メタエンジニアの眼シリーズ(86) TITLE: 角田理論とパックス・ジャポニカ
書名;「角田理論とパックス・ジャポニカ」 [2016]
著者;原田武夫 発行所;原田武夫国際戦略情報研究所
出典;https://haradatakeo.com/?p=62637
発行日;2016.4.17
初回作成日;H30.9.15 最終改定日;H30.8.31
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
これは書籍ではない、インターネット上の記事である。かつて感銘した日本人の特殊脳「角田理論」が、一時期忘れられていたが、ついにアメリカにおいて復活したことが書かれている。
かつて(H23.9.1),私は、デザイン・コミュニティー・リーズの第9巻「国際共同開発における技術者の役割と資質」にこのように書いた。
『第3章 技術者の個人としての資質 第1節 日本人の工学脳の特異性
私は、なぜ日本語のみが ほとんどの動物の鳴き声を言語で表すのかを不思議に思っていた。確かに、犬や猫の鳴き声ぐらいは外国語でも表現をする言葉があるが、ごく身近なものに限られている。リーンリーンとか、ガチャガチャなどの虫の音に至っては、この様な言語的な表現は日本人以外には全く理解が出来ないようだ。しかし、ある時突然に、この疑問を解いてくれる本に出会うことが出来た。そして、その本を読んでゆくうちに、この日本語特有の表現が、実は日本人(というよりは、日本語のみを日常的に使う人)の脳の特異性にあり、そのことが工学的な発想や考え方に大きく影響をしているとの学説を見出すことができ、おおいに驚くとともに奇妙な幸福感を味わうことが出来た。
私の仮住まいの近くに、金田一晴彦記念図書館なるものがある。一般の市営(山梨県北杜市)図書館で最新の新聞や雑誌などを読むためによく利用をさせてもらっている。地方の図書館は都内と異なり、読書の雰囲気は最高である。貸出の条件である冊数や期間にも十分な余裕があるのだ。この図書館には、名前の通りに方言や言語学で有名な金田一氏の遺贈による多くの本が保管されている。全体で約3万冊と図書館の案内には書いてある。一部は一般の本と同じ書架に並べられているのだが、専門書の多くは奥にある広い別室のカギのかかった立派な本箱に収められている。嬉しいことに、司書の方に頼むとこれらの本もほぼすべて自由に借りることが出来る。
先日、この中から3冊を借りて読み始めた。表題に興味が湧いたためであり、特に目的があったわけではない。
① 「日本人の表現心理」芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会
③ 「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行
この中の③が問題の書である。著者は、著名な東京医科歯科大学の耳鼻咽喉科の先生で、特に聴覚の研究を長年続けられているようだ。副題が面白く、「脳の働きと東西文化」とある。そして、巻頭のはしがきを読んだだけで、大いに興味をそそられて、一気に読み始めてしまった。はしがきの冒頭の部分にはこの様にある。
聴覚を使って脳の中の聴こえと言語の働きの中枢メカニズムを解明しようと志してから約十二年になる。私の専門領域である耳鼻咽喉科のうちから、聴覚の問題を広域に扱う日本オージオロジー学会と人間の音声や言語の臨床面を研究する日本音声言語医学会がそれぞれ独立して研究領域を拡大してきた。(中略)臨床医学の領域に限らず、日本生理学会、日本音響学会ではより精密な科学的手法を用いて動物や人間の言語情報の処理機構についての膨大な研究がある。
(中略)この論文集は言語差と文化の相違の問題にまで言及しているが、研究の出発点からこの問題を目指していたわけではなかった。いくつかの偶然のチャンスがあって、研究は始め予期しなかった方向に発展してしまったのである。
昭和52年に書かれたこの本のはじめにの文章は、この後も長く続くが、ここまででいくつかのことが思い出されてきた。
先ずは、色々な学会で独自に研究が進められている問題の融合で、最近では珍しくはないのだが、特にこの様な社会科学系と自然科学系の融合が、新たに重要な知見を得ることが出来ること。そして、出発とは違う方向に、いくつかの偶然性が導いてくれること。この二つは、「メタエンジニアリングの実装」というテーマに一致するものなのだ。
論文の前に興味を引く対話からこの本は始まっている。にくい構成である。いきなり医学の専門論文を示されたのでは、歯が立たないであろう。対話の一説の表題は、「虫の音がわかる日本人」である。ここに全てが凝縮されているのだ。引用してみよう。
