることですね。
或いは自分に縁ある方を取られまい、離すまいとして、
私から離れた者は罰が当たるとか、私から離れた者は抹殺するということを、
口に出したりします。
それは自分から逃げられたら困るからです。


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