生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(87)「技術力で勝つ日本が、なぜ事業でまけるのか」

2018年09月21日 09時05分06秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(87)  TITLE:成長と発展

書籍名;メタエンジニアの眼シリーズ(87)

「技術力で勝つ日本が、なぜ事業でまけるのか」 [2009] 
著者;妹尾堅一郎 発行所;ダイヤモンド社

発行日;2009.7.30
初回作成日;H30.9.1 最終改定日;H30.9.21

このシリーズは経営の進化を考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 副題は「画期的な新製品が惨敗する理由」、まさに昨今の日本企業のありさまである。
 半導体の例をとって、最新技術開発に成功しても、知財権をとっても、国際標準を取っても、事業で負けるのは何故か、を問うている。

 第1章で挙げられている問題点は、「成長growth」と「発展development」の違いが分からない人が多い、ということ。

・「成長」と「発展」の」違いを理解する

「成長growth」については、『「 成長」と「発展」の違いを理解するには、“モデル” という補助線を引いてみると分かりやすいでしょう。ここで言うモデルとは「仕組み(構造)、仕掛け(機能)、仕切り(マネジメント)」 のセットのことです。 「成長」とは、既存モデルの量的拡大のことです。人の身長はある年齢まで成長しますが、頭髪 はある段階からマイナス成長です。』(pp.3)

「発展development」については、『「発展」とは、既存モデルとはまっ く異なる新規モデルへの不連続的移行のことなのです。 青虫と蝶々が同じ生き物であることを我々は知っています。 しかし人類は最初に、この二つが同じ生き物であると認識できたでしようか。おそらく別の生き物だと思ったに違いありません。青虫はサナギになるとどうなるか?これは生物の先生に教わったのですが、サナギの中でいったん細胞がすべてドロドロにな ってしまうそうです。細胞の組み替えが行われ、そして蝶々に変態していくわけです。モデルが 変わるというのは、そのくらいすさまじいことなのです。』(pp.4)
というわけである。

つまり、日本は多くの新分野で「モデルを変えられて負ける」というわけである。
日本の製造業は、生産性向上に力を入れ、実績を出し続けている。しかし、一旦イノベーションが起こると、それまでの生産性向上は無になってしまうことが多い。

・メタ領域という概念

 著者は、第3原則として、「システム的な階層構造上、常に上位のモデルのイノベーションが競争優位に立つ」としている。
『あらゆるモデルは、すべて「システム的な階層」の中に位置づけられます。あるモデルは階層上のアッパーモデルの下位に位置づけられ、またそのモデル自体も下位にサブモデルを持ちます。 そのサブシステムの下にはさらにサブ・サブシステムがあります。すなわち、システムには必ず アッパーシステムとサブシステムがあるということです。これがシステム論の基本です。 そして、上位のモデルが他のモデルと入れ替えられれば、当然、下位モデルの生存は危うくなります。例えばレコードシステムからCDシステムへとシステム全体が移行してしまうと、いくら従来システムのサブシステムであるレコード釘で画期的な製品をつくったとしても、それはもうほとんど意味がなくなるということです。』(pp.13)

・プロダクト・イノベーション

『画期的な生産性向上を起こす生産プロセスモデル自体を洗練させるプロセスイノベーョンは 、根本的に製品モデル自体を変えてしまうプロダクトイノベーションを起こされたら勝てないのです。レコードの生産性を画期的に向上させる生産上のプロセスイノベーションを起こしたとしても、CDが出現してしまえばそれは無に帰すということです。』(pp.16)

・日本企業における、事業化の問題

『多くの大企業では、どんなに素晴らしい技術が開発され製品化が検討されたとしても、年商1〇〇億円程度の規模が見込めなければ事業化は断念されてしまうことがあるという点です。結果、その技術はなんとお蔵入りしてしまうのが通常です。 もし、こういった技術が地域の中小企業に移転されるならば、あるいは、それらの技術を開発した者が中心になって「スピンオフベンチャー」の形で事業化を進めたら、どうなるでしょうか。明らかに新規事業の創出として、日本の産業生態系の活性化に寄与するはずでしょう。』(pp.33)
このことは、私自身の経験の中にも明確にある。