餌取 秋に虫が鳴くのを意識して聞くと云うのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。
角田 ええ、中国人にさえ通じないようですよ。
餌取 そうしてみると右半球・左半球の分かれのお話は、日本人だけが特別なのですか・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれているのではないのですか。
角田 私が調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人たちーインドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人に見られるような型は示していないようです。
餌取 欧米と同じパターンですか。
角田 ええ、私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。
餌取 そうすると、日本人固有と云う訳でしょうか。
角田 そうですね。
餌取 どうして日本人だけ、そんな特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田 それはやはり、母音の扱い方の違いだと思います。
この対話は、この後で日本語の特異性に触れてゆくのだが、この日本人の特徴は、驚いたことに日本語を日常語として話さなくなった日系二世、三世には全く当てはまらないそうなのだ。つまり、生まれながらの遺伝子の為ではなくて、日常的な話し言葉に特徴があるわけで、日本語の「あいうえお」のどの語にも必ずこれらの母音がきちんと付いていることによると、それぞれが単なる母音と云うだけではなく、それぞれに意味を持つ一つの言葉であることと云うことらしいのである。つまり「い」ならば、井、意、医、胃、衣などである。確かに、この様に母音そのもの自体が単体で意味のある言葉になってしまう言語感覚は、他の国でははっきりと認識をされていないのであろう。
左の脳が言語や論理をつかさどり、右の脳が感情や芸術をつかさどることは広く知られている。私は、かねてから技術者は左脳に頼らずに右脳を働かせて、独自の発想を磨くべきであり、特に設計技術者は、壁画を描く画伯の心境であるべきだと思っている。どうやら、この様な考え方も日本人特有、と云うよりは正確には、つね日頃日本語で会話をしている為のようなのである。
氏の色々な理論と実験結果を一旦飛ばすと、結論はこうである。
脳を、言語半球(左脳)と劣位半球(右脳)とその間を取り持つ脳梁に分ける。西欧人の言語半球は、ロゴス的脳と仮称されて言語・子音・計算をつかさどり、劣位半球はパトス的脳として、音楽・楽器音・母音・人の声・虫の音・動物の鳴き声などをつかさどる。
一方で日本人の脳だけは、言語半球がロゴスとパトスの両方はおろか、自然への認識までをもつかさどっている。一方で、劣位半球は西洋音楽・機械音などのみをつかさどる。つまり、日本人は左脳の負荷が圧倒的に過多なのである。
このことから推論を進めて氏は次の様に述べている。
日本では認識過程をロゴスとパトスに分けると云う考え方は、西欧文化に接するまでは遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばし義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の需要機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンでは感性を含めて自然全般を対象とした科学的態度が生まれようが、日本語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではないだろうか?明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ちにくい背景にはこの様な日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。
とある。
つまり、日本人の左脳は「こころ」であり、右脳は「もの」であるという特異な状況にあると云う訳である。そして日本人の心は、言語も虫の音も論理計算もいっしょくたになってしまうと云う訳なのだ。従って工学の様なものが、改めて「もの」を対象とすることなく、自然に心の中に入り込んでいると云うのである。人の話し声も虫の音も同じこととして脳が受け取ってしまうのが日本人の脳で、虫の音や動物の鳴き声を、一般の機械音や雑音として受け取ってしまうのが、西欧脳なのだ。
