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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(80) 銅鐸の謎(その6)

2018年09月07日 21時26分30秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(80)  TITLE: 銅鐸の謎(その6)
書籍名;「悲劇の金印」 [1992] 

著者;原田大六 発行所;学生社
発行日;1980.10.1
初回作成日;H30.8.26 最終改定日;H30.9.7
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 原田大六著の「銅鐸への挑戦」5部作の後の完結編の位置づけで、彼の遺稿にもなっている。つまり、最後の第11章は、目次にはあるが、彼の文章はない。代わって、関係者で纏められた文章が示されている。
万葉集の中の古代歌を詳しく解読し、古代日本の神々が、銅鐸の文様と絵に表されているという主張は最後まで一貫している。この巻では、日本書紀と古事記では明確に示されていない、紀元前後の小国の関係を示し、最後の倭国大乱によって、統一への動きが一気に加速したとしている。それは、銅鐸族と金印を所持していた奴国の敗退であった。

 冒頭には著者の遺影があり、続いて代表的な銅鏡と銅剣の写真、「序」では、「遺稿編集委員会」を代表した元九州大学学長による思い出が語られている。更に、奥さんの「原田イトノ」が夫婦で経験した、台風の目の中での状況が語られている。いずれも、それまでに発行された諸本の裏付けとなる話となっている。
 台風は、現代でも計り知れない被害をもたらす。天気予報もない当時の人びとの、恐怖はいかばかりであったろうか。

 本文は、問題の金印が発見された状況について、粗末な遺跡で伴出物もなく、扱い方が異常であったことを強調している。それが、この本の題名に表されているというわけである。
 青銅器文化の全体像としては、次のようにある。

 『青銅器文化は、日本においては片寄った受容形態を生じていった 。武器は武器でなく、鐸は鐸でないものに変形していった。私はそれを「実用品から非実用品へ」「小形から大形へ」と 、用途と形態上から述べてきたが、もちろんそれでは充分ではない。そこに所有の変化が現れていたし、所有に対する観念の相違が発生していた。
青銅器の原材輸入による青銅器の鋳造は、日本列島上に特殊な現象を発生させた。青銅器の鋳造も、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸というものに限られていて、それらの受容地にも、変化があった。か つて社会史家によって、銅鐸文化圏・銅矛銅剣文化圏などと二つに分けていたのは過去の夢物語になってしまった。そんなことではなくて、大きな変動がきたのである。銅鐸も銅剣・銅矛もすべては北部九州に樹立された筑紫王国を経過しなければならなかった。』(pp. 161)
 
ここで、「筑紫王国」という青銅器文化の中心国が明示されている。

 『青銅祭器、それは特殊遺跡といって、何等の伴出物がなく、青銅器だけが単独に発見される。それらを銅鐸・平形銅剣・広形銅戈・広形銅戈と称しているのであるが、それらが 何であるかは知られていなかった。特に銅鐸は謎の最大のものであるかのように考えられてきていた。しかし、それら四種の青銅器は、そこに共通する要素を持っていて、銅鐸だけを別格扱いにすることはできない。私はこれらを単なる青銅器でなく、農作物の豊作を祈った御神体と考えた。』(pp. 164)
 このことが、彼のすべての著作の出発点であり、かつ着地点でもあった。以下、「筑紫倭王」についての記述が続く。その内容は、すでに「銅鐸への挑戦」5部作で語られている。

 第11章は、3つの表題のみが記されている。奪取された国王権、金印の隠匿、処刑されたか、奴国王である。それに続けて、「第11章を考える」という文章が、以下のように示されている。

 『原稿はここで終わっている。本書『悲劇の金印』ではいちばん肝心の結論である第十一章がないので、未完成となってしまった。しかし、目次として予定されていたものを再録すると 第十一章 悲劇の金印
1 奪取された国王権
2 金印の隠匿
3 処刑されたか、奴国王
とあり、頭の中では、原稿はできていた、と考えられる。その証拠には、「序章 金印のゆくえ」を再び読まれたらご理解いただけると思う。各章のあらましの説明の後、最後の第十一章では、「文化財としては最高の地位を占める金印は、ここで、最低に突き落とされているのである。』(pp.197 )

続いて、「思い出」と題して、彼の遺稿整理の状況が詳しく語られている。膨大な資料が残されてしまった。残された問題は、悲劇の金印と古事記の中の逸話の結び付けだった。

『海幸彦は、海上の権益(青銅器原材料輸入の権益)を持つ長として、倭王の使者を務め、漢の光 武帝から「漢委奴国王」の金印を貰ったと考えられる。 しかし、金印は、邪馬台国の女王、卑弥呼が魏の皇帝から貰った「親醜倭王」の金印が実証するように、倭王が貰うべきもので、金印は倭王をさしおいて、諸国王が貰うべきものではなかったのである。    それを、諸国王である奴国王が貰ったところに、「漢委奴国王」の金印が、あの志賀島の海岸近くの、二人持ちの石の下に隠される運命となり、海幸彦が、山幸彦に負ける要因のーつになったと考えられる。』(pp.205 )
 つまり、奴国王は「海幸彦」なのである。当初、活発に活動した海幸彦は、最終的には山幸彦に負けてしまう。著者は、この話に金印のいきさつを当て嵌めたわけである。

 最後は、次の文章で結ばれている。この結論から考えることは、彼は日本の神話、記紀、遺跡の状況、中国との関係、諸々の文献などを総合的に融合されて、最適解を求めたというメタエンジニアリング的な思考法であった。勿論、彼の説は日本の学界では、未だ認められていない。

 『本書において、原田先生の新説の主なものは、筑紫倭王のもとに将軍、その下に諸国王という階級制度があったこと、筑紫倭国の版図を明らかにしたこと、伊都国が青銅鏡や青銅のインゴット(素材)の輸人元であり、漢への輸出品としては、日本の別名を「豊葦原瑞穂国」と称した「米産国」 であるその生産物の米などであったこと。なお、献上品としては、織物、生口を献上している。後背地から青銅の素材と交換に米を集めたが、米が集まらない場合は、戦いをしかけたこともあり、 そのときの捕虜を奴隷、つまり生口として献上したのである。これらの新しい見解は「平原弥生古墳ー大日變貴の墓』の報告書の中にも取り入れさせていただいた。
このように、読者のみなさんに、原田先生の身近にいた人たちの想い出を中心に情報を提供してみた。原田先生が悩みに悩まれた第十一章である。われわれは簡単に結論は出せない。読者の皆さんが、何らかの結論を皆さんめいめいで出してくださっていただければ幸である。 原田大六先生遺稿集編集委員会 委員長 神田慶也 』(pp.231)