メタエンジニアの眼シリーズ(81) TITLE: 銅鐸の謎(その7)
書籍名;「新稿 磐井の叛乱」 [1973]
著者;原田大六 発行所;三一書房
発行日;1973.6.30
初回作成日;H30.9.8 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
原田大六著の「銅鐸への挑戦」5部作と完結編に相当する「悲劇の金印」をこれまでに示した。今回は、彼の著作の出発点でもある、この書を選んだ。「新稿」とあるのは、その10年前に同名の著作を発行したのだが、歴史学者の猛攻撃にあって、敢え無く絶版となってしまった、その意趣返しの意味が込められている。
そこで今回は、内容はさておいて、彼の考古学に対する主義主張を中心に読み進めることとした。その考え方が、メタエンジニアリングの思考法に合っていると思われるからである。
冒頭の沖ノ島の出土品の写真の後に、「まえがき」と「新版にあたって」が7ページにわたって述べられている。そこから引用する。
先ずは、文献と出土物のそれぞれを専門とする歴史学者への批判から始まっている。
『問題は、つねに、古代人の間にあるのではなくて、現代のわれわれの間にある。古代の物事は、文献にしても断片であり、遺跡迫物にしても残片である。この断片と残片とをつなぎ合わせて、現代のわれわれは歴史を書こうとしているのであるが、問題はここにはじまる。文献ば文献史学者の領域であり、 遺跡遺物は考古学者の対象である。古代文献史学者は歴史は熟知しているが遺跡遺物については生かじりに近く、考古学者は遺跡遺物にはくわしいが文献については興味が薄い。どちらも思い思 いの方向の研究に没頭し、背を向け合ってるのが従来の日本歴史学界ではな かろうか。そこで、これではならないと、両者は歩みよりを計ろうとしているが、なかなか、どちらも相手方を理解することができかねている。仕方なく、お互いに都合のよい部分を借用することによって、古代史を作り上げようとしているように見られる。しかし、それは、あくまでも自分の学説に都合の良い部分の借用であって、古くからよくいわれている我田引水から一歩も出るものではなかろうか。』(pp.1)
基本的な問題は、「物」と「事」にあるとして、次のように断言をしている。
『考古学で取扱っているのは「物」であり、、文献史学が取扱っているのは「事」である。古代の政治・経済・戦争・生活など、生きている人間の動向は、すべて「事」であって「物」ではない。考古学的遺跡遺物は、その 政治・経済・戦争・生活などのなかにおいて、使命と用途をもった「物」として建造され使用されていた。だが歴史の「事件」は「物」ではないから形としては遺らない。だか歴史の残片として遺っている。しかし遺跡遺物は歴史の「事件」を語るために建造され使用された「物」ではないから、「物」がただちに「事」を語ると思っては失敗しよう。』(pp.2)
続けて、
『「事」の内容を伝えるために、もろもろの人類は、言葉を用い、それを広く伝え、後世に伝承するために発明したのが文字であった。だから歴史から、もし文字を消してしまうと、歴史そのものを消 してしまうことになりかねない。文字は生きている人間の動向を語ることができる唯一のものであり、 内容もそれだけ豊富になるからである。「事」を語りうるという意味からすれば、文字で書かれた資料を研究対象にしている文献史学が、歴史学では正道に立っている。』(pp.2)
さらに続けて、
『ところで、文献史学と考古学の根本的相違が「事」を明らかになしうるか、「物」のみしか明らかになしえぬか、というところにあることがわかってきたわけであるが、考古学が固定した動きのない 「物」をのみ取扱い、その固定した動きのない「物」を外見のみの尺度で測定していたのでは、単なる 「古い物を考える学問」で終ってしまうし、それでは歴史学ではなくて、歴史学の補助学にとどまるより致し方がなくなる。文献史学は動いている社会事象を研究する学問であり、考古学はその社会事象での使命と用途をになった生産物象の研究に携わる学問であるから、両者を合理的に結びつけるとしたならば、それは現在の犯罪捜査の場合における物的証拠として遺跡遺物を扱う他に方法はなかろう。社会の諸事象のまがいのない証拠物件として、吟味し、検証をへた遺跡遺物ではなくては、歴史には役にたたない。単なる空想や想像で、考古学的資料と歴史的文献を組み合わせたり接ぎ合わせたりしたのでは、歴史の真実は取りにがすだけであろう。