氏は、このことをいくつかの偶然から発見したと云う。一つは、ある晩虫の音を聞きながら論文を書こうとしたが、一向にはかどらずに、虫の音が気になって仕方がなかった。西欧人に聞いてみると、そのようなことは考えられないと云う。つまり、氏の脳にとってひっきりなしの虫の音は、他人が絶えず話しかけていることと同じ受け取り方をしてしまうと云う訳なのだ。同じ理由で、音楽や楽器に対する脳内機能のパターンも全く異なってくる。
日本人の母音の順番は、「あいうえお」であるが、西欧人は「i,e,a,o,u」である。この順番で舌の位置を確認すると、日本人の場合には、舌の運動が、順を追って前後反対方向に動かすのに対して、「i,e,a,o,u」では、舌が四辺形を廻るようになるので、個々の母音が独立せずに中間的な母音が多数出てきてしまうという特徴があるそうで、このために日本人の脳では母音が言語や計算を司る左脳で認識されると云う特徴が現れるとのことである。
いずれにせよ、われわれ日本人のエンジニアにとってはこのことをしっかりと認識をしておいた方が良さそうである。つまり、特段の意識なしにものに自然を取り入れたり、改良を進めたりをすることができる一方で、様々なパトス的な雑念が入り込んでしまう。一方で欧米脳の場合には、自然などのパトス的な雑念なしに、純粋に論理思考のみで工業的な作業を行うことが出来ると云う訳なのだ。
餌取氏との対話の続きでは、次のようなくだりがある。
左脳ばかりを使って論理のみをいじくりまわしていると、どうしても模倣になってしまい勝ちで、やはり何か新しいものを生みだすのは右の脳も使ってやらないといけない。(中略)それには西洋音楽を聴くことですよ。邦楽では語りが中心だし、自然に密着していますから、やはり充分な効果は無い。全く異質という意味で、西洋楽器の音はよい刺激になります。
日本人の技術者は、意識的に右脳を鍛えないと、模倣文化がはびこってしまうと云う訳であろう。
最終章の「おわりに」の項で、氏はこう述べられている。
西洋文明の危機が叫ばれているが、それは西洋人の窓枠を通しては、新しい時代に即した想像が生まれ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国の中で、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の枠組みを持つのは、実は日本以外にはないのである。しかし、このことを日本と西洋の優劣というような価値観に結び付けて必要以上に劣等感に悩まされたり、逆に自信を持ちすぎることもない。必要なのはこの違いを如何に活かすかということである。
以上の著作内容は、昭和50年代のことであり、かつやや独善的な判断が無いではないと思うが、最後の「この違いを如何に活かすかということである。」と云われているのは、日本人技術者の今後に大いに役立つ言葉だと思う。』(pp.62-70)
この文は、多少文章を改めてメタエンジニアリング・シリーズの第3巻にも収録した。
(H23.3.23発行、pp.17-24)
彼の著書は、3冊ほど出てからぴたりと止まってしまった。その後に断片的に入った情報では、どうやらどの学会も否定的な意見が多かったということだけであった。そのころからの経緯が、この書には書かれている。その部分のみを引用する。
『ところがこの角田理論は未だコンピュータが発達していない頃、音源と物理的な手段のみを用いた通称「ツノダ・テスト」によって打ち立てられたものであるが故に、その後、脳研究では圧倒的に主流を占めることになったMRIの主導派から徹底して”非科学的“という批判を受けることになる。事実、MRIを通じた実験では角田理論が述べているような現象は検証出来なかったのである。そこでMRI派は「再現性がない虚偽の理論」と、角田理論を切って捨てた。それだけではない、もっといえばこの余りにも愚直なまでに真実のみを求め続けてきた角田忠信名誉教授を公然と罵倒し、アカデミズムからかなぐり捨てようと何度も試みてきたのである。
だが、真実は何ものにもまして圧倒的なのである。そしてそのことを父・忠信先生の背中から学び続けてきた御家族の結束が、そうした心無い者たちからの批判をはじき返して来た。とりわけ御子息の一人である角田晃一・独立行政法人国立病院機構東京医療センター臨床研究センター人工臓器・機器開発部部長はMRIを用いて何とか、この角田理論の「再現性」を確保出来ないかと試行錯誤を繰り返されてきた。
