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メタエンジニアの眼シリーズ(94) 神話と考古学

2018年10月24日 07時23分11秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(94)
TITLE: 神話と考古学

書籍名;「先史学者プラトン」 [2018] 
著者;メアリー・セットガスト 発行所;朝日出版社
発行日;2018.4.10
初回作成日;H30.9.28 最終改定日;H30.10.23
引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 この本に興味を持ったのは、神話と考古学の関係が主題になっていたからだった。しかし、読み進むと、紀元前1万年からの5000年間の人類史の文明が、巨大な洪水などの天変地異により、大きく生まれ変わることが、何回か繰り返されているという、サイクル論的な地球史になっている。

 元の話しは、プラトンの著書の「チィマイオス」、「クリチィアス」などに書かれている内容が、実は実際に石器時代から金属器時代にかけて、ギリシア周辺で起こった史実を語っているということ。このことは、日本で「日本書紀と古事記」の内容の一部が史実ではなく、神話として扱われていることと一致する。最近は、日本の神話も史実を抽象的に表現しているという説が流行している。同じことが、地中海周辺での超古代史でも起こっているということなのだろう。

 この著書は、表題の通りに、プラトンが著した「対話篇」の中でも後期に纏めらてた『ティマイオス』が元になっており、随所で引用されている。はなはだ読みにくい内容なので、先ずは『ティマイオス』についてのWikipediaの記述から引用する。

 『古代ギリシアの哲学者プラトンの後期対話篇の1つであり、また、そこに登場する人物の名称。副題は「自然について」。アトランティス伝説、世界の創造、リゾーマタ(古典的元素)、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。(中略)
ピタゴラス学派の音楽観、宇宙観、数学観に沿って世界の仕組みをプラトンなりに解説した作品だが、世界霊や宇宙の調和など形而上の事物を抽象的な数学によって解明しようと試みたために、非常に難解な内容となっている。例えば、本書をラテン語に翻訳したキケロは「あの奇怪な対話篇はまったく理解できなかった」と述べている。(中略)
アテナイを訪れ、クリティアスの家に滞在しているティマイオス、ヘルモクラテスらの元に、ソクラテスが訪れるところから話は始まる。』

 古代地中海世界の大洪水と、それを証明するための考古学的な物件の話が、大部分を占めているのだが、ここでは、科学と技術に関する後半の部分のみに集中することにする。その部分は、「広義の錬金術」として語られている。日本では、錬金術は中世の西欧におけるバカゲタ話とみなされることが多いのだが、それは全く違っている。

 そこで、再びWikipediaから引用する。
 『錬金術とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。

古代ギリシアのアリストテレスらは、万物は火、気、水、土の四大元素から構成されていると考えた。ここから卑金属を黄金に変成させようとする「錬金術」が生まれる。錬金術はヘレニズム文化の中心であった紀元前のエジプトのアレクサンドリアからイスラム世界に伝わり発展。12世紀にはイスラム錬金術がラテン語訳されてヨーロッパでさかんに研究されるようになった。(中略)
17世紀後半になると錬金術師でもあった化学者のロバート・ボイルが四大元素説を否定、アントワーヌ・ラヴォアジェが著書で33の元素や「質量保存の法則」を発表するに至り、錬金術は近代化学へと変貌した。(中略)
錬金術の試行の過程で、硫酸・硝酸・塩酸など、現在の化学薬品の発見が多くなされており、実験道具が発明された。これらの成果も現在の化学に引き継がれている。歴史学者フランシス・イェイツは16世紀の錬金術が17世紀の自然科学を生み出した、と指摘した。

卑金属から貴金属を生成することは、原子物理学の進展により、理論的には不可能ではないとまで言及できるようになった。(中略)
 錬金術の目的の一つである「金の生成」は、放射性同位体の生成という意味であれば、現在では可能とされている。金よりも原子番号が一つ大きい水銀(原子番号80)に中性子線を照射すれば、原子核崩壊によって水銀が金の同位体に変わる。ただし、十分な量の金を求めるのなら、長い年月と膨大なエネルギーが必要であり、得られる金の時価と比べると金銭的には意味が無いと言える。』
 つまり錬金術は、人類を石器時代から金属器時代への変化をもたらしたことに始まり、現代の素粒子物理学まで、連続して人類の文明の主流を行ってきたことになる。土から土器をつくり、陶器、磁器と進化したプロセスもそうである。火薬や蒸留酒の精製もそうであり、古代ギリシアに始まって、中国、インド、イスラムのあらゆる時代と場所で行われ続けている。

 この書の副題は、「紀元前1万年―五千年の神話と考古学」となっている。英語の書名を直訳している。先ずは、哲学と考古学の関係について、何故かハイデガーが登場する。現代哲学の代表というわけなのだろう。

