第15章 実用化初期 1940年代までの歴史
1903年のライト兄弟による動力有人飛行の成功以前にも、動力飛行機は存在した。ウィリアム・サミュエル・ヘンソン(William Samuel Henson, 1812- 1888)はイギリス生まれの発明家で、彼が1840年代に構想した「空中蒸気車」は固定翼、推進力、降着装置、尾翼など後世の飛行機の特徴の大方を備えた先駆的なものであった。この、固定翼と動力を組み合わせたのはヘンソンが史上初とされているが、実機は製作されず構想のみに留まった。
しかし、彼の協力者であったジョン・ストリングフェロー(John Stringfellow, 1799 - 1883)は、ヘンソンが飛行機械開発を断念した後も独自に研究を続け、1848年に蒸気機関を積んだ単葉の模型飛行機(図6.1)をわずか10 ft(3 m)だが飛ばすことに成功したとされる。
その後約20年間は飛行機開発から遠ざかるが、1馬力の蒸気機関で動く三葉の模型飛行機を製作した。これは総重量が16 lb.(約7 kg)という軽量さを実現しており、1868年にロンドンの水晶宮における航空博覧会で公開飛行に供せられた。固定翼の動力模型による、史上初の公開飛行とされている。(1)
図15.1 ストリングフェローの単葉飛行機(ロンドン科学博物館)(1)
ヘンソンとストリングフェローは、ことにあたって国際企業「空中輸送株式会社」を起業しており、世界初の民間航空会社ということができる。これ以降、英・米・仏では膨大な数の民間航空事業への試みが行われたが、いずれも膨大な資金の調達に苦労をした。当時の技術は、現代のものとはかけ離れているので、本稿では省略をして、第2次世界大戦後の進化の歴史を10年刻みで辿ることにする。それは、エンジンの性能が、ほぼ10年刻みで飛躍的に向上したためで、その歴史を図15.2に示す。
図15.2 第1世代から第6世代までのエンジン性能の進化
20世紀に入ると、航空機開発熱は欧米で急速に高まり、毎年多くの起業や飛行が行われた。そのすべてを列挙することはできないが、特に第1次世界大戦では、偵察機、戦闘機、爆撃機など多くの軍用機が開発された。それを受けての大戦直後の1919年と1920年の2年間の、民間航空機分野では激しい動きは、欧米の主要国間でのフラッグ・キャリアーの育成と、国際間の主要航空路の争奪戦が開始されたことを示している。
それは、これ以降延々と続く国家の威信をかけた競争の前触れであった。また、様々な競技会の開催などにより、軍用機よりも民間航空用の方に圧倒的な開発熱が喚起されて急速な発展を遂げ時代でもあった。欧米各国のこのような経験の積み重ねにより、民間航空機用エンジンは製造技術と信頼性を次第に獲得し、1930年代には大型旅客機による定期航空路の開発が始められるまでに発展した。
15.1 レシプロエンジンの旅客機
飛行機の開発熱は急激に高まったが、動力源としてのジェットエンジンの開発は容易には進まなかった。一方で、技術的に着実なレシプロエンジンの進化は急激に進んだ。特に1920年から1939年の間は航空機の「熟成の季節」とも云われている。現代でもそうであるが、航空機とエンジンは製造面での裾野が広い。二つの大戦に挟まれたこの期間は、鉄工業を始めとして多くの産業が育った時代であった。その中にあって、旅客機の定期航空路の成否は安定した飛行速度の獲得であった。当時の飛行機はエンジン性能が十分でなく、向かい風では大幅に速度が落ちてしまい、例えばパリ・ロンドン間でも向かい風では途中で燃料切れを起こす始末であった。そのために先ず行われたのは、エンジンの出力を増すことであった。
初期に適用された技術は、既存のエンジンを改造するもので次のものがある。(2)
① ピストン頭部を加工して、シリンダー内の圧力をあげる
② 出力上昇に合わせて、燃料の混合比をあげる
③ 過給機を装備する
しかし、このような改善ではまだ定期航空路の開設には適しておらず、もっぱら当時盛んに行われていたスピード競争に優勝するためのものであった。その一つに「シュナイダー杯」がある。あのアニメ映画「紅の豚」に出てくる水上飛行艇による速度競争で、長期間継続された。その優勝者の記録を図15.3に示す。
図15.3 シュナイダー杯の勝者の記録(2)
この間に行われた技術の革新は、エンジンの水冷方法と過給機(エンジンの場合には、スーパーチャージャーと呼ばれる)の改善であった。通常のラジエターでは空気抵抗が増すために、翼面に多数の真鍮や銅管を流れに沿って這わす加工が行われた。また、エンジン軸の後端に増速ギアーを介してターボ式の過給機を付けて、そこから気化器をとおしてシリンダーに燃料と圧縮された空気を送り込む過給機も開発された。(2)
続く