MRIによってこの再現性が確保出来ないのには理由がある。それは、あの機器から発する轟音を浴びると、不思議なことに「日本語人脳」は「非・日本語人脳」と同じ気質を示すようになってしまうのだ。つまり静寂の中においてこそ、日本語人は日本語人としての能力を最大限発揮出来るのである(我が国の文化が何故に「静寂」を重んじるのかがこれで御理解頂けるはずだ)。そのため、MRIによる再現性実験は絶対的に不可能であるかのように見えた。
しかし、である。テクノロジーの発展はやはり私たちを解法し、真実へと導いてくれるのである。我が国のとある大手メーカーが従来のような円筒の中を横臥した患者を入れていくMRIではなく、額に小型機器を装着し、基本的に音のしないMRIを開発したのである。私が上述の拙著を書き記すため、全くつてが無い中、まずは角田晃一部長の下を訪問させて頂き、その次にご自宅までお邪魔する形で角田忠信名誉教授から直接御指導を賜る栄誉に恵まれることになるわけであるが、まず晃一先生とお会いさせて頂いた時に同先生はこの画期的な再現性実験の結果を英語論文にまとめられている最中であったと記憶している。そして「父の名誉回復のために、何とかこの論文を権威ある米欧系の査読論文誌に載せたいと考えているのです」と大変熱く語って下さったことを今でも良く覚えているのだ。
そして、御苦労の甲斐があって今年(2016年)になってそれがかなえられたのである。査読論文誌「Acta Oto-Laryngologica」に掲載された角田晃一氏らによる論文「Near-infrared-spectroscopic study on processing of sounds in the brain; a comparison between native and non-native speakers of Japanese」であるが(同論文の全文はこちらからダウンロードすることが可能である)、その要旨を紹介すると次のとおりとなる:
「まとめ:この結果から、“日本語を母語にするもの”と、“日本語以外を母語にするもの”では自然音、特に“虫の声”の処理が異なる傾向にあり、このことは1970年の角田(註:忠信)の学説を強く支持する結果となった」』
この解説記事は、さらに続けて、『しかしそのこと以上に大変気になることがあるのだ。それは「なぜこのタイミングで米国勢は角田理論を公的に認めるに至ったのか」という現象面でのポイントである。偶然のように思われるかもしれないが、決してそんなことはあり得ない。なぜならば米欧勢の統治エリートらによる全世界に及ぶ言論コントロールは、とりわけインテリジェンス機関の世界を知っている者であれば先刻ご承知のとおり、正に「蟻の一穴すら許さない」レヴェルで行われているものだからだ。そして彼らは明らかにこれまで「角田理論を抹殺する」方向で動いてきたわけであり、それがここにきて突然の方向転換が行われたとなると、当然のことながら重大な理由が横たわっていると考えざるを得ないのである。』としている。
このことは、冒頭に書かれて以下のことに通じている。『2000年に全米で生まれた赤ん坊たちの中で、I.Q.が最高レヴェルのもの100名ほどが特定され、完全に隔離された環境で生育されている。どのような意味で隔離されているのかといえば、「英語環境」ではないという意味で隔離されているのである。彼らはその代りに、完全なる「人造言語」によって教育され、英語はしゃべることが出来ないように育てられているのだ。そしてこの、文字どおり全米のベスト・アンド・ブライテストの子供たちは今や16歳なのである。18歳になって成人していくのは目前である今、「どの様にして彼・彼女らを外界に公開していくのか」が実のところこの定例ランチ会合のテーマだったというのである。』
ここでいう「定例ランチ会」とは、次のことだと記している。『米国勢を代表する大学研究機関であるマサチューセッツ工科大学(M.I.T.)において学長主催の定例ランチ会合が開かれた。この会合には同大学を代表する名だたる研究者(教授)らと、それを支えている米有名企業家数名(ビル・ゲイツら)だけが招かれることになっている。』
さて、この説明の真偽は別にして、角田理論が正しいとするならば、「左脳で全ての音を処理するようになり、右脳では雑音や西洋音楽の音くらいしか処理しない」日本語脳の特徴は、メタエンジニアリングにうってつけとおもう。つまり、通常の言語と自然音、機械音を統合して同時に脳の同じ位置で処理することができるわけである。
