その場考学研究所 様々なメタシリーズ(84)人文系 #21
TITLE:メタ・メティエ(異次元の技巧)
書籍名;「ダ・ヴィンチ・システム」[2022]
著者;河本英夫
発行所;学芸みらい社 発行日;2022.4.25
初回作成日;2022.7.1 最終改定日;
「メティエ」とは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説にはつぎのようにある。
métier美術・芸術用語。 (1) 手先を用いる職業。 (2) 画家,彫刻家などが当然修得すべき基礎的な技巧。 (3) 特にすぐれた技巧,手腕,腕の冴え。
著者は、科学論、システム論、哲学の分野で多くの著作を発表している。この書は、その中の最新刊
になる。並行して,「諸科学の解体」[1987]、「経験をリセットする」[2017]も通読してみた。どれも、以って回った論理構成がなされているのだが、主張は明確に示されているように思う。
この書は、主にダ・ヴィンチの「手稿」について書かれているのだが、読売新聞の書評欄で、西成活裕東大教授が紹介をしている。
『対象を素描と言語という二重の方法で表現することで、言語の力を借りつつ、同時にその制約から逃れることもできる。これが対象をより自然に記述しようとする彼のメチエ(技法)だ。』
更に、『対象の人が笑っているのをそのまま描いているのではなく、時間軸の中で一連の動きを一枚の静止画に盛り込んで表現しているらしい。そのためには、対象の力学的なしくみをきちんと理解していなければならない。』確かに、本文の要旨はそのようになっている。
「はじめに」では、世界中で、毎年何冊ものダ・ヴィンチ本が出版されるが、「誰であっても、幾分かこんわくする」とある。著者は、『この言葉による届かなさの印象は、ダ・ヴィンチ自身の「異次元性」に由来すると、言い訳がましく語ることもできる。そうした異次元性にそれとして触れることも、たしかに貴重な経験なのである。』(p.7)
異次元性は、すなわち「メタ」と云うことになる。
異次元性の一つは、『ダ・ヴィンチの構想には、ルネッサンスの「人文主義」の影響は、ほとんどない。』(p.7)と云うことで、同時代の文化的環境と文化的手段を離れたところから出発をしているというわけである。
ダ・ヴィンチは「私は言葉からではなく、自然から学ぶ」と何度も繰り返し述べている。例えば、色についての言葉は、赤、黄、青などせいぜい50~80程度(中世からの日本語の表現では、もっと多いように思う)だが、色合いの区別は3万5000種程度できる、とある。(p.9)
人類は、様々な方面で進化を遂げている。しかし著者は、「進化の閉回路」として、『進化枝は先端では分岐してゆく。そしてどんどん細い道筋に入って行く。(中略)進化とは気が付いたときにはおのずと自分自身の選択肢が減っていく仕組みのことである。』(pp.14-15)という。そこから抜け出すには、「能力の発現」即ち、異次元への脱皮が必要になる。
「動きを描く」については、いくつかの「手稿」示されている。
『空中を降下する水滴の各側面は水滴の運動と反対に運動して、各末端からその上部の中心に向う円形で、連続的な波をつくりだす。こういう波は周辺の中心に打ちかえさないで、その円の中心に 沈んで底深く入り、下側から出て、さきにそこから降ったところ、すなわちもっとも高い個所にふたたびたちかえり、ここであらためて円形の波を再び生じて、あらためてその中心に沈むのである。(「手記 下、一〇九頁」』(p.54)が、その一例だが、通常では見えないものを描写している。
激しく動く馬の絵がある。馬の動作は、歩くときも走るときも、特有の反復がある。しかし、その反復は完全には同じではない。『どの運動の変化の局面(変化率)を切り取れば、最も馬らしいのか』(p.60)
ダ・ヴィンチは、「変化率と個体性との内的かかわり」を探るために、多くの馬の素描を残している。
『ある意味で、ダ・ヴィンチの膨大なデッサンはAI的なのである。』(p.65)という。これは、AIが膨大なデータから答えを出すことが、人間の数学的規則や言語的判断とは全く別物になっていることと同じこととしている。
