メタエンジニアの眼シリーズ(87) TITLE:成長と発展
書籍名;メタエンジニアの眼シリーズ(87)
「技術力で勝つ日本が、なぜ事業でまけるのか」 [2009]
著者;妹尾堅一郎 発行所;ダイヤモンド社
発行日;2009.7.30
初回作成日;H30.9.1 最終改定日;H30.9.21
このシリーズは経営の進化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
副題は「画期的な新製品が惨敗する理由」、まさに昨今の日本企業のありさまである。
半導体の例をとって、最新技術開発に成功しても、知財権をとっても、国際標準を取っても、事業で負けるのは何故か、を問うている。
第1章で挙げられている問題点は、「成長growth」と「発展development」の違いが分からない人が多い、ということ。
・「成長」と「発展」の」違いを理解する
「成長growth」については、『「 成長」と「発展」の違いを理解するには、“モデル” という補助線を引いてみると分かりやすいでしょう。ここで言うモデルとは「仕組み(構造)、仕掛け(機能)、仕切り(マネジメント)」 のセットのことです。 「成長」とは、既存モデルの量的拡大のことです。人の身長はある年齢まで成長しますが、頭髪 はある段階からマイナス成長です。』(pp.3)
「発展development」については、『「発展」とは、既存モデルとはまっ く異なる新規モデルへの不連続的移行のことなのです。 青虫と蝶々が同じ生き物であることを我々は知っています。 しかし人類は最初に、この二つが同じ生き物であると認識できたでしようか。おそらく別の生き物だと思ったに違いありません。青虫はサナギになるとどうなるか?これは生物の先生に教わったのですが、サナギの中でいったん細胞がすべてドロドロにな ってしまうそうです。細胞の組み替えが行われ、そして蝶々に変態していくわけです。モデルが 変わるというのは、そのくらいすさまじいことなのです。』(pp.4)
というわけである。
つまり、日本は多くの新分野で「モデルを変えられて負ける」というわけである。
日本の製造業は、生産性向上に力を入れ、実績を出し続けている。しかし、一旦イノベーションが起こると、それまでの生産性向上は無になってしまうことが多い。
・メタ領域という概念
著者は、第3原則として、「システム的な階層構造上、常に上位のモデルのイノベーションが競争優位に立つ」としている。
『あらゆるモデルは、すべて「システム的な階層」の中に位置づけられます。あるモデルは階層上のアッパーモデルの下位に位置づけられ、またそのモデル自体も下位にサブモデルを持ちます。 そのサブシステムの下にはさらにサブ・サブシステムがあります。すなわち、システムには必ず アッパーシステムとサブシステムがあるということです。これがシステム論の基本です。 そして、上位のモデルが他のモデルと入れ替えられれば、当然、下位モデルの生存は危うくなります。例えばレコードシステムからCDシステムへとシステム全体が移行してしまうと、いくら従来システムのサブシステムであるレコード釘で画期的な製品をつくったとしても、それはもうほとんど意味がなくなるということです。』(pp.13)
・プロダクト・イノベーション
『画期的な生産性向上を起こす生産プロセスモデル自体を洗練させるプロセスイノベーョンは 、根本的に製品モデル自体を変えてしまうプロダクトイノベーションを起こされたら勝てないのです。レコードの生産性を画期的に向上させる生産上のプロセスイノベーションを起こしたとしても、CDが出現してしまえばそれは無に帰すということです。』(pp.16)
・日本企業における、事業化の問題
『多くの大企業では、どんなに素晴らしい技術が開発され製品化が検討されたとしても、年商1〇〇億円程度の規模が見込めなければ事業化は断念されてしまうことがあるという点です。結果、その技術はなんとお蔵入りしてしまうのが通常です。 もし、こういった技術が地域の中小企業に移転されるならば、あるいは、それらの技術を開発した者が中心になって「スピンオフベンチャー」の形で事業化を進めたら、どうなるでしょうか。明らかに新規事業の創出として、日本の産業生態系の活性化に寄与するはずでしょう。』(pp.33)
このことは、私自身の経験の中にも明確にある。
・診断書
300ページを超える分析の結果の診断書としては、以下の項目が挙げられている。第1は、垂直統合的な自前主義の傾向が残っていること。
『これは同時に、従来の「イノベーション=インベンション」といった「科学技術がイノベーションの必要十分条件」であった時代から、「イノベーション=インベンションXディフュージョン」すなわち「科学技術は必要条件であるが、十分条件としてビジネスモデルと標準化を含めた知財マネジメントの摺り合わせ」の時代への移行を意味しています。すばらしい技術を開発すれ ば(自然に)イノベーションが起こるというテクノロジープッシュモデルの神話はもう卒業しなければならない、ということなのです。』(pp.325)