書名;「角田理論とパックス・ジャポニカ」 [2016]
著者;原田武夫 発行所;原田武夫国際戦略情報研究所
出典;https://haradatakeo.com/?p=62637
発行日;2016.4.17
初回作成日;H30.9.15 最終改定日;H30.8.31
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
これは書籍ではない、インターネット上の記事である。かつて感銘した日本人の特殊脳「角田理論」が、一時期忘れられていたが、ついにアメリカにおいて復活したことが書かれている。
かつて(H23.9.1),私は、デザイン・コミュニティー・リーズの第9巻「国際共同開発における技術者の役割と資質」にこのように書いた。
『第3章 技術者の個人としての資質 第1節 日本人の工学脳の特異性
私は、なぜ日本語のみが ほとんどの動物の鳴き声を言語で表すのかを不思議に思っていた。確かに、犬や猫の鳴き声ぐらいは外国語でも表現をする言葉があるが、ごく身近なものに限られている。リーンリーンとか、ガチャガチャなどの虫の音に至っては、この様な言語的な表現は日本人以外には全く理解が出来ないようだ。しかし、ある時突然に、この疑問を解いてくれる本に出会うことが出来た。そして、その本を読んでゆくうちに、この日本語特有の表現が、実は日本人(というよりは、日本語のみを日常的に使う人)の脳の特異性にあり、そのことが工学的な発想や考え方に大きく影響をしているとの学説を見出すことができ、おおいに驚くとともに奇妙な幸福感を味わうことが出来た。
私の仮住まいの近くに、金田一晴彦記念図書館なるものがある。一般の市営(山梨県北杜市)図書館で最新の新聞や雑誌などを読むためによく利用をさせてもらっている。地方の図書館は都内と異なり、読書の雰囲気は最高である。貸出の条件である冊数や期間にも十分な余裕があるのだ。この図書館には、名前の通りに方言や言語学で有名な金田一氏の遺贈による多くの本が保管されている。全体で約3万冊と図書館の案内には書いてある。一部は一般の本と同じ書架に並べられているのだが、専門書の多くは奥にある広い別室のカギのかかった立派な本箱に収められている。嬉しいことに、司書の方に頼むとこれらの本もほぼすべて自由に借りることが出来る。
先日、この中から3冊を借りて読み始めた。表題に興味が湧いたためであり、特に目的があったわけではない。
① 「日本人の表現心理」芳賀 綏著、中公叢書 1979年発行
② 「日本人の表現構造」D.C.バーンランド著、サイマル出版会
③ 「日本人の脳」角田忠信著、大修館書店 1978年発行
この中の③が問題の書である。著者は、著名な東京医科歯科大学の耳鼻咽喉科の先生で、特に聴覚の研究を長年続けられているようだ。副題が面白く、「脳の働きと東西文化」とある。そして、巻頭のはしがきを読んだだけで、大いに興味をそそられて、一気に読み始めてしまった。はしがきの冒頭の部分にはこの様にある。
聴覚を使って脳の中の聴こえと言語の働きの中枢メカニズムを解明しようと志してから約十二年になる。私の専門領域である耳鼻咽喉科のうちから、聴覚の問題を広域に扱う日本オージオロジー学会と人間の音声や言語の臨床面を研究する日本音声言語医学会がそれぞれ独立して研究領域を拡大してきた。(中略)臨床医学の領域に限らず、日本生理学会、日本音響学会ではより精密な科学的手法を用いて動物や人間の言語情報の処理機構についての膨大な研究がある。
(中略)この論文集は言語差と文化の相違の問題にまで言及しているが、研究の出発点からこの問題を目指していたわけではなかった。いくつかの偶然のチャンスがあって、研究は始め予期しなかった方向に発展してしまったのである。
昭和52年に書かれたこの本のはじめにの文章は、この後も長く続くが、ここまででいくつかのことが思い出されてきた。
先ずは、色々な学会で独自に研究が進められている問題の融合で、最近では珍しくはないのだが、特にこの様な社会科学系と自然科学系の融合が、新たに重要な知見を得ることが出来ること。そして、出発とは違う方向に、いくつかの偶然性が導いてくれること。この二つは、「メタエンジニアリングの実装」というテーマに一致するものなのだ。
論文の前に興味を引く対話からこの本は始まっている。にくい構成である。いきなり医学の専門論文を示されたのでは、歯が立たないであろう。対話の一説の表題は、「虫の音がわかる日本人」である。ここに全てが凝縮されているのだ。引用してみよう。