また、アリストテレスの考え方との対比を示している。アリストテレスの「自然学」では、同時代の多くの議論を検討し、整理して一つの答えを導いている。
『ダ、ヴィンチの構想とアリストテレスの議論は、本当は小さな変更をかければ、十分に連動しながらやっていける局面がある。それはアリストテレスが、個物の認識のさいに取り出している、「質料ー形相」の二つ一組の概念対にある。この概念対は、アリストテレスの仕組みの中でも、最も重要なものの一つである。質料は素材であり、形相は形である。個物の認識には、形の認定がつねにともなっている。だからアリストテレスは、個物の認識の最も標準形を取り出しているように見える。だが個物の成立そのものに立ち入ってみると、まったく別のことが起きている。たとえば同じ素材を用いても、異なる形の建築物を作ることはできる。逆に異なる素材を用いても同じ建築物を作ることはできる。たしかにそうなのだが、これは質料と形相の間にマトリックス的な対応関係があるという指摘に留まっている。』(p.91)
そして、『ダ・ヴィンチは、アリストテレスの議論の枠の中で、四元素説(土、水、空気、火)はほぽ継承しており、重さを運動にとっての要因であるとする点も継承している。ただしダ・ヴィンチにとって最も重要な事柄は、(一)物の直接的な相互作用の仕組み、(二)運動の継続の仕組み、(三)事象の出現の仕組みであり、概念的な分析に代えて、自然事象を徹底的に観察、記述することである。こうした事態の記述に、言葉や文章ではなく、デッサ ンを持ちいたのである。』(p.95)
聊か難しい論理だが、結論としてはダ・ヴィンチの自然学はアリストテレスとも近代科学とも異なる、まったく別のものであるとしている。
西成教授の書評の最後は、こんな言葉で結ばれている。
『自然を見る事をすっかり忘れてしまっている自分に気がついた。もはや現代科学を勉強してしまった我々は、その色眼鏡でしか自然を見られなくなっている。読後、一度すべての理論を忘れて、ダ・ヴィンチの視座で自然を追ってみたくなった。』
TITLE:メタ・メティエ(異次元の技巧)
書籍名;「ダ・ヴィンチ・システム」[2022]
著者;河本英夫
発行所;学芸みらい社 発行日;2022.4.25
初回作成日;2022.7.1 最終改定日;
「メティエ」とは、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説にはつぎのようにある。
métier美術・芸術用語。 (1) 手先を用いる職業。 (2) 画家,彫刻家などが当然修得すべき基礎的な技巧。 (3) 特にすぐれた技巧,手腕,腕の冴え。
著者は、科学論、システム論、哲学の分野で多くの著作を発表している。この書は、その中の最新刊
になる。並行して,「諸科学の解体」[1987]、「経験をリセットする」[2017]も通読してみた。どれも、以って回った論理構成がなされているのだが、主張は明確に示されているように思う。
この書は、主にダ・ヴィンチの「手稿」について書かれているのだが、読売新聞の書評欄で、西成活裕東大教授が紹介をしている。
『対象を素描と言語という二重の方法で表現することで、言語の力を借りつつ、同時にその制約から逃れることもできる。これが対象をより自然に記述しようとする彼のメチエ(技法)だ。』
更に、『対象の人が笑っているのをそのまま描いているのではなく、時間軸の中で一連の動きを一枚の静止画に盛り込んで表現しているらしい。そのためには、対象の力学的なしくみをきちんと理解していなければならない。』確かに、本文の要旨はそのようになっている。
「はじめに」では、世界中で、毎年何冊ものダ・ヴィンチ本が出版されるが、「誰であっても、幾分かこんわくする」とある。著者は、『この言葉による届かなさの印象は、ダ・ヴィンチ自身の「異次元性」に由来すると、言い訳がましく語ることもできる。そうした異次元性にそれとして触れることも、たしかに貴重な経験なのである。』(p.7)
異次元性は、すなわち「メタ」と云うことになる。
異次元性の一つは、『ダ・ヴィンチの構想には、ルネッサンスの「人文主義」の影響は、ほとんどない。』(p.7)と云うことで、同時代の文化的環境と文化的手段を離れたところから出発をしているというわけである。
