屯田物語

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「不思議の人・詩人大村正次先生」 正次と彼を支えた妻のこと。

2019年12月26日 | 大村正次

「縄文のビーナス立像」(模)と蘭の切り花を活けた「花瓶」は宝塚M夫人制作

「大村正次」は明治29年(1896年)富山県東岩瀬(現富山市)に父松次郎、母キヨの長男として生まれる。大正5年(1916年)富山師範学校を卒業、同年東岩瀬尋常小学校の訓導(くんどう・旧制度の教員の職名、全教科教えられた。)を以て社会へ一歩を踏み出し、6年間教壇に立つ。この間同僚で新庄村(東岩瀬の神通川を挟んだ西側対岸にある。)出身の金岡キクと職場結婚した。(道正弘著「日本海詩人」主宰者 抒情詩人 大村正次より抜粋)
妻キクについては、道正弘著に「名門出身」とあり、「金岡姓」としては北陸財界屈指の名門(元々は薬種商、初代又左衛門は明治30年に水力発電による富山電灯株式会社を興した。)であり、その一族に繋がる者と仮定した場合に、経済的にも恵まれていたのではないか、と想像した場合、明治後期~大正初期に女性ながら師範学校で学んだということも理解できる。(金岡家は富山県民会館分館として今も新庄町に残る。)
キクは「大原菊子」のペンネームで「日本海詩人」に詩を発表しており、収集した資料のなかに大村夫婦の詩が並べて掲載されていた。(12月15日「屯田物語」)

摂津国の怪人


 のみ・・の音  大原菊子

朝日の裏庭で
鑿をうつ音がする
何かしら働きたいと
はだして水を汲んでゐる。

朝の教室の
白いカーテンの
ちょっとの隙間をみつけて
朝日がのぞいてゐる。
みんな美しいお下げなので
どの眸もよろこびに輝いてゐる。

ゆふべないてゐた未亡人が
けさ、朝日のなかで
子を背負ひ乍ら
せっせとあらひものをしてゐた。