餌取 秋に虫が鳴くのを意識して聞くと云うのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。
角田 ええ、中国人にさえ通じないようですよ。
餌取 そうしてみると右半球・左半球の分かれのお話は、日本人だけが特別なのですか・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれているのではないのですか。
角田 私が調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人たちーインドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人に見られるような型は示していないようです。
餌取 欧米と同じパターンですか。
角田 ええ、私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。
餌取 そうすると、日本人固有と云う訳でしょうか。
角田 そうですね。
餌取 どうして日本人だけ、そんな特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田 それはやはり、母音の扱い方の違いだと思います。
この対話は、この後で日本語の特異性に触れてゆくのだが、この日本人の特徴は、驚いたことに日本語を日常語として話さなくなった日系二世、三世には全く当てはまらないそうなのだ。つまり、生まれながらの遺伝子の為ではなくて、日常的な話し言葉に特徴があるわけで、日本語の「あいうえお」のどの語にも必ずこれらの母音がきちんと付いていることによると、それぞれが単なる母音と云うだけではなく、それぞれに意味を持つ一つの言葉であることと云うことらしいのである。つまり「い」ならば、井、意、医、胃、衣などである。確かに、この様に母音そのもの自体が単体で意味のある言葉になってしまう言語感覚は、他の国でははっきりと認識をされていないのであろう。
左の脳が言語や論理をつかさどり、右の脳が感情や芸術をつかさどることは広く知られている。私は、かねてから技術者は左脳に頼らずに右脳を働かせて、独自の発想を磨くべきであり、特に設計技術者は、壁画を描く画伯の心境であるべきだと思っている。どうやら、この様な考え方も日本人特有、と云うよりは正確には、つね日頃日本語で会話をしている為のようなのである。
氏の色々な理論と実験結果を一旦飛ばすと、結論はこうである。
脳を、言語半球(左脳)と劣位半球(右脳)とその間を取り持つ脳梁に分ける。西欧人の言語半球は、ロゴス的脳と仮称されて言語・子音・計算をつかさどり、劣位半球はパトス的脳として、音楽・楽器音・母音・人の声・虫の音・動物の鳴き声などをつかさどる。
一方で日本人の脳だけは、言語半球がロゴスとパトスの両方はおろか、自然への認識までをもつかさどっている。一方で、劣位半球は西洋音楽・機械音などのみをつかさどる。つまり、日本人は左脳の負荷が圧倒的に過多なのである。
このことから推論を進めて氏は次の様に述べている。
日本では認識過程をロゴスとパトスに分けると云う考え方は、西欧文化に接するまでは遂に生じなかったし、また現在に至っても哲学・論理学は日本人一般には定着していないように思う。日本人にみられる脳の受容機構の特質は、日本人及び日本文化にみられる自然性、情緒性、論理のあいまいさ、また人間関係においてしばし義理人情が論理に優先することなどの特徴と合致する。西欧人は日本人に較べて論理的であり、感性よりも論理を重んじる態度や自然と対決する姿勢は脳の需要機構のパターンによって説明できそうである。西欧語パターンでは感性を含めて自然全般を対象とした科学的態度が生まれようが、日本語パターンからは人間や自然を対象とした学問は育ち難く、ものを扱う科学としての物理学・工学により大きな関心が向けられる傾向が生じるのではないだろうか?明治以来の日本の急速な近代化や戦後の物理・工学における輝かしい貢献に比べて、人間を対象とした科学が育ちにくい背景にはこの様な日本人の精神構造が大きく影響しているように思える。
とある。
つまり、日本人の左脳は「こころ」であり、右脳は「もの」であるという特異な状況にあると云う訳である。そして日本人の心は、言語も虫の音も論理計算もいっしょくたになってしまうと云う訳なのだ。従って工学の様なものが、改めて「もの」を対象とすることなく、自然に心の中に入り込んでいると云うのである。人の話し声も虫の音も同じこととして脳が受け取ってしまうのが日本人の脳で、虫の音や動物の鳴き声を、一般の機械音や雑音として受け取ってしまうのが、西欧脳なのだ。