・診断書

 300ページを超える分析の結果の診断書としては、以下の項目が挙げられている。第1は、垂直統合的な自前主義の傾向が残っていること。

『これは同時に、従来の「イノベーション=インベンション」といった「科学技術がイノベーションの必要十分条件」であった時代から、「イノベーション=インベンションXディフュージョン」すなわち「科学技術は必要条件であるが、十分条件としてビジネスモデルと標準化を含めた知財マネジメントの摺り合わせ」の時代への移行を意味しています。すばらしい技術を開発すれ ば(自然に)イノベーションが起こるというテクノロジープッシュモデルの神話はもう卒業しなければならない、ということなのです。』(pp.325)
具体的には、

『ブラックボックス化した自社の独自技術を、一方で権利化とノウハウ秘匿によって封じ込め、他方で他の部材とのインターフェイス(形状とプロトコ1ルの規格化)をオープンにしてインターオペラビリティ(相互接続性)を確保するやり方です。これにより「与力」は増え、結果として、市場の拡大がなされます。』(pp.327)

・知の新領域の創出モデル

 従来の知の体系を「成長」させるのではなく、「複合して発展」させること。
新領域の知の体系は、先端知、学際知、間隙知、融合知、横断知、上位知を挙げている。

『学問では既存の学問体系が当てはめられます。理学、工学、化学、生物学、医学、薬学といったものが入るでしょうし、あるいは経済学、経営学、法学、 社会学、教育学といったものです。その既存の学術体系を先端に伸ばすだけでなく、他にも五つの新領域の形成が可能なのです。 この柱を、事業組織体として見たり、ある いは製品群として見立てたりしてみてはいか がでしょうか。こういったフレームワークを使う、新たな発見が次々と起こるものです。』(pp.379)

・読後の感想

1.「成長growth」と「発展development」の違いを明確にしなければならない。成長の中に発展はない。この言葉は、もっともだと思う。
 このように、日本語の定義が曖昧だったり、使い方に問題がある(多くの場合に、深く議論せずに、感覚的に解釈を決めてしまう文化の影響か)場合に起こる、矛盾や不適合が、他にもたくさんある。

2.「日本は技術力で優っている」は、間違いだと常々思っていたが、そのことも明確に書かれている。日本が勝っていたのは、技術ではなく「技能」だった。技術と技能をごちゃごちゃに使っている。(これも、上に記した分化のせい)

3.著者は、「テクノロジープッシュモデルの神話」と表現をしている。私は、勝っていたと考えられているのは、本物の技術ではなく、「工学的な技術」だと思う。「本物の技術」は、メタエンジニアリングを駆使し、社会科学や哲学をも統合した技術でなければならない。
 この原因は、すべて日本の大学の工学教育にある。ヨーロッパでもアメリカでも、優れた大学では、工学と哲学の授業を並行して行っている。この態度が、日本には欠けている。

メタエンジニアの眼シリーズ(88)「資本主義以後の世界」

2018年09月21日 08時21分03秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(88) TITLE: 書籍名;「資本主義以後の世界」

著者;中谷 巌

発行所;徳間書店
発行年、月;(2012.1.22)  

初回作成年月日;H27.7.25 最終改定日;H30.9.21

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 経済の専門家で、これほどに華々しい履歴の持ち主は居ないように思う。この書の奥付には、産業界・学会・政界・コンサルの実経験が示されている。
 
『中谷巌(なかたに・いわお) 三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)理事長。一般社団法人「不識庵」理事長。「不識塾」塾長。一橋大学名誉教授。多摩大学名誉学長。42年1 月22日大阪生まれ。65年一橋大学経済学部卒。 日産自動車に勤務後、ハーバード大学に留学。73年、 ハーバード大学経済学博士(PhD)その後、同大学研究員、大阪大学教授、一橋大学教授、多摩大学学長を歴任。細川内閣の「経済改革研究会」 委員、小渕内閣の「経済戦略会議」議長代理を歴任。99年、ソ二ー株式会社取締役、03年、ソ二ー取締役会議長に就任(05年まで)。オーストラリア国立大学名誉法学博士。著書に「入門マクロ経済学』「日本経済の歴史的転換」「日本の復元力」など多数。とくに2008年刊行の 「資本主義はなぜ自壊したのか」は、グローバル資本主義との決別を宣言した「犠悔の書」とレて、大きな反響を呼んだ。』(奥付より)