『考古学と哲学の共同作業は今のところ盛んに実践されている試みとは言えない。だが、この作業が行われることの必然性は明らかなように思われる。人類学・民族学が哲学に衝撃を与えたのは、それまで哲学によって当然視されていた文化・社会・人間のモデルが少しも普遍的でないことを、これらの学問がまざまざと見せつけたからであった。当時の哲学にとっての外部が哲学に視野の拡張を迫り、それに哲学も応えたのである。ならば、同じことが考古学にも期待できょう。我々が今もなお新石器時代を生きているのだとしたら、 我々は新石器時代的な偏見の中に囚われていることは十分に考えられる。

ならば、その外部について教える考古学は哲学にとって示唆的でありうる。 すでに邦訳によって紹介がなされているこの種の試みとして、ジュリアン・トーマスの 『解釈考古学―先史社会の時間・文化・アイデンティティ』(下垣仁志+佐藤啓介訳、同成社、二〇―二年〔原著一九九六年刊」)がある・トーマスは考古学者だが、この著作ではハイデッガーが盛んに言及されている。訳者である佐藤啓介の言葉を借りて、その問題意識を 次のように説明できるだろう。ハイデッガーは私たち「現存在」(「人間」を意味するハィデッガー独自の用語法)の日常的なあり方、そしてそれに由来する物質のあり方を詳細に分析したが、それを過去の人類に当てはめようとするならば、次のような疑間が出てこざるをえない。すなわち「過去人類は、いったいいつから現存在だったのだろうか?」(「訳者解 題2」、三九三頁)。ホモ・サピエンス・サピエンスという種の同一性が、ただちに現存在であることとイコールではない。ならぼ、いつから人類はハィデッガーの云う意味での「世 界」を有する「現存在」になったのか?旧石器時代にすでにそうだったのか?新石器革命によってなのか?それともそれ以降のことなのか? 考古学と哲学を結びつける試みは決して思い付きで行われるようなものではない。考古学との協同作業は新しい哲学を生み出すための必要な一歩かもしれないのだ。』(pp.5)
 
大分長くなってしまったが、この文が全体をとおして語ろうとしたことのように思える。つまり、西欧的な一神教が作り出す哲学の根本である、人間が自然を支配することが、「現存在」(「人間」を意味するハィデッガー独自の用語法)であり、その始まりは、新石器革命によって起こったということを言おうとしているように思う。

 そして、本書は「プラトンの著作を現代考古学の知見をもとに読み直そうという野心的な試みである」と、宣言をしている。

 本文は、複雑で詳細に過ぎるので、「まとめ」に書かれた部分からエッセンスのみを引用することにした。第1部と第2部については、このように書かれている。

『第一部で述べたように、上部旧石器時代ヨーロッパの考古学は、西ヨーロッパから一連の移住が生じたことを記録している。これはおそらく前一三千年紀にマドレーヌ文化で最初の拡大が起こった頃に始まったものだ。〔私たちの見立てにとって〕まずもってありがたいことに、アトランティスの早期の移民がそうであったように、こうした〔マドレーヌ文化の〕移住集団は最初は歓迎された。しかし西方文化の衰退が始まるに従い、徐々に侵略的な色合いを強めていったようだ。ウクライナの埋葬地を発掘した研究者は、それが土着の東ヨーロッパ人の立ち退きを強制した、ヨーロッパで知られるかぎり最初の暴力による死の痕跡であると記している。ここで、この一連の出来事は、前九千年紀のヨーロッパや近東の考古学に記録されている世界各地での衝突と絡んでくる。これは『ティマイオス』に描かれた紛争であると考えられるものだ。

第二部では神話について述べてきた。議論を終えるにあたって、マドレーヌ文化、原イラン、 プラトンが描いたアトランティスのあいだにつながりがある可能性について、手短にまとめておこう。 繰り返せば、これは非常に複雑な出来事のつながりであったはずのものごとを、明らかに単純化したもののだ。』(pp.178)

プラトンの著作の中身はほどほどにして、「錬金術と科学」についての記述に移ろう。
 錬金術というと、中世の暗黒時代のイカサマ師ように思うのだが、ここでは、金属器時代に始まる科学的な人工物をつくるエンジニアと捉えるべきなのだろう。