歴史学者は検事であり、弁護士であり、かつ裁判官であるという重大な役目を背おわされている 。判決が不充分な理由、不確実な証拠物件のもとに下されてはならないように、歴史への終局判断も、不十分な理由と、不確実な証処物件によって下されてはなるまい。 』(pp.2)
この「犯罪捜査」に当て嵌めた説明は、正論であり面白いと思う。更に、「論理学」の重要性に言及している。
『古代を研究している文献史学者にしても、考古学者にしても、どちらも大きな欠点を持っているようである。その欠点は論理学を身につけていないところにあろう。論理学による論証力がなくては 、証拠物件も死物となり、歴史学も偽りとなる。常にわれわれが注意していなければならないことは 、偽りの歴史を、もっともらしく書いて、自己満足しているのではないかという自己批判ではあるまいか。』(pp.3)
そして結論として、以上を踏まえて、この著作にあたったとしている。
『筆者が、磐井の叛乱に関心を持つようになったのは、 筑前国(福岡県)宗像郡大島村沖ノ島に鎮座する宗像神社沖津宮の祭肥遺跡の発掘調査に参画し、約五力年間、 その報告書の編集に従事してからである。磐井と何らの関わりもないかのように見える沖ノ 島古代祭記遺跡が、むしろ多くの事実を知る根拠になろうとは、われながら予期していなかった。今まで、ばらばらであった文献や、ちりぢりの 遺跡遺物の、あらゆる側面が、あらゆる関係を保ち、あらゆる媒介をもってつながり周囲の世界と 連関しながら、発展し、変化していく歴史の真実に、 ただただ驚いているばかりである。
一九六三年一月十七日 著者』(pp.4)
この「まえがき」は、「新版」が出される10年前の記述であった。続いての「新版にあたって」は、初版が直ちに絶版になった恨みを述べ、やはり歴史学会の現状への批判から始まっている。そして、磐井の叛乱に関する、歴史学会の通説に真っ向から反論を仕掛け、このように結んでいる。
『歴史学は小説ではなく、あくまで学問である。学問である限り、充足理由を忘れてはならない。歴史事件には十分な原因が伴っているのであるから、それの記述にあたっては充分の理由を述べなければならない。いうまでもなく、歴史事件は的確な原因から生ずるのであり、それは事件のまぎれのない理由になるのであるから、事件の原因を空想にゆだねていたならば、事件そのものも空想に終ってしまうのであり、それは歴史事実の探究ではなく、捏造の歴史の公表である。 官学派から背を向けられたこの旧著を、あらためて読み返してみた。だが、そのどこが、どのように錯乱していると誰がいうのだろうか。無視するという高慢な態度が学閥の世界で通用している間は、 反アカデミズムの在野学徒は、必死になって彼等官学派に論争をいどまざるをえない。ここに旧版を七百ヵ所にわたって添削し、より強化して、真実を求める人の前に再度呈示するものである。』(pp.6)
主文は省略するが、物証と文献を照らし合わせることと、彼のその後の著作で見られる、記紀に示された歌の解釈を、ひらがな表記にすることによって、その歌が、彼の説を裏付けるものであることを示している。
最終章の「結び」に、結論が書かれている。
『大和朝廷が九州の上下住民の絶叫を無視して強引に新羅を大軍をもって征討するという行動に出た時、九州の住民は敢然と立ち上がり、ここに有明海を本拠とする海軍と大伴・物部両陸軍との二つに分かれた大戦争が、筑後川を挟んで展開されることになったのである。』(pp.370)
筑後川を挟んだ戦争は、西郷南洲の西南の役を思い起こさせる。まるで壬申の乱と関ケ原の合戦とダブって見える気がした。
、
問題の「磐井」については、
『磐井は従来、土着の有力豪族が頭角をあらわした一人ぐらいに考えられてきたが、そうではなかった。 彼は大和朝廷と直結していただけでなく、天皇の代行権を把握していた「オオミコトモチ」(太宰)であり、日本海軍の総帥であった。彼の権勢は雄略天皇から与えられていたものらしい 。』(pp.370)