具体的には、
『ブラックボックス化した自社の独自技術を、一方で権利化とノウハウ秘匿によって封じ込め、他方で他の部材とのインターフェイス(形状とプロトコ1ルの規格化)をオープンにしてインターオペラビリティ(相互接続性)を確保するやり方です。これにより「与力」は増え、結果として、市場の拡大がなされます。』(pp.327)
・知の新領域の創出モデル
従来の知の体系を「成長」させるのではなく、「複合して発展」させること。
新領域の知の体系は、先端知、学際知、間隙知、融合知、横断知、上位知を挙げている。
『学問では既存の学問体系が当てはめられます。理学、工学、化学、生物学、医学、薬学といったものが入るでしょうし、あるいは経済学、経営学、法学、 社会学、教育学といったものです。その既存の学術体系を先端に伸ばすだけでなく、他にも五つの新領域の形成が可能なのです。 この柱を、事業組織体として見たり、ある いは製品群として見立てたりしてみてはいか がでしょうか。こういったフレームワークを使う、新たな発見が次々と起こるものです。』(pp.379)
・読後の感想
1.「成長growth」と「発展development」の違いを明確にしなければならない。成長の中に発展はない。この言葉は、もっともだと思う。
このように、日本語の定義が曖昧だったり、使い方に問題がある(多くの場合に、深く議論せずに、感覚的に解釈を決めてしまう文化の影響か)場合に起こる、矛盾や不適合が、他にもたくさんある。
2.「日本は技術力で優っている」は、間違いだと常々思っていたが、そのことも明確に書かれている。日本が勝っていたのは、技術ではなく「技能」だった。技術と技能をごちゃごちゃに使っている。(これも、上に記した分化のせい)
3.著者は、「テクノロジープッシュモデルの神話」と表現をしている。私は、勝っていたと考えられているのは、本物の技術ではなく、「工学的な技術」だと思う。「本物の技術」は、メタエンジニアリングを駆使し、社会科学や哲学をも統合した技術でなければならない。
この原因は、すべて日本の大学の工学教育にある。ヨーロッパでもアメリカでも、優れた大学では、工学と哲学の授業を並行して行っている。この態度が、日本には欠けている。
書籍名;メタエンジニアの眼シリーズ(87)
「技術力で勝つ日本が、なぜ事業でまけるのか」 [2009]
著者;妹尾堅一郎 発行所;ダイヤモンド社
発行日;2009.7.30
初回作成日;H30.9.1 最終改定日;H30.9.21
このシリーズは経営の進化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
副題は「画期的な新製品が惨敗する理由」、まさに昨今の日本企業のありさまである。
半導体の例をとって、最新技術開発に成功しても、知財権をとっても、国際標準を取っても、事業で負けるのは何故か、を問うている。
第1章で挙げられている問題点は、「成長growth」と「発展development」の違いが分からない人が多い、ということ。
・「成長」と「発展」の」違いを理解する
「成長growth」については、『「 成長」と「発展」の違いを理解するには、“モデル” という補助線を引いてみると分かりやすいでしょう。ここで言うモデルとは「仕組み(構造)、仕掛け(機能)、仕切り(マネジメント)」 のセットのことです。 「成長」とは、既存モデルの量的拡大のことです。人の身長はある年齢まで成長しますが、頭髪 はある段階からマイナス成長です。』(pp.3)
「発展development」については、『「発展」とは、既存モデルとはまっ く異なる新規モデルへの不連続的移行のことなのです。 青虫と蝶々が同じ生き物であることを我々は知っています。 しかし人類は最初に、この二つが同じ生き物であると認識できたでしようか。おそらく別の生き物だと思ったに違いありません。青虫はサナギになるとどうなるか?これは生物の先生に教わったのですが、サナギの中でいったん細胞がすべてドロドロにな ってしまうそうです。細胞の組み替えが行われ、そして蝶々に変態していくわけです。モデルが 変わるというのは、そのくらいすさまじいことなのです。』(pp.4)
というわけである。
つまり、日本は多くの新分野で「モデルを変えられて負ける」というわけである。
日本の製造業は、生産性向上に力を入れ、実績を出し続けている。しかし、一旦イノベーションが起こると、それまでの生産性向上は無になってしまうことが多い。
・メタ領域という概念
著者は、第3原則として、「システム的な階層構造上、常に上位のモデルのイノベーションが競争優位に立つ」としている。
