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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(91)岩宿遺跡の発見ものがたり

2018年10月08日 11時37分53秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(91)
TITLE: 岩宿遺跡の発見ものがたり


書籍名;「岩宿遺跡はどのような遺跡だったのか」 [2009] 
著者;岩宿博物館編集 発行所;岩宿博物館
発行日;2009.10.3
初回作成日;H30.10.7 最終改定日;H30.

引用先;文化の文明化のプロセス Converging

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 H30.9.24 群馬県の古墳群巡りのドライブの途中で、岩宿遺跡によった。その時のことは、このブログの別のカテゴリー「その場考学との徘徊(44)」に記した。この書は、その際に隣接する博物館で購入した冊子なのだ。表紙には、「第48回 企画展」とあり67ページにわたって、豊富な写真と記事が載っている。
 ページをめくっていると、発見当時(終戦後間もない時期)の日本の歴史学会の様子が書かれており、全体のストーリーとしての興味を覚えた。冒頭には、次のような文章がある。
 
『相沢忠洋と遺跡の発見
岩宿遺跡は、その発見者である相沢忠洋(写真 1)の存在なくしては語れないであろう。1945 年第2次大戦後桐生市に復員すると、行商をしながら、以前から興味があった考古学の道を歩み始めていた。赤城山麓の村を回りながら、土器や石器を拾い集めることが日課となっていったのである。そのような中、1946年初秋、稲荷山と琴平山の間の切り通しの道で相沢によって岩宿遺跡が発見されたのであった。(中略)

縄文時代早期の土器や石器は、黒土のうちでもその最下部、赤土との境界付近から発見される事実を知っていたのであった。岩宿遺跡で発見されるのは、石器のみで土器がないこと、そ してその石器は赤土の中からが発見されるという事実を正しく認識していたのである。この関東ローム層と呼ばれる赤上は、火山灰が降り積もってできた地層であることがわかっていた。そして、 火山が盛んに噴火していたローム層堆積時期には、草や木も生えず、動物もいないので人は生活ができず、日本列島には人が住んでいないということが「常識」とされていた。したがって、関東ローム層(赤土)の中には、人工品である石器などの 遺物が含まれることはないと考えられていたのである。相沢は、自ら経験した岩宿の地層から石器が発見される事実とその常識の間に挟まれ、思い悩んでいたのであった。』(pp.2)

 最初の個人的な発見から、専門家の眼に触れるまでのいきさつが面白い。なんと3年近くの月日を要している。
 『1949年7月27日、相沢は、赤土の中から石器が出る事実を、江坂輝弥宅で会った芹沢長介にそっと打ち明けた。赤土の中から石器が出るという話に驚いた芹沢は、それまでの常識のうそが見破られるかも知れないという感動に浸ったという。 翌々日の7月29日、芹沢は相沢にその石器を見せてほしいという手紙を書き、8月11日、相沢からその返事となる手紙が芹沢に届くが、江坂宅で話したことは間違いであったと伝えられた。相沢は、自らの発見に対して理解のない対応をされ、さらには悪口を言われることを警戒したのであろう。それでも、芹沢は、見せてほしい旨の再度手紙を書いた。それによって心を開いた相沢は、8 月9日、芹沢宅に石器を見せるために持参した。』(pp.3)
 これらの行動からは、考古学上の定説を根底から覆すことの難しさが伝わってくる。

 次に、正式な調査チームによる発掘の様子が、生々しく記されている。
 
『明けて9月11日、杉原と芹沢、岡本、相沢に相沢の助手である堀越靖久、加藤正義の2人を加えた6人が、日本考古学上の大発見となる発掘を行った(写真4)。このときに発掘調査したのは、現在岩宿遺跡の碑があるA地点(報告書ではA区)である。発掘は、1956年に刊行された岩宿遺跡発掘調査報告書(以下では「報告書」)に記されているように、「意識的に始めて関東ローム層にシャベルを入れる」ことであり、日本の歴史に新たな、それも最初の1ページを書き込む作業であった。発掘によって徐々に、人が打ち欠いたときにできる打ち癌(打癌、バルブ)のある石片(剥片)が発見され(写真7)、確かに人工品であると考えられた。それでも、加工のある確かな、そして誰しも納得するような石器を求めて調査が進められていった。そして、ついに杉原によって 加工が施されて一定の形が作り出された石斧が発見されたのであった。』(pp.4)

 さらに、発掘の方法が面白い、通常の表土から少しずつ削り取ってゆくような方法とは、全く異なる。複雑な地層のどの部分から掘り出されるかが、もっとも重要かつ、発掘の目的だったからである。

 『この写真やそのほか発掘調査の様子を写した写真を観察すると、岩宿遺跡の発掘方法は、ローム層の崖を横から掘っていることに気がつくであろう。60年も前で発掘調査の方法が原始的だったのかといえば、当時から遺跡を上層から下層へ同じ地層を平面的に発掘調査する考え方や方法も当然あったという。現に第2次本調査では一部であるが、A地点を平面発掘している(写真29) ことからもそのことが理解できる。この発掘では、 確実に関東ローム層から石器が発見されることを証明するためであり、おそらく調査主任であった 杉原氏の主導の下に「各地層の識別を誤らぬ様に横から発掘を進める」(報苦書)方法が採用されたのであろう。』(pp.6)

