生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(79) 銅鐸の謎(その5)

2018年09月06日 13時38分57秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(79)  TITLE: 銅鐸の謎(その5)
書籍名;「銅鐸への挑戦 5」 [1980] 
著者;原田大六 発行所;六興出版
発行日;1980.10.1
初回作成日;H30.8.18 最終改定日;H30.8.29 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 5部作の第5巻で、副題は「倭国の大乱」。第4巻(この第5巻とは、同日発行になっている)までが、万葉集の中の古代歌を詳しく解読し、古代日本の神々が、銅鐸の文様と絵に表されているという主張だった。この巻では、日本書紀と古事記のひらがな読み(敢えて漢字では読まない)で、神話とそこに登場する神々が現実の当時の社会の出来事を説明していることを読み解いている。

 『日本列島征覇への野望
東の間の、平和は破られる 。それも西の伊都国の巫女王を盟主とする旧日向は旧出雲の日本列島征服にと、瀬戸内海を横切って、軍船を進めてきた。それを旧日向の神と旧出雲の神との 神々の戦争として説こうとするのである。それは何故か、 神である青銅器の出陣であり、神である青銅器の打倒だからである。』(pp.43 )
一見、唐突な表現なのだが、読み進めてゆくとなるほどと納得してしまう。

話は、古事記の上巻のタカムスヒとアマテラスの会話から始まる。つまり、古事記の話は、歴史上の話として終始一貫性があったということなのだ。倭国大乱の話は、漢の洪武帝から奴国に渡された金印から始まる。
 
『この「印綬」が、江戸時代に筑前国(福岡県西北部)志賀島から出土した「漢委奴国王」と陰刻されている蛇鉦の金印と考えられている。これによって見ると、印文の大きく書かれた「漢」の文字は、 奴国が冊封を受けた国として浮かんで くる。これにつづくのは邪馬台国の女王卑弥呼であるが、その金印には「親魏倭王」とあったらしく、冊封からは脱しているように見受けられる。
しかし、この金印は中国皇帝とのつながりにおいて重要な文化遺産ではあるが、弥生時代の後期において、奴国の全勢力は伊都国に掌握され、奴国王の金印も、博多湾ロの島の、波打ぎわに近く隠匿されてしまう始末であった。』(pp.46)というわけである。漢帝国の没落とともに、漢を後ろ盾にした奴国が滅んだというわけである。

『楽浪郡軍使は帯方郡使の張政のように、 伊都国の巫女王のもとに、漢皇帝の命令を受けてやってきて、筑紫軍団の指揮参画だけでなく、戦法までも伝授した軍事顧間であったろう。黄憧は漢製の軍旗である。吉備国と筑紫が 「遠交近攻」で結びつくという戦略は、当時の日本人だけで容易に考えつくことのできぬ中国式深謀であった 「遠交近攻」は戦国時代の范曙(はんしょ)が唱えた戦法である。銅鐸族への挑戦は、西方諸国を「合従連衡」にしてのもので、これも戦国時代の蘇秦が説いた戦法であった。 先に盟約した筑紫軍団と吉備軍団は西方諸国を糾合しての、これこそ「倭国の大乱」と称され る一大決戦になった。軍事顧問タカミムスヒの活動はそこにあった。』(pp.47)
 まさに「タカムスヒ」という言葉に相応しい活躍と言える。

旧出雲国(すなわち、古代の広大な銅鐸圏)を隠し、新出雲(現在の出雲地方)を顕在化させるストーリーは、以下のように記されている。

『③大国主と事代主は唯一者でなく旧出雲の各集団に一神一人ずついて、確実に判明している巨大銅鐸で三〇以上を数えられた。 その巨大銅鐸を地下に埋めさせ信仰を停止させてしまい、しかもその信仰対象を無形の一神であったことにした。なおまたその本尊は新出雲国の神社建造物に住んでいるということにして、か つての神であった巨大銅鐸を否定させ、かつ、他地方で祭られているすべての大国主も、新出雲 からの分祀であるようにみせかけた。④大国主の荒魂はアシハラシコヲであり、コトシロヌシは 軍事参謀長であった。彼等は、筑紫吉備連合軍への敵対者であり抵抗者であった。倭国大乱後はこの神の荒魂の発動は禁止され、大国主は農業神、事代主は漁業神とされて、和魂の面のみ が生き残ることを許された。大国主を荒魂のアシハシコヲとして祭ることは絶対許されなかった。⑤ 出雲神は、絶対反抗をしないという約束が、大和朝廷を守護する神になるということによって揺 がぬものとした。』(pp. 208)
 この筋書きは、諏訪大社におけるトップの大祝(おおほおり)と神長官(タケミナカタに負けた部族の長)の関係と同じ構造になっているように思う。古代日本の支配者交代時の典型的な姿なのかもしれない。