当時の国政体制については、
『征服王朝が大和地方を中心にして全国を制覇するに際し、中央から派遺された軍隊の将軍が、征服の功労によって各地の国造になったのだと考えられる。国造は〈クニノミヤツコ〉であり、〈ミヤツコ〉は「宮津子」で、宮は天皇の皇居をすべて「…宮」と称したのにあり、子は子供のように分かれた意味で、大和朝廷の分身という意味を持っている。漢字の「造」を〈ミヤツコ〉に充当したのは、 各地を征服によって造り立てたというところにあったろう。国造はその征服地の自治権を掌握していたと考えられる。県主〈アガタヌシ〉は大和朝廷の直轄領主であったらしい。磐井の先祖も中央から派遣され、筑後川以南の地方を征服して、国造としておさまったものと考えられる。磐井はその国造家に生まれたのであろう。』(pp.370)
そして、最終結論は意外なところに飛び火した。自然科学に対する態度では、歴史の解明はできないというわけである。
『部分に生じた事件は、全体から把握しなければ真相は逃がしてしまう。文献史学でも考古学でも、 陥りやすいのは、重箱の隅を針でつつくような微細な部分から全体の歴史へ進もうとする研究態度である。歴史は一回限りであり、特殊な現象がほとんどであるから、もしも①自然の斉一、②共存の斉 一、③継起の斉一を根拠としている自然科学の帰納法を歴史の研究に用いたならば、それは多かれ少なかれ「一部より全部に及ぼす誤謬」に陥っているのを知らねばならない。 歴史は、帰納法に、あらかじめ知られている普遍的真理から特殊な真理を発見する演繹法を加えた 研究でなければならない。』(pp.373)
著者が、「宗像神社沖津宮の祭肥遺跡の発掘調査に参画し、約五力年間、 その報告書の編集に従事し、磐井と何らの関わりもないかのように見える沖ノ 島古代祭記遺跡が、むしろ多くの事実を知る根拠」としたものが、具体的に何であるかは明確ではなかった。その判断は、専門家が判事の視点から行うべきであろう。しかし、基本的な考え方は、正しいのではないかと思う。
この書の精神が、これに続く5冊の「銅鐸への挑戦」に表されている。真偽はともかく、痛快ということを感じざるを得ない。
書籍名;「新稿 磐井の叛乱」 [1973]
著者;原田大六 発行所;三一書房
発行日;1973.6.30
初回作成日;H30.9.8 最終改定日;
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
原田大六著の「銅鐸への挑戦」5部作と完結編に相当する「悲劇の金印」をこれまでに示した。今回は、彼の著作の出発点でもある、この書を選んだ。「新稿」とあるのは、その10年前に同名の著作を発行したのだが、歴史学者の猛攻撃にあって、敢え無く絶版となってしまった、その意趣返しの意味が込められている。
そこで今回は、内容はさておいて、彼の考古学に対する主義主張を中心に読み進めることとした。その考え方が、メタエンジニアリングの思考法に合っていると思われるからである。
冒頭の沖ノ島の出土品の写真の後に、「まえがき」と「新版にあたって」が7ページにわたって述べられている。そこから引用する。
先ずは、文献と出土物のそれぞれを専門とする歴史学者への批判から始まっている。
『問題は、つねに、古代人の間にあるのではなくて、現代のわれわれの間にある。古代の物事は、文献にしても断片であり、遺跡迫物にしても残片である。この断片と残片とをつなぎ合わせて、現代のわれわれは歴史を書こうとしているのであるが、問題はここにはじまる。文献ば文献史学者の領域であり、 遺跡遺物は考古学者の対象である。古代文献史学者は歴史は熟知しているが遺跡遺物については生かじりに近く、考古学者は遺跡遺物にはくわしいが文献については興味が薄い。どちらも思い思 いの方向の研究に没頭し、背を向け合ってるのが従来の日本歴史学界ではな かろうか。そこで、これではならないと、両者は歩みよりを計ろうとしているが、なかなか、どちらも相手方を理解することができかねている。仕方なく、お互いに都合のよい部分を借用することによって、古代史を作り上げようとしているように見られる。しかし、それは、あくまでも自分の学説に都合の良い部分の借用であって、古くからよくいわれている我田引水から一歩も出るものではなかろうか。』(pp.1)