 地層の詳細は、次のように記されている。
 
『耕作の及ぶ層あるいはその下の縄文時代の土器や石器が発見される表土層は、「笠懸腐食表土層」(笠懸層)、その下から関東ローム層となるが、その最上部のローム層ほ「阿左見黄褐色細粒砂層」(阿左見層、地名としては阿左美が正しい)で、 約1メートルの厚さがある。その下部には黒味の強い褐色の粘土質層で40センチメートルほどの 厚さかがある「岩宿暗褐色粘土層」(岩宿層)、その下は、赤みの強い褐色の粘質土で1メートルほどの厚さがある「金比羅山角礫質粘土層」(金比羅山層)、さらにその下には軽石が腐食してできたと考えられる粘土層で、「稲荷山灰色軽石層」(稲荷山層)となる。』(pp.7)
 この地層の実際の写真は、「その場考学との徘徊(44)」に示した。
 
 以下のページには、発掘当時の写真、メモ、発掘の経緯が延々と記されている。また、各段階で発掘された石器の写真が示されていて、写真の数は133枚に及んでいる。石器の形は、最初は、割っただけのような、偶然性のある形だったが、最終的には、細かい細工を施した跡が鮮明に表れている。私は、若いころにドイツの博物館で、かの地の石器を見た。整然とまったく同じ形に加工された矢じりのようなものが、数十個並んでおり、ドイツ人のち密さに感動した覚えが蘇った。

 博物館の展示の中にもあったのだが、岩宿Ⅱころの石器では、工房の場所も特定されており、そこから出土した石片を、いくつか組み立てると、元の石の形が現れる。それほど大量の石器が発見されたわけである。

 最後に全体的なことが「岩宿遺跡はどのような遺跡だったのか」の項として5ページで纏められている。そこから引用する。

 『ところで、岩宿時代の発掘調査を行うと、石器は生活していたであろう、当時の地表にそのまま面をなして埋もれていることはほとんどない。石器などの遺物は、霜柱や、 小動物、植物の根の作用によって地層の中で上下に動いてしまっているのが一般的である。この地点でも、最も上で発見されたものと下で発見されたものでは、60センチメートルほどの高低差があった。
その意味で、実際に出てきた石器の位置はみな動いているといえる。それでも、第3次調査地点の広がり全体をみると、長さ約3メートル、幅2.5メートルの一定のまとまりを持ったブロックとして発見されており、残された当時の状況がわからなくなるほどは攪拌されていないと考えられる。』(pp.60)

 広範囲にわたる、数次の綿密な発掘からは、当時の生活場所の分布も想像できるようであり、このような記述になっている。

『完成された石器では、チャート製の部分加工ナイフ形石器は、剥片と接合することがわかっており、この場所で作られたと考えられるが、道具としての石器は、この場所での石器作りに関連ないものが多い。また、この遺跡では、石器の素材あるいはそのまま刃物のとして利用された整った石刃も同じように接合するものが少ない状況である。 これらの石器が残された場所を考えてみよう。もしかするとその石器を実際に使った作業の場所に残されていたかもしれないからである。そうした石器のうち掻器は、皮なめしの道具と考えられているが、発掘区の南東側で、ブロックの広がりの縁から発見された。また、「有樋尖頭器」と呼ばれた特殊な石槍はそのさらに1メートルほど東側で発見されている。石槍については、根元の部分が壊れてなくなってしまった状況であるが、その割れ方を見ると何かに突き刺さって壊れた可能性が 高い。想像をたくましくすれば、狩り場で獲物に刺さって壊れ、その獲物といっしょに生活の場に 運ばれてきたことも考えられる。このように考えると、調査区の南側は、狩りでしとめた獲物と関連しあるいはその皮を加工した場所であったと考えられなくもないのである。』(pp.62)

 最後には、60年間におよぶ発掘史の総まとめとして、旧石器時代の数万年間に亘る、岩宿地域の石器文化Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ Ⅳ期の場所の移動や間隔について、述べられている。

『岩宿遺跡では、岩宿時代全体のうちで、岩宿Ⅰ期石器文化のⅠ期、 岩宿II石器文化のⅢ期、岩宿Ⅲ石器文化のⅣ期と 、少なくとも3時期に人々が生活していたと考えられる。このことは、少なくと も3つの時期に、この岩宿遺跡に人々が訪れ、ここで生活していたことがわかる。それは、移動生活の中で別の遺跡から岩宿遺跡へ来て、石器を作り、 狩りをし、皮などの加工をして、また別の遺跡へと移動していった岩宿時代人の営みのーコマが具体的に残されていたのである。 しかし、その各時期は数万年という時間の流れの中では必ずしも接する時間ではないと考えられる。「各石器文化の時間的な間隔はきわめて長時間であった」(報告書)のであろう。』(pp.64)
 
浅間山の東側という地形の影響が大きいと思われるが、このような想像をめぐらすことができるのは、楽しい。