 ここにもあるように、著者は、「グローバル資本主義との決別」を宣言した。その本の「まえがき」には、以下の文章がある。
「資本主義はなぜ自壊したのか[2008」集英社インターナショナル2008.12.20発行

まえがき;

『グローバル資本主義は世界経済活性化の切り札であると同時に、世界経済の不安定化、所得や富の格差拡大、地球環境破壊など、人間社会にさまざまな「負の効果」をもたらす主犯人でもある。そして、グローバル資本が「自由」を獲得すればするほど、この傾向は助長される。(中略) 「改革」は必要だが、その改革は人間を幸せにできなければ意味がない。人を「孤立」させる改革は改革の名に値しない。かつては筆者もその「改革」の一翼を担った経緯を持つ。その意味で本書は自戒の念を込めて書かれた「懺悔の書」でもある。』

 そこから、この著書は始まる。

 『二次世界大戦後、多くの植民地が独立したことで西洋列強にとって収奪可能な「地理的フロンティア」が消失したこと。第二に、リーマン・ショックでグローバル金融市場という利潤を生み出す打出の小槌としての「金融フロンティア」が縮小したこと。 第三に、環境破壊の拡大によってこれまで人類が好き放題に搾取してきた「自然フロンティア」がなくなろうとしていること。これらが資本主義国の潜在的な成長力を大きく低下させた。』(pp.2)

 そして、大胆に「文明の転換」が必要であり、この書はそれを主張するものだと宣言をしている。その要点は、次のように示されている。

『またグローバルな競争激化が不可避的に生み出す所得や富の偏在を是正するには、市場での 取引から実現する資源配分のみを「正義」と見なす「交換の思想」を改め、人類が昔から持って いた「贈与の思想」への転換が必要になるだろう。これは、利己的な欲望の追求を認めてきた西 洋近代思想に対して、根本的な価値観の転換を求めるものである。人間はいつ、利己的な欲求追 求の手段としての市場至上主義を修正し、利他的な 「贈与の精神」が組み込まれた社会システム に回帰できるのであろうか。』(pp.3)

更に、技術論や自然論に言及して、

『もうーつ、「資本主義以後の世界」を構築する上で必要になるのは、何事も技術によって解決 できるとする「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理すべきもの」という西洋的な自然観を改 め、人間が自然の恵みに対してもつと「敬虔かつ謙虚」な気持ちを持つという意味での「自然観 の転換」である。これがない限り、地球環境破壊はとどまるところを知らず、原子力のような人 間が棲む「生態圏」の中では制御不可能な技術に人間が振り回される状況が続くことになるだろ う。 「文明の転換」などは絵空事だという批判は覚悟の上である。』(pp.3)

 著者が、詳しく述べているのは、中国(漢民族)の生き方の歴史だった。その代表例として、「鄭和の大航海に見る漢民族の性格」を示している。漢民族は、圧倒的な文明の最船体を行った唐と宋の時代ですら、「朝貢を強いる」だけで、植民地化などはしなかったというわけである。歴史上、日本は中国に対して3回(白村江、秀吉、日清戦争)の侵略を試みたが、中国は漢民族以外の元が一度試みただけであった。

 そして、更に、「中国が体現しているアダム・スミスの「資本主義」」として、次のような説明をしている。
アダム・スミスが「国富論」の中で考えていた資本主義発展のあるべき姿は、まず農業の生産性を引き上げることからスタートして、国内の社会基盤を整え、徐々に工業化へと進んでゆく。そして余力ができたら、国内の商業、金融を整備し、最後に外国との交易を通じて豊かな社会をつくってゆく。
これに対して、アングロサクソン型の資本主義は、新大陸の発見 ⇒海外の開拓・投資 ⇒国内の経済の発展、という アダム・スミスの「資本論」とは逆の不自然なものだというわけである。