『あらゆるモデルは、すべて「システム的な階層」の中に位置づけられます。あるモデルは階層上のアッパーモデルの下位に位置づけられ、またそのモデル自体も下位にサブモデルを持ちます。 そのサブシステムの下にはさらにサブ・サブシステムがあります。すなわち、システムには必ず アッパーシステムとサブシステムがあるということです。これがシステム論の基本です。 そして、上位のモデルが他のモデルと入れ替えられれば、当然、下位モデルの生存は危うくなります。例えばレコードシステムからCDシステムへとシステム全体が移行してしまうと、いくら従来システムのサブシステムであるレコード釘で画期的な製品をつくったとしても、それはもうほとんど意味がなくなるということです。』(pp.13)
・プロダクト・イノベーション
『画期的な生産性向上を起こす生産プロセスモデル自体を洗練させるプロセスイノベーョンは 、根本的に製品モデル自体を変えてしまうプロダクトイノベーションを起こされたら勝てないのです。レコードの生産性を画期的に向上させる生産上のプロセスイノベーションを起こしたとしても、CDが出現してしまえばそれは無に帰すということです。』(pp.16)
・日本企業における、事業化の問題
『多くの大企業では、どんなに素晴らしい技術が開発され製品化が検討されたとしても、年商1〇〇億円程度の規模が見込めなければ事業化は断念されてしまうことがあるという点です。結果、その技術はなんとお蔵入りしてしまうのが通常です。 もし、こういった技術が地域の中小企業に移転されるならば、あるいは、それらの技術を開発した者が中心になって「スピンオフベンチャー」の形で事業化を進めたら、どうなるでしょうか。明らかに新規事業の創出として、日本の産業生態系の活性化に寄与するはずでしょう。』(pp.33)
このことは、私自身の経験の中にも明確にある。
・診断書
300ページを超える分析の結果の診断書としては、以下の項目が挙げられている。第1は、垂直統合的な自前主義の傾向が残っていること。
『これは同時に、従来の「イノベーション=インベンション」といった「科学技術がイノベーションの必要十分条件」であった時代から、「イノベーション=インベンションXディフュージョン」すなわち「科学技術は必要条件であるが、十分条件としてビジネスモデルと標準化を含めた知財マネジメントの摺り合わせ」の時代への移行を意味しています。すばらしい技術を開発すれ ば(自然に)イノベーションが起こるというテクノロジープッシュモデルの神話はもう卒業しなければならない、ということなのです。』(pp.325)
具体的には、
『ブラックボックス化した自社の独自技術を、一方で権利化とノウハウ秘匿によって封じ込め、他方で他の部材とのインターフェイス(形状とプロトコ1ルの規格化)をオープンにしてインターオペラビリティ(相互接続性)を確保するやり方です。これにより「与力」は増え、結果として、市場の拡大がなされます。』(pp.327)
・知の新領域の創出モデル
従来の知の体系を「成長」させるのではなく、「複合して発展」させること。
新領域の知の体系は、先端知、学際知、間隙知、融合知、横断知、上位知を挙げている。
『学問では既存の学問体系が当てはめられます。理学、工学、化学、生物学、医学、薬学といったものが入るでしょうし、あるいは経済学、経営学、法学、 社会学、教育学といったものです。その既存の学術体系を先端に伸ばすだけでなく、他にも五つの新領域の形成が可能なのです。 この柱を、事業組織体として見たり、ある いは製品群として見立てたりしてみてはいか がでしょうか。こういったフレームワークを使う、新たな発見が次々と起こるものです。』(pp.379)
・読後の感想
1.「成長growth」と「発展development」の違いを明確にしなければならない。成長の中に発展はない。この言葉は、もっともだと思う。
このように、日本語の定義が曖昧だったり、使い方に問題がある(多くの場合に、深く議論せずに、感覚的に解釈を決めてしまう文化の影響か)場合に起こる、矛盾や不適合が、他にもたくさんある。
2.「日本は技術力で優っている」は、間違いだと常々思っていたが、そのことも明確に書かれている。日本が勝っていたのは、技術ではなく「技能」だった。技術と技能をごちゃごちゃに使っている。(これも、上に記した分化のせい)
3.著者は、「テクノロジープッシュモデルの神話」と表現をしている。私は、勝っていたと考えられているのは、本物の技術ではなく、「工学的な技術」だと思う。「本物の技術」は、メタエンジニアリングを駆使し、社会科学や哲学をも統合した技術でなければならない。
この原因は、すべて日本の大学の工学教育にある。ヨーロッパでもアメリカでも、優れた大学では、工学と哲学の授業を並行して行っている。この態度が、日本には欠けている。