氏は、このことをいくつかの偶然から発見したと云う。一つは、ある晩虫の音を聞きながら論文を書こうとしたが、一向にはかどらずに、虫の音が気になって仕方がなかった。西欧人に聞いてみると、そのようなことは考えられないと云う。つまり、氏の脳にとってひっきりなしの虫の音は、他人が絶えず話しかけていることと同じ受け取り方をしてしまうと云う訳なのだ。同じ理由で、音楽や楽器に対する脳内機能のパターンも全く異なってくる。
日本人の母音の順番は、「あいうえお」であるが、西欧人は「i,e,a,o,u」である。この順番で舌の位置を確認すると、日本人の場合には、舌の運動が、順を追って前後反対方向に動かすのに対して、「i,e,a,o,u」では、舌が四辺形を廻るようになるので、個々の母音が独立せずに中間的な母音が多数出てきてしまうという特徴があるそうで、このために日本人の脳では母音が言語や計算を司る左脳で認識されると云う特徴が現れるとのことである。
いずれにせよ、われわれ日本人のエンジニアにとってはこのことをしっかりと認識をしておいた方が良さそうである。つまり、特段の意識なしにものに自然を取り入れたり、改良を進めたりをすることができる一方で、様々なパトス的な雑念が入り込んでしまう。一方で欧米脳の場合には、自然などのパトス的な雑念なしに、純粋に論理思考のみで工業的な作業を行うことが出来ると云う訳なのだ。
餌取氏との対話の続きでは、次のようなくだりがある。
左脳ばかりを使って論理のみをいじくりまわしていると、どうしても模倣になってしまい勝ちで、やはり何か新しいものを生みだすのは右の脳も使ってやらないといけない。(中略)それには西洋音楽を聴くことですよ。邦楽では語りが中心だし、自然に密着していますから、やはり充分な効果は無い。全く異質という意味で、西洋楽器の音はよい刺激になります。
日本人の技術者は、意識的に右脳を鍛えないと、模倣文化がはびこってしまうと云う訳であろう。
最終章の「おわりに」の項で、氏はこう述べられている。
西洋文明の危機が叫ばれているが、それは西洋人の窓枠を通しては、新しい時代に即した想像が生まれ得ない苦悩の表明ではあるまいか。数ある文明国の中で、異質の、しかもまだ充分に創造性の発揮されていない文化の枠組みを持つのは、実は日本以外にはないのである。しかし、このことを日本と西洋の優劣というような価値観に結び付けて必要以上に劣等感に悩まされたり、逆に自信を持ちすぎることもない。必要なのはこの違いを如何に活かすかということである。
以上の著作内容は、昭和50年代のことであり、かつやや独善的な判断が無いではないと思うが、最後の「この違いを如何に活かすかということである。」と云われているのは、日本人技術者の今後に大いに役立つ言葉だと思う。』(pp.62-70)
この文は、多少文章を改めてメタエンジニアリング・シリーズの第3巻にも収録した。
(H23.3.23発行、pp.17-24)
彼の著書は、3冊ほど出てからぴたりと止まってしまった。その後に断片的に入った情報では、どうやらどの学会も否定的な意見が多かったということだけであった。そのころからの経緯が、この書には書かれている。その部分のみを引用する。
『ところがこの角田理論は未だコンピュータが発達していない頃、音源と物理的な手段のみを用いた通称「ツノダ・テスト」によって打ち立てられたものであるが故に、その後、脳研究では圧倒的に主流を占めることになったMRIの主導派から徹底して”非科学的“という批判を受けることになる。事実、MRIを通じた実験では角田理論が述べているような現象は検証出来なかったのである。そこでMRI派は「再現性がない虚偽の理論」と、角田理論を切って捨てた。それだけではない、もっといえばこの余りにも愚直なまでに真実のみを求め続けてきた角田忠信名誉教授を公然と罵倒し、アカデミズムからかなぐり捨てようと何度も試みてきたのである。
だが、真実は何ものにもまして圧倒的なのである。そしてそのことを父・忠信先生の背中から学び続けてきた御家族の結束が、そうした心無い者たちからの批判をはじき返して来た。とりわけ御子息の一人である角田晃一・独立行政法人国立病院機構東京医療センター臨床研究センター人工臓器・機器開発部部長はMRIを用いて何とか、この角田理論の「再現性」を確保出来ないかと試行錯誤を繰り返されてきた。