最後に「直弧文」に関する説明があった。北九州の装飾古墳が有名だが、実はあちこちに点在している。その理由が書かれているので、興味深い。

『では倭の文様とか、倭の織物とは、何を指すのであろうか。古代日本で、日本独特の文様というと、弥生後期に吉備地方で発生し、つづいて古墳時代を代表する「直弧文」というのがある。これをシヅオリといったのではなかろうか。「倭文手纏」「倭文幣」 「倭文幡」「志都久良(倭文鞍)」「倭文纏」などと使用されている。 直弧文は呪縛文といわれるが、呪縛というこしとは、荒ぶる神や魔物を鎮静させる力を持つと考えられてなされるものであった。
倭文手纏 数にもあらぬ身にはあれど 千年にもがと 思ほゆるかも(山上憶良『万葉集』巻五・九〇三)
ここの「倭文手纏」も枕詞ではない。枕詞と考えるのは、国文学者の迷信である。「呪縛の腕輪をつけるのも、余命いくばくもない身体ではあっても、千年も生きのびたいと、思うがためである」と憶良は詠んでいるのである。』(pp.226 )

 要所のみを断片的に引用したので、論理的になっていないと感じられるかもしれないが、全体を通して熟読すると、なるほどと思えることがいくつもあった。古代史を楽しむよすがが、また一つ増えた。


メタエンジニアの眼シリーズ(78) 銅鐸の謎(その4)

2018年09月05日 15時36分43秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(78) TITLE: 銅鐸の謎(その4)

書籍名;「銅鐸への挑戦 4」 [1980]
 
著者;原田大六 発行所;六興出版
発行日;1980.10.1
初回作成日;H30.8.18 最終改定日;H30.8.29 
引用先;文化の文明化のプロセス Implementing

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。




 5部作の第4巻で、副題は「破壊された銅鐸」。第3巻までが、万葉集の中の古代歌を詳しく解読し、古代日本の神々が銅鐸の文様と絵に表されているという主張だった。この巻では、日本書記と古事記のひらがな読み(敢えて漢字では読まない)で、神話が現実の当時の社会出来事を説明していることを読み解いている。ひらがなにして、敢えて和言葉で解釈をすると、神々の本来の姿が浮かびあがるというわけである。記紀では、このことを隠すために、敢えて本来とは異なる漢字をあてたことで、後世の解釈に混乱をきたすようにしたという主張も書かれている。
 
巻頭の「編集部より」の記述には、このようにある。
『第3巻までに、従来では銅鐸研究にはおよそ役立ちそうにないといわれて来た『古事記』と『日本書紀』を駆使して、日本神話が疑いもなく弥生時代の歴史的事実の伝承の上に立っていることを証明し、戦後言われて来たような虚構などではないことを議論の余地なく論証し、同時に記紀の中から銅鐸に関する豊麗な記録の鉱脈を発掘して見せてくれた。これまで未詳とされて正体を明らかにしなかった日本の神々の名称も水際だった手腕で解明されちんぷんかんぷんだった八百万の神々たちは、にわかに親しみ深い存在となって私たちに迫っで来る。』(pp.4)

 更に、本巻の内容説明としては、
 『第4巻では、銅鐸という御神体をめぐっての宗教戦争が主題となり、銅鐸の火炙りと押潰しという受難、その敗北と勝利が語られる。考古学的遺物である広形銅矛、広形銅戈、平形銅剣そして銅鐸の四つは弥生時代には疑いもなく神そのものであり篤く尊崇された。だが、武器としての前三者を選んだ弥生人と、音響を発する銅鐸を神とした弥生人の性格の間には自ずと相違があったらしく、前者の積極性、攻撃性に比すれば、後者の消極的、防衛的な姿勢は否めない』(pp.5)

 つまり、当時の青銅器鋳造技術を持った種族間に、大きな違いがあったという仮説である。さらに続けて、
 『伊都国は中国に軍師を仰いで作戦参謀とし、吉備国と合従、次いで四国の諸国と連衡するや、まず韓国人の傭兵師団天日矛軍団を旧出雲に送り込み、巨大銅鐸破壊、リーダー大国主の逮捕と処刑をやらせた。銅鐸族は危機打開のための一手を打ち戦況を有利にすることに成功する・・・・こうした大ロマンが、はて日本神話のどこにあったろうか』(pp.5)

 本文では、八百万の神々の名前を次々に読み解いてゆく。しかも、その順番が日本書記における一貫した話に登場するキーワードになっているというわけである。

 例えば、有名な「事代主(ことしろぬし)」については、以下のようになる。
 『神屋楯比売(カムヤタテヒメ)秘密会議所を掌る女神
「神屋」とは神女を祭る「神殿」ではなく、神格化された人の家巌であろう。「楯」は戦争の時
に立て並べて敵の矢を防ぐものであった。このことから楯は人々が勝手に立ち入らないように立照られたものである。』(pp.139)