『このことに関連すると思うが、宗教学者の山折哲雄氏は、常々、日本人の意識は三層構造になっていると主張されている(たとえば、山折哲雄『日本文明とは何か―パクス・ヤポニカの可能性』角川叢書)。現代日本人の意識のいちばん深くにあるのは縄文時代の山岳・森林的自然観であり、そのうえに弥生時代の稲作的価値観があり、さらにいちばん表層部分に西欧流の近代合理主義意識があるのだという。そのとおりだと思う。それもそのはず、日本が稲作文明を取り入れたのは、紀元前三~四世紀であるのに対し、縄文文化はそれより一万年も前から存続していたのである。近代合理主義精神はせいぜい一五〇年の歴史しかない。その三層が日本人の意識に重層的に根づいているのだが、いちばん深いところにある基層となる意識は、一万年以上の長きにわたる縄文時代に形成されたのである。』(pp.200)

更に、江戸時代の武器を持たない庶民文化を礼賛したうえで、

『日本の経済体制はこれまで「異質だ」「閉鎖的だ」「非効率だ」などマイナス・イメージで語られることが多かった。しかし、西洋型資本主義が苦戦するなか、日本の経済社会体制やそれを支える文化や精神風土を再評価する動きも出てきた。日本が西洋諸国から見て異質な体質をもった国だからこそ、西洋主導の資本主義体制に代わる新しい経済社会システムを生み出せるのではないか。』(pp.226)としている。

 したがって、

『グローバル資本主義に代わる新しい体制には、「文明の転換」という発想が必要だと思われる
が、「文明の転換」について根本的な視点からの提言ができるのは日本しかないのではないか。なぜかと言えば、日本は明治以来・西洋に追随はしてきたが、根本的な部分まで西洋化したわけではなく、江戸時代までに日本が培ってきた土台の部分に「文明の転換」へのヒントが潜んでい ると考えられるからである。』(pp.226)
 これは、比較文明論者の言葉ではなく、かつてどっぷりとグローバル資本主義に浸かった人の言葉であるところに、説得力があるように思う。

更に、「自らの歴史・文化・伝統を忘れたら生き残れない」として、英語を普遍語と見なして公用語化し、自国語を忘れ、自国文化の重要性を忘れ去ってしまった国の例を挙げている。西洋の植民地となり、言語も統一されてしまった南米やアジア・アフリカ諸国が文化的に根なし草となり、もともとあったはずの独自性を喪失した、と述べている。

私は、「一神教」こそが現代世界に諸悪の根源であると考えているのだが、彼の主張は、このようになっている。

『第7章. 戦略的・脱原発政策のすすめ 「一神教、グローバル資本主義、原発問題は通底している 」
中沢氏は宗教学者らしく、「原子力開発は一神教的な思想から生まれた」という面白い見方も している。 一神教についてはすでに触れた(第二章参照)が、中沢氏はこんな説明をしている。(ほかの 神々(多神教の神々・中谷注)は山や川の女神であったり、動物界や植物界を支配する神であったりするのだが、自分(一神教の神ヤハウェ・中谷注)はそういう環境世界に所属しない絶対神で、むしろ環境の外部にいて、そこから世界そのものを創造した神である。(中略)一神教が重要なのは、それに特有な「超生態圏」的な思考が、西欧においてキリスト教の衰退後に覇権を握 った、世俗的な科学技術文明の深層構造にも、決定的な影響を及ぼしているからである》と(三ニ~三三頁)。 一神教の世界はヒエラルキー構造になっていて、いちばん上にいるのは唯一絶対神。次にくるのが、唯一絶対神と契約を結んだ人間である。そして、唯一絶対神はその人間に向かって「自然 をきちんと管理するように」と申し渡す。したがって、自然は人間の下に位置することになる。 ここから自然を客体化して草や木や虫を客観的に分析する精神が生まれ、そうした合理主義精神が科学技術を生んだことはすでに述べたとおりである。』(pp.277)

 『それに対しに西洋的な自然観は、「自然というものは手を入れて飼い慣らす対象である」。和辻哲郎のいう「砂漠の文化」であるユダヤ ・ヘブライ型の文化になると自然を飼い慣らすどころか、先に見たように「自然は敵だ」と考える。 ヨーロッパ人は、「人問を生かしてくれるのは「自然」ではなく「神」だ」と考えているのである。』(pp.316)