ダ・ヴィンチは「私は言葉からではなく、自然から学ぶ」と何度も繰り返し述べている。例えば、色についての言葉は、赤、黄、青などせいぜい50~80程度(中世からの日本語の表現では、もっと多いように思う)だが、色合いの区別は3万5000種程度できる、とある。(p.9)
人類は、様々な方面で進化を遂げている。しかし著者は、「進化の閉回路」として、『進化枝は先端では分岐してゆく。そしてどんどん細い道筋に入って行く。(中略)進化とは気が付いたときにはおのずと自分自身の選択肢が減っていく仕組みのことである。』(pp.14-15)という。そこから抜け出すには、「能力の発現」即ち、異次元への脱皮が必要になる。
「動きを描く」については、いくつかの「手稿」示されている。
『空中を降下する水滴の各側面は水滴の運動と反対に運動して、各末端からその上部の中心に向う円形で、連続的な波をつくりだす。こういう波は周辺の中心に打ちかえさないで、その円の中心に 沈んで底深く入り、下側から出て、さきにそこから降ったところ、すなわちもっとも高い個所にふたたびたちかえり、ここであらためて円形の波を再び生じて、あらためてその中心に沈むのである。(「手記 下、一〇九頁」』(p.54)が、その一例だが、通常では見えないものを描写している。
激しく動く馬の絵がある。馬の動作は、歩くときも走るときも、特有の反復がある。しかし、その反復は完全には同じではない。『どの運動の変化の局面(変化率)を切り取れば、最も馬らしいのか』(p.60)
ダ・ヴィンチは、「変化率と個体性との内的かかわり」を探るために、多くの馬の素描を残している。
『ある意味で、ダ・ヴィンチの膨大なデッサンはAI的なのである。』(p.65)という。これは、AIが膨大なデータから答えを出すことが、人間の数学的規則や言語的判断とは全く別物になっていることと同じこととしている。
また、アリストテレスの考え方との対比を示している。アリストテレスの「自然学」では、同時代の多くの議論を検討し、整理して一つの答えを導いている。
『ダ、ヴィンチの構想とアリストテレスの議論は、本当は小さな変更をかければ、十分に連動しながらやっていける局面がある。それはアリストテレスが、個物の認識のさいに取り出している、「質料ー形相」の二つ一組の概念対にある。この概念対は、アリストテレスの仕組みの中でも、最も重要なものの一つである。質料は素材であり、形相は形である。個物の認識には、形の認定がつねにともなっている。だからアリストテレスは、個物の認識の最も標準形を取り出しているように見える。だが個物の成立そのものに立ち入ってみると、まったく別のことが起きている。たとえば同じ素材を用いても、異なる形の建築物を作ることはできる。逆に異なる素材を用いても同じ建築物を作ることはできる。たしかにそうなのだが、これは質料と形相の間にマトリックス的な対応関係があるという指摘に留まっている。』(p.91)
そして、『ダ・ヴィンチは、アリストテレスの議論の枠の中で、四元素説(土、水、空気、火)はほぽ継承しており、重さを運動にとっての要因であるとする点も継承している。ただしダ・ヴィンチにとって最も重要な事柄は、(一)物の直接的な相互作用の仕組み、(二)運動の継続の仕組み、(三)事象の出現の仕組みであり、概念的な分析に代えて、自然事象を徹底的に観察、記述することである。こうした事態の記述に、言葉や文章ではなく、デッサ ンを持ちいたのである。』(p.95)
聊か難しい論理だが、結論としてはダ・ヴィンチの自然学はアリストテレスとも近代科学とも異なる、まったく別のものであるとしている。
西成教授の書評の最後は、こんな言葉で結ばれている。
『自然を見る事をすっかり忘れてしまっている自分に気がついた。もはや現代科学を勉強してしまった我々は、その色眼鏡でしか自然を見られなくなっている。読後、一度すべての理論を忘れて、ダ・ヴィンチの視座で自然を追ってみたくなった。』
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