『銅の精錬が前六千年紀中頃には知られていた可能性につては先に述べておいたが、それは土器の高温焼成が実現したのと同じ時期のことであり、おそらくは関連がある。
それと同時に穀物種の改良とウシの飼育が、大小を問わず、イランとメソポタミア全土で急速に広まっていった。そこで私たちは、自然界の四つの界のうちの三界ー鉱物、植物、動物ーを変化させる努力が、前五五〇〇年前後に大きく加速したと考えてみた。この時期(暦時問に補正した時期)は、ギリシア人によってザラスシュトラが活動した時代であるとされていた。『ガーサー』に示されていたように、もし預言者の関心が人間界の変化〔変換〕にまでおよんでいたとすれば、彼こそは錬金術的な発想の基礎を据え、マギの宗教に地上世界の科学を授けたその人である可能性がある。』(pp.395) 

 「マギ」は、『マギという言葉は人知を超える知恵や力を持つ存在を指す言葉となり、英語の magic などの語源となった。これはマギが行った奇跡や魔術が、現代的な意味での奇術、手品に相当するものだったと推定されるからである。』(Wikipediaより)
イエスが生まれた時、東方で知らせとなる星を見た博士たちも「マギ」と呼ばれている。

 そして、古代から現代にいたる「つながり」については、
『経験科学の勝利によって、錬金術の夢と理想が無価値になったと信じるべきではない。逆に新時代のイデオロギーは、無限の進歩という神話のまわりで結晶化し、実験科学と産業化の進展に後押しされて、一九世紀全体を支配し、人びとに影響を与えたものだが、これは錬金術の千年単位で続く夢を―根本的な世俗化にもかかわらずー引き継ぎ、前進させるものである。一九世紀固有の信条は、人間の本当の使命は自然を変化させて改良し、その主人になることというものだ。ここには錬金術師の夢がまさに受け継がれていると見るべきである。 預言者が自然を完成させるという神話、あるいはより正確には、自然を救済するという神話は、産業社会のもの悲しい計画のなかにも一見それとは分からない形で生き延びているのである。その目的は自然を完全に変化〔変換」させることであり、自然を「エネルギー」へと変化させることである。』(pp.396)
 まさに、西欧的な一神教と哲学の塊のような文章に思える。

しかし、ここから様子が少し違ってくる。人間と自然の関係についての現在感が述べられている。
『実際、今日の西洋で生態学への関心が高まりつつある。これは人間と自然の結びつきのもっとも新しい破壊は一時的なものであり、これもまた周期的な現象であるということを暗示しているのかもしれない。自然環境の完全さを取り戻すための目下の努力を、財産管理人という考え方が復活するきざしとみるのは非現実的なことではない。熱帯雨林の破壊をやめ、過放牧や産業による土地の劣化から立ち直り、脅威にさらされている野生生物種や虐待されている動物を監禁状態から救い出し、地球の水を浄化するため、二〇世紀末の人類は徐々に自然の保護に積極的になりつつある。また、科学によって徐々に効果的にもなっている。人間の文化が、将来、自然界を侵害するのではなく向上させるようにと、次の一歩を踏み出し、探究している人たちもいる。(中略)
いま、東洋の宗教と西洋のイデオロギーの遭遇から、「たいへん驚くべき組み合わせ」がもう一度生じている。この言葉は、かつての収束〔ローマにおけるオリエント神学とギリシア哲学の出会いのこと〕に対してキュモンが使ったものだ』(pp.397)

 そして、最終結論の「文化の周期」の話になる。
『文化の周期において同じ位置にある社会は、時代を間わず比較できるものであるというシュペングラーの主張を見直してみよう。シュペングラーの言葉を借りれば、私たちはローマやチャタル・ヒュユ クの「同時代人」であるかもしれないのだ。!
これは必ずしも不幸な見通しではない。物質的な豊かさ、多様なものが集まった文化、宗教の衰退といったチャタルの環境から、新たな(あるいは再生した)参与が、つまりザラスシュトラの教えにおける地球の財産管理人への参与が、生じてきたのである。その当座の軌跡は海図に示されている 。

それに、ザラスシュトラから六千年の後、これと似た発想が生まれている。それは価値の転倒と、終わりゆく古代文化の混滑のただなかでのことだった。そのとき、錬金術師が、ふたたび自然と人間を完全化するという人間の目的に思いをいたした。もし現在が、そうしたかつて文化が解体した時代に比べられるとしたら、地球の回復と人間精神の回復へむかう流れが、この二つをある点で統合するような流れが、いずれかの時点でわき上がってくると期待できるだろう。おそらくこのたびは、私たちが何者であり、なにをなすべきかを思い起こさせるような預言者は不要である。多くの人たちが、すでにそれぞれに問うている―「この現実を回復するのは私たちではないか」、と。これは実際に人類が前進していることを意味しているのかもしれない。時の循環を乗り越えて。あるいはおそらく、時の循環を手段とすることで。』(pp.398)
 この言葉で本文は終わっている。