 『本書が一貫して主張してきたのは、過剰な「交換」の思想から「贈与」の精神への「文明の転換」こそが現代世界のさまざまな問題を克服する上での前提条件ではないかということだ。 そして、我田引水に聞こえるかもしれないが、この「交換」から「贈与」への「文明の転換」
を主導できる国は日本以外にはないのではないかということである。なぜなら、日本は明治以来、 西洋的思想を取り入れ、急速な近代化を果たしたが、それまでの日本人の生活ぶりはグローバル 資本主義を推し進めてきた西洋的思想とは対極にあったからである。自然は征服の対象ではなく、 共存すべき対象であり、社会は庶民が中心に位置し、階級社会的色彩は希薄だった。人と人との 長期的信頼関係を大切にし、「交換」の思想だけでは社会がうまく立ちゆかないこともよく知っ ていた。』(pp.344)

『大事なのは、日本が「交換」から「贈与」への「文明の転換」を意識し、資本主義が行き詰まった後の「資本主義以後の世界」を主体的に構想していくことができるかどうかだ。世界史の大きな転換期にあって、日本人が「文明の転換」を主導するためには、日本人自身が近代化の過程で置き忘れてきてしまった日本の伝統的価値を思い起こすことこそが必要不可欠なのだと思う。 しかしながら、「交換」の思想から「贈与」の思想へ の「文明の転換」はあまりにも根源的な 問題を含んでいるため、現実的に考えた場合、現代の人間にはとても手に負えないように見える。』(pp.346)

著者の主張は、ここで終わっている。21世紀中での実現は、人類のさらなる危機感が顕著になった瞬間だろうとの言葉を残して。


読後の感想;

 この書の内容は、よくわかる。その通りになれば良いと思う。しかし、日本発の「文明の転換」は、現状では全く望みがない。理由は、現代日本の文化が、文明になるための2大要素を全く欠いていると思うからである。
 
 「優れた文化の文明化のプロセス」には、二つの要因がある。文化が、他の文化を取り込みながら、合理性と普遍性を付け加えてゆくことである。勿論。合理性と普遍性は世界的に認められるものでなくてはならない。

 現代の日本文化は、このことから著しく離れている。それは、「建前と本音の使い分け」と、「技術力への妄信」だ。

1. 建前と本音の使い分け文化

日本では、この二つをうまく使い分けられる人が、「大人」とみなされる。建前を言うべきところで、本音を言うと「空気が読めないやつ」とか、「まだ、子供だ」などと評価される。
これは、日本独特のハイブリッド文化の一つなのだ。しかし、このハイブリッドには、世界で認められる合理性は全くない。勿論、普遍的でもない。
 
例えば、憲法9条を堅持したまま、自衛隊を持つことは合理的であるとか、広島・長崎の原爆慰霊祭で述べる言葉と、原水爆禁止条約に加盟しない態度、などがそれにあたる。

2. 技術力への妄信の文化

かつて、日本の原発は絶対に安全であるといって、誰もがはばからなかった。しかし、全く初歩的なミスで、大事故を起こした。日本のモノ作りは、技能に支えられている。それは、技術ではない。

かつての技能は世界最高レベルであった。おそらく、ダントツの世界一がいくつもあった。しかし、現代では、それらは急速に超精密機械に置き換えることができる。その、超精密機械の多くはドイツ製だ。つまり、技術力は、ドイツが圧倒的に優位になっている。それは、第2次世界大戦のずっと以前から、そのまま続いている。
高度成長時代に、ドイツのベルリンの壁の崩壊につながる一連の歴史の中で、一時期日本が追い付きそうになった。しかし、高度成長時代はほんの一瞬でおわり、優秀な技術者のDNAを次の世代に引き継ぐことに失敗をした。ゆとり教育がその典型だと思う。
更に、今世紀に入ってからの、製造業による多くの不祥事が、世界中からの評判を落とした。
つまり、日本人が自己の技術力(技能力ではない)が高いと思っているほどに、日本の技術力には、合理性も普遍性もない、と私は思っている。