基本的な問題は、「物」と「事」にあるとして、次のように断言をしている。
『考古学で取扱っているのは「物」であり、、文献史学が取扱っているのは「事」である。古代の政治・経済・戦争・生活など、生きている人間の動向は、すべて「事」であって「物」ではない。考古学的遺跡遺物は、その 政治・経済・戦争・生活などのなかにおいて、使命と用途をもった「物」として建造され使用されていた。だが歴史の「事件」は「物」ではないから形としては遺らない。だか歴史の残片として遺っている。しかし遺跡遺物は歴史の「事件」を語るために建造され使用された「物」ではないから、「物」がただちに「事」を語ると思っては失敗しよう。』(pp.2)
続けて、
『「事」の内容を伝えるために、もろもろの人類は、言葉を用い、それを広く伝え、後世に伝承するために発明したのが文字であった。だから歴史から、もし文字を消してしまうと、歴史そのものを消 してしまうことになりかねない。文字は生きている人間の動向を語ることができる唯一のものであり、 内容もそれだけ豊富になるからである。「事」を語りうるという意味からすれば、文字で書かれた資料を研究対象にしている文献史学が、歴史学では正道に立っている。』(pp.2)
さらに続けて、
『ところで、文献史学と考古学の根本的相違が「事」を明らかになしうるか、「物」のみしか明らかになしえぬか、というところにあることがわかってきたわけであるが、考古学が固定した動きのない 「物」をのみ取扱い、その固定した動きのない「物」を外見のみの尺度で測定していたのでは、単なる 「古い物を考える学問」で終ってしまうし、それでは歴史学ではなくて、歴史学の補助学にとどまるより致し方がなくなる。文献史学は動いている社会事象を研究する学問であり、考古学はその社会事象での使命と用途をになった生産物象の研究に携わる学問であるから、両者を合理的に結びつけるとしたならば、それは現在の犯罪捜査の場合における物的証拠として遺跡遺物を扱う他に方法はなかろう。社会の諸事象のまがいのない証拠物件として、吟味し、検証をへた遺跡遺物ではなくては、歴史には役にたたない。単なる空想や想像で、考古学的資料と歴史的文献を組み合わせたり接ぎ合わせたりしたのでは、歴史の真実は取りにがすだけであろう。
歴史学者は検事であり、弁護士であり、かつ裁判官であるという重大な役目を背おわされている 。判決が不充分な理由、不確実な証拠物件のもとに下されてはならないように、歴史への終局判断も、不十分な理由と、不確実な証処物件によって下されてはなるまい。 』(pp.2)
この「犯罪捜査」に当て嵌めた説明は、正論であり面白いと思う。更に、「論理学」の重要性に言及している。
『古代を研究している文献史学者にしても、考古学者にしても、どちらも大きな欠点を持っているようである。その欠点は論理学を身につけていないところにあろう。論理学による論証力がなくては 、証拠物件も死物となり、歴史学も偽りとなる。常にわれわれが注意していなければならないことは 、偽りの歴史を、もっともらしく書いて、自己満足しているのではないかという自己批判ではあるまいか。』(pp.3)
そして結論として、以上を踏まえて、この著作にあたったとしている。
『筆者が、磐井の叛乱に関心を持つようになったのは、 筑前国(福岡県)宗像郡大島村沖ノ島に鎮座する宗像神社沖津宮の祭肥遺跡の発掘調査に参画し、約五力年間、 その報告書の編集に従事してからである。磐井と何らの関わりもないかのように見える沖ノ 島古代祭記遺跡が、むしろ多くの事実を知る根拠になろうとは、われながら予期していなかった。今まで、ばらばらであった文献や、ちりぢりの 遺跡遺物の、あらゆる側面が、あらゆる関係を保ち、あらゆる媒介をもってつながり周囲の世界と 連関しながら、発展し、変化していく歴史の真実に、 ただただ驚いているばかりである。
一九六三年一月十七日 著者』(pp.4)
この「まえがき」は、「新版」が出される10年前の記述であった。続いての「新版にあたって」は、初版が直ちに絶版になった恨みを述べ、やはり歴史学会の現状への批判から始まっている。そして、磐井の叛乱に関する、歴史学会の通説に真っ向から反論を仕掛け、このように結んでいる。