 この次に登場する神が事代主で、
 
『軍事の参謀総長
「事」には、いろいろの意味がある。①事柄、②行動・仕事・任務、③一大事・事件、④結婚の約束などに古代では使われている。戦争は③に入る。「代」には、イ…に相当するもの、ロ… を作るための地、ハ…の代わり、ニ助数詞として田の広さを測る単位、などに使う。
これのどれと、どれが結びついて「事代」になっているかであるが、それを決定するのが母とされているカムヤタテヒメである。これが秘密会議所を掌るならば、その「事」は③一大事・事件・有事になる。特に戦争はその最高の有事である。ところが「代」に相応するものがない。しかし・ロの ・・を作るための地、というのに「苗代」がある。たしかに苗をつくるための地に間違いない。

しかし水稲耕作における「苗代」は、苗を植えつける水田の面積を割出して、所要の種を播き、 それが移植の時期がきて田植となるのだが、全体(水田)を計算して、その苗が過不足ないように大本を士切る力が「代」であった。軍事全体を掌握し、部分の行動に果配を振う長、それは現代ならば参謀総長である。 軍事はすべて機密が守られねばならぬ。秘密会議が持たれるのは、必然であった。』(pp.140)
 といった具合である。

 最長のストーリーが台風神の「素戔嗚(スサノオ)」に始まる一連の話で、台風の内容や、その被害に対する心構え(現代の避難指示に相当する)が語られているというわけである。

 例えば、避難指示の神は、このような名前になっている。
 
『遠津待根(トホツマチネ)・遠くへ逃げ洪水津浪の引くのを待つ人々
濁流文銅鐸に「天都度閉麻知泥(アマノツドヘマチネ)」があった。これは台風による洪水、あるいは津浪から逃げのびた姿を描いた銅鐸であった。ここの神名もそれと同様で、水に追われて集落を離れ、河川を離れ、海岸とは反対側の山の手へ、一目散に遠くへ逃げのびてきた人の群である。ずぶ濡れになりながら、なおも風に吹き倒されそうな高所から眺められる状景は、(2)から(24)までに述べてきた、そのすべてがあった。避難民は、ひたすらに風雨の鎮静と、洪水、津浪の退去を、一心不乱に神に祈る以外になかった』(pp.166)
 
これらの神々の説明の最後に、「銅鐸の用途について」纏められている。
 
『銅鐸の用途につながる台風実況神
この伝承は、全く美事な神名の配列によって台風の実況報告を、荒ぶる神のなす業として綴っ ていたのである。そこにはソツも多弁もない。胸に迫ってくる真実の力がある。これをとらえたのは弥生時代の旧出雲の農民である。農業共同体成員の目と耳でとらえた、自然のすごい表現であった。なぜこれまでに台風をとらえたかというと、銅鐸の系譜とそめ構成につづく、銅鐸すべての用途につながっていたからである。すべての銅鐸の神格構成は、 台風忌避十銅鐸神+農業共同体の首長 であった。台風が襲来してこぬように、台風神スサノヲに祈り、そして豊年を待つのであったが、 台風神の虫の居所が悪くて直撃してきた時、銅鐸は乱打されて、その危険を急報したが、いかなる災害が、どのようにして発生してくるかを教え、その避難に役立てたのが、この神々で語る台風実況であったろう。』(pp.168)
 まさに、現代の「避難勧告」にあたる機能を有していたというわけであり、かなりの説得力を持つ解釈だと感じる。

 最終章では、銅鐸族が天孫族に追われて、片方の国がひろがり、片方の国が狭まったことの、具体的な地理関係を説明している。それは日向と出雲であり、著者は、それぞれの支配地域を新旧の名を冠して示している。
 
『これまで私が論証してきたように、出雲には、旧出雲と新出雲国とがあったように、日向にも旧日向と新日向国とが存在したのである。新出雲国については、そもそもが架空なため、裏付けとなる考古学的物的証拠が、それこそ何一つとして存在しなかった。新日向国も同じで、 架空の土地であるから、天孫神話を証拠立てる何一つの証拠物件も存在しなかったのである。』(pp.225)

 『出雲国が広大な二+四カ国(但馬・播磨・丹後・丹波・摂津・河内・山城・大和・和泉・紀伊・阿波・土佐・近江・伊賀・伊勢・若狭・越前・美濃・尾張・三河、遠江・信濃・駿河・伊豆)からなっていたのが、 山陰の一小国新出雲国へと狭溢化されたのに対し、新日向国は、せいぜい伊都国をはじめとする 北部九州の数郡の旧日向国から、豊と新日向の二国へと拡大された点にある。』(pp.226)というわけである。
 
新日向の国は、現在の高千穂町から宮崎の高千穂の峰にかけての広大な地域を指す。ここは、天孫族が伊都国から進出した地域と考えているという。
 彼の研究が、なぜ昭和55年からストップしてしまったのか、残念に思う。それは、彼の突然の死によることが、後の2冊の本からうかがい知ることができる。