1903年のライト兄弟による動力有人飛行の成功以前にも、動力飛行機は存在した。ウィリアム・サミュエル・ヘンソン(William Samuel Henson, 1812- 1888)はイギリス生まれの発明家で、彼が1840年代に構想した「空中蒸気車」は固定翼、推進力、降着装置、尾翼など後世の飛行機の特徴の大方を備えた先駆的なものであった。この、固定翼と動力を組み合わせたのはヘンソンが史上初とされているが、実機は製作されず構想のみに留まった。
しかし、彼の協力者であったジョン・ストリングフェロー(John Stringfellow, 1799 - 1883)は、ヘンソンが飛行機械開発を断念した後も独自に研究を続け、1848年に蒸気機関を積んだ単葉の模型飛行機(図6.1)をわずか10 ft(3 m)だが飛ばすことに成功したとされる。
その後約20年間は飛行機開発から遠ざかるが、1馬力の蒸気機関で動く三葉の模型飛行機を製作した。これは総重量が16 lb.(約7 kg)という軽量さを実現しており、1868年にロンドンの水晶宮における航空博覧会で公開飛行に供せられた。固定翼の動力模型による、史上初の公開飛行とされている。(1)
図15.1 ストリングフェローの単葉飛行機(ロンドン科学博物館)(1)
ヘンソンとストリングフェローは、ことにあたって国際企業「空中輸送株式会社」を起業しており、世界初の民間航空会社ということができる。これ以降、英・米・仏では膨大な数の民間航空事業への試みが行われたが、いずれも膨大な資金の調達に苦労をした。当時の技術は、現代のものとはかけ離れているので、本稿では省略をして、第2次世界大戦後の進化の歴史を10年刻みで辿ることにする。それは、エンジンの性能が、ほぼ10年刻みで飛躍的に向上したためで、その歴史を図15.2に示す。
図15.2 第1世代から第6世代までのエンジン性能の進化
20世紀に入ると、航空機開発熱は欧米で急速に高まり、毎年多くの起業や飛行が行われた。そのすべてを列挙することはできないが、特に第1次世界大戦では、偵察機、戦闘機、爆撃機など多くの軍用機が開発された。それを受けての大戦直後の1919年と1920年の2年間の、民間航空機分野では激しい動きは、欧米の主要国間でのフラッグ・キャリアーの育成と、国際間の主要航空路の争奪戦が開始されたことを示している。
それは、これ以降延々と続く国家の威信をかけた競争の前触れであった。また、様々な競技会の開催などにより、軍用機よりも民間航空用の方に圧倒的な開発熱が喚起されて急速な発展を遂げ時代でもあった。欧米各国のこのような経験の積み重ねにより、民間航空機用エンジンは製造技術と信頼性を次第に獲得し、1930年代には大型旅客機による定期航空路の開発が始められるまでに発展した。
15.1 レシプロエンジンの旅客機
飛行機の開発熱は急激に高まったが、動力源としてのジェットエンジンの開発は容易には進まなかった。一方で、技術的に着実なレシプロエンジンの進化は急激に進んだ。特に1920年から1939年の間は航空機の「熟成の季節」とも云われている。現代でもそうであるが、航空機とエンジンは製造面での裾野が広い。二つの大戦に挟まれたこの期間は、鉄工業を始めとして多くの産業が育った時代であった。その中にあって、旅客機の定期航空路の成否は安定した飛行速度の獲得であった。当時の飛行機はエンジン性能が十分でなく、向かい風では大幅に速度が落ちてしまい、例えばパリ・ロンドン間でも向かい風では途中で燃料切れを起こす始末であった。そのために先ず行われたのは、エンジンの出力を増すことであった。
初期に適用された技術は、既存のエンジンを改造するもので次のものがある。(2)
① ピストン頭部を加工して、シリンダー内の圧力をあげる
② 出力上昇に合わせて、燃料の混合比をあげる
③ 過給機を装備する
しかし、このような改善ではまだ定期航空路の開設には適しておらず、もっぱら当時盛んに行われていたスピード競争に優勝するためのものであった。その一つに「シュナイダー杯」がある。あのアニメ映画「紅の豚」に出てくる水上飛行艇による速度競争で、長期間継続された。その優勝者の記録を図15.3に示す。
図15.3 シュナイダー杯の勝者の記録(2)
この間に行われた技術の革新は、エンジンの水冷方法と過給機(エンジンの場合には、スーパーチャージャーと呼ばれる)の改善であった。通常のラジエターでは空気抵抗が増すために、翼面に多数の真鍮や銅管を流れに沿って這わす加工が行われた。また、エンジン軸の後端に増速ギアーを介してターボ式の過給機を付けて、そこから気化器をとおしてシリンダーに燃料と圧縮された空気を送り込む過給機も開発された。(2)
続く
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