『歴史学は小説ではなく、あくまで学問である。学問である限り、充足理由を忘れてはならない。歴史事件には十分な原因が伴っているのであるから、それの記述にあたっては充分の理由を述べなければならない。いうまでもなく、歴史事件は的確な原因から生ずるのであり、それは事件のまぎれのない理由になるのであるから、事件の原因を空想にゆだねていたならば、事件そのものも空想に終ってしまうのであり、それは歴史事実の探究ではなく、捏造の歴史の公表である。 官学派から背を向けられたこの旧著を、あらためて読み返してみた。だが、そのどこが、どのように錯乱していると誰がいうのだろうか。無視するという高慢な態度が学閥の世界で通用している間は、 反アカデミズムの在野学徒は、必死になって彼等官学派に論争をいどまざるをえない。ここに旧版を七百ヵ所にわたって添削し、より強化して、真実を求める人の前に再度呈示するものである。』(pp.6)
主文は省略するが、物証と文献を照らし合わせることと、彼のその後の著作で見られる、記紀に示された歌の解釈を、ひらがな表記にすることによって、その歌が、彼の説を裏付けるものであることを示している。
最終章の「結び」に、結論が書かれている。
『大和朝廷が九州の上下住民の絶叫を無視して強引に新羅を大軍をもって征討するという行動に出た時、九州の住民は敢然と立ち上がり、ここに有明海を本拠とする海軍と大伴・物部両陸軍との二つに分かれた大戦争が、筑後川を挟んで展開されることになったのである。』(pp.370)
筑後川を挟んだ戦争は、西郷南洲の西南の役を思い起こさせる。まるで壬申の乱と関ケ原の合戦とダブって見える気がした。
、
問題の「磐井」については、
『磐井は従来、土着の有力豪族が頭角をあらわした一人ぐらいに考えられてきたが、そうではなかった。 彼は大和朝廷と直結していただけでなく、天皇の代行権を把握していた「オオミコトモチ」(太宰)であり、日本海軍の総帥であった。彼の権勢は雄略天皇から与えられていたものらしい 。』(pp.370)
当時の国政体制については、
『征服王朝が大和地方を中心にして全国を制覇するに際し、中央から派遺された軍隊の将軍が、征服の功労によって各地の国造になったのだと考えられる。国造は〈クニノミヤツコ〉であり、〈ミヤツコ〉は「宮津子」で、宮は天皇の皇居をすべて「…宮」と称したのにあり、子は子供のように分かれた意味で、大和朝廷の分身という意味を持っている。漢字の「造」を〈ミヤツコ〉に充当したのは、 各地を征服によって造り立てたというところにあったろう。国造はその征服地の自治権を掌握していたと考えられる。県主〈アガタヌシ〉は大和朝廷の直轄領主であったらしい。磐井の先祖も中央から派遣され、筑後川以南の地方を征服して、国造としておさまったものと考えられる。磐井はその国造家に生まれたのであろう。』(pp.370)
そして、最終結論は意外なところに飛び火した。自然科学に対する態度では、歴史の解明はできないというわけである。
『部分に生じた事件は、全体から把握しなければ真相は逃がしてしまう。文献史学でも考古学でも、 陥りやすいのは、重箱の隅を針でつつくような微細な部分から全体の歴史へ進もうとする研究態度である。歴史は一回限りであり、特殊な現象がほとんどであるから、もしも①自然の斉一、②共存の斉 一、③継起の斉一を根拠としている自然科学の帰納法を歴史の研究に用いたならば、それは多かれ少なかれ「一部より全部に及ぼす誤謬」に陥っているのを知らねばならない。 歴史は、帰納法に、あらかじめ知られている普遍的真理から特殊な真理を発見する演繹法を加えた 研究でなければならない。』(pp.373)
著者が、「宗像神社沖津宮の祭肥遺跡の発掘調査に参画し、約五力年間、 その報告書の編集に従事し、磐井と何らの関わりもないかのように見える沖ノ 島古代祭記遺跡が、むしろ多くの事実を知る根拠」としたものが、具体的に何であるかは明確ではなかった。その判断は、専門家が判事の視点から行うべきであろう。しかし、基本的な考え方は、正しいのではないかと思う。
この書の精神が、これに続く5冊の「銅鐸への挑戦」に表されている。真偽はともかく、痛快ということを感じざるを得ない。