MRIによってこの再現性が確保出来ないのには理由がある。それは、あの機器から発する轟音を浴びると、不思議なことに「日本語人脳」は「非・日本語人脳」と同じ気質を示すようになってしまうのだ。つまり静寂の中においてこそ、日本語人は日本語人としての能力を最大限発揮出来るのである(我が国の文化が何故に「静寂」を重んじるのかがこれで御理解頂けるはずだ)。そのため、MRIによる再現性実験は絶対的に不可能であるかのように見えた。
しかし、である。テクノロジーの発展はやはり私たちを解法し、真実へと導いてくれるのである。我が国のとある大手メーカーが従来のような円筒の中を横臥した患者を入れていくMRIではなく、額に小型機器を装着し、基本的に音のしないMRIを開発したのである。私が上述の拙著を書き記すため、全くつてが無い中、まずは角田晃一部長の下を訪問させて頂き、その次にご自宅までお邪魔する形で角田忠信名誉教授から直接御指導を賜る栄誉に恵まれることになるわけであるが、まず晃一先生とお会いさせて頂いた時に同先生はこの画期的な再現性実験の結果を英語論文にまとめられている最中であったと記憶している。そして「父の名誉回復のために、何とかこの論文を権威ある米欧系の査読論文誌に載せたいと考えているのです」と大変熱く語って下さったことを今でも良く覚えているのだ。
そして、御苦労の甲斐があって今年(2016年)になってそれがかなえられたのである。査読論文誌「Acta Oto-Laryngologica」に掲載された角田晃一氏らによる論文「Near-infrared-spectroscopic study on processing of sounds in the brain; a comparison between native and non-native speakers of Japanese」であるが(同論文の全文はこちらからダウンロードすることが可能である)、その要旨を紹介すると次のとおりとなる:
「まとめ:この結果から、“日本語を母語にするもの”と、“日本語以外を母語にするもの”では自然音、特に“虫の声”の処理が異なる傾向にあり、このことは1970年の角田(註:忠信)の学説を強く支持する結果となった」』
この解説記事は、さらに続けて、『しかしそのこと以上に大変気になることがあるのだ。それは「なぜこのタイミングで米国勢は角田理論を公的に認めるに至ったのか」という現象面でのポイントである。偶然のように思われるかもしれないが、決してそんなことはあり得ない。なぜならば米欧勢の統治エリートらによる全世界に及ぶ言論コントロールは、とりわけインテリジェンス機関の世界を知っている者であれば先刻ご承知のとおり、正に「蟻の一穴すら許さない」レヴェルで行われているものだからだ。そして彼らは明らかにこれまで「角田理論を抹殺する」方向で動いてきたわけであり、それがここにきて突然の方向転換が行われたとなると、当然のことながら重大な理由が横たわっていると考えざるを得ないのである。』としている。
このことは、冒頭に書かれて以下のことに通じている。『2000年に全米で生まれた赤ん坊たちの中で、I.Q.が最高レヴェルのもの100名ほどが特定され、完全に隔離された環境で生育されている。どのような意味で隔離されているのかといえば、「英語環境」ではないという意味で隔離されているのである。彼らはその代りに、完全なる「人造言語」によって教育され、英語はしゃべることが出来ないように育てられているのだ。そしてこの、文字どおり全米のベスト・アンド・ブライテストの子供たちは今や16歳なのである。18歳になって成人していくのは目前である今、「どの様にして彼・彼女らを外界に公開していくのか」が実のところこの定例ランチ会合のテーマだったというのである。』
ここでいう「定例ランチ会」とは、次のことだと記している。『米国勢を代表する大学研究機関であるマサチューセッツ工科大学(M.I.T.)において学長主催の定例ランチ会合が開かれた。この会合には同大学を代表する名だたる研究者(教授)らと、それを支えている米有名企業家数名(ビル・ゲイツら)だけが招かれることになっている。』
さて、この説明の真偽は別にして、角田理論が正しいとするならば、「左脳で全ての音を処理するようになり、右脳では雑音や西洋音楽の音くらいしか処理しない」日本語脳の特徴は、メタエンジニアリングにうってつけとおもう。つまり、通常の言語と自然音、機械音を統合して同時に脳の同じ位置で処理することができるわけである。
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