備前焼作家・国指定伝統工芸士の肩書をもった陶芸家「松井陶仙」(1928生)の工房を訪ねたことがある。
「備前焼」は釉薬は付けず、1200℃にもなる温度で一週間ほど登り窯で炊き続けるという過酷な作業を重ねることによって自然釉でゴマ・火襷(←クリック)などが見られるのだ。
大村正次にとっては北海道に関しての知識が豊富だったことが伺われる。その理由の数々を列記すると・・・
1,宝暦期(1751~64年)以降の蝦夷地の開発発展に伴い、海産物・魚肥や様々な産物を上方にもたらし、一方、蝦夷地には米穀や自給不能な商品を送り込んだ役割を担ったのが「北前船」であり、北陸地域から台頭してきたのが北前船の存在であった。上方と蝦夷地の地域間格差を利用して莫大な利益を上げた。越中の場合、魚肥移入を認めた上に、地船重視による領内廻船の奨励方針に藩が転換した文政期(1818~30年)以降に北前船が多数登場したとある(富山県の歴史・山川出版社より)。従って「正次」の耳にも北海道についての情報の伝聞が入っていたものと想像する。
2.前出の「嵯峨寿安」は大村屋とは姻戚関係にあり、正次も一族であることから墓守をしたとの言い伝えられていることから、時代のズレはあるものの(正次2才までの二年間がラップするものの、彼の幼児期にある為、実際にはかなりのズレではあるが…)寿安に纏わる話があり、寿安没後のあと、一族に具体的ニュースとして伝わっていたのかもしれないとするならば、正次にとっては好ましい情報になっていたのかもしれない。その話とは、寿安はロシアに渡るべく横浜に入港したロシア船が函館に向かったと聞くと函館に赴き、そこでロシア領事館に居たギリシャ正教修道司祭ニコライと運命的な出会いをしたとのこと、ロシア語と日本語を教え合う関係が3年間続いたという。後に彼の後押しもあり念願のロシアへ渡ったことからも、「函館」の地は夢を育んだ地とも言え、寿安の行動が仄聞として、正次の北海道が好ましい所として映っていたのかも知れない。
3.「正次」の脳裏に大きな割合を占めていたものは、やはり富山県からの北海道移住であったろう。明治15年(1882年)から昭和10年(1935年)までの54年間で、各地からの移住総戸数は約71万戸に及んだ。その内富山県からの移住戸数は約5万4千戸、総戸数の約7.6%を占めている。最盛期である明治30年(1897年)~40年(1907年)の十年間で約6万人が移住したという。移住の形態は、明治初期は個人移住が多く、明治25年(1892年)貸付予定地存置制度(貸してもらった土地を3年かけて開拓すればその土地を無償で貰える)が設定されると、屯田兵移住では無く、「団体移住」が多く、中には大谷派東本願寺の働きかけなども関係しているとされている(富山県の歴史・山川出版社より)。大村正次にとっては、成功例、失敗例など身近に伝え聞く話題であったろう。
4.戦前の教育(教員)制度がどう言ったものかは詳しくは分からぬが、教員免許と文検に合格して、一定の教科を教えられるとなれば、資格さえあれば日本全国横断的に教えられたものと思われる。そうでなければ正次も富山から北海道旭川へとは決断できなかったであろう。そのことを踏まえて推測してみる。
5.仮に旭川中学から「生物」の教師のオファーが直接あったのなら、話は簡単であるが、その場合も直接、間接、何れに依って就職したのかわからない。どのような経緯が隠されているのか知りたいところである。実際、旭川中学に奉職する際には、上記の情報を知り得た立場として大きな判断基準になったものと愚考する。
6.「大村正次先生」は、敗戦の直前二十年七月三十一日付けで、北海道庁立旭川中学嘱託教師として渡道する(道正 弘著 抒情詩人 大村正次より)とあるが、「富山大空襲」(3000人弱死者を出した)があったのは8月1日~2日に掛けてのこと、空襲の時は既に旭川に居たのであろうか。まさに危機一髪、家族疎開という意味では大正解、文字通り空襲を避けての北海道行きであれば幸運としか言いようがない。
「備前焼」は釉薬は付けず、1200℃にもなる温度で一週間ほど登り窯で炊き続けるという過酷な作業を重ねることによって自然釉でゴマ・火襷(←クリック)などが見られるのだ。
大村正次にとっては北海道に関しての知識が豊富だったことが伺われる。その理由の数々を列記すると・・・
1,宝暦期(1751~64年)以降の蝦夷地の開発発展に伴い、海産物・魚肥や様々な産物を上方にもたらし、一方、蝦夷地には米穀や自給不能な商品を送り込んだ役割を担ったのが「北前船」であり、北陸地域から台頭してきたのが北前船の存在であった。上方と蝦夷地の地域間格差を利用して莫大な利益を上げた。越中の場合、魚肥移入を認めた上に、地船重視による領内廻船の奨励方針に藩が転換した文政期(1818~30年)以降に北前船が多数登場したとある(富山県の歴史・山川出版社より)。従って「正次」の耳にも北海道についての情報の伝聞が入っていたものと想像する。
2.前出の「嵯峨寿安」は大村屋とは姻戚関係にあり、正次も一族であることから墓守をしたとの言い伝えられていることから、時代のズレはあるものの(正次2才までの二年間がラップするものの、彼の幼児期にある為、実際にはかなりのズレではあるが…)寿安に纏わる話があり、寿安没後のあと、一族に具体的ニュースとして伝わっていたのかもしれないとするならば、正次にとっては好ましい情報になっていたのかもしれない。その話とは、寿安はロシアに渡るべく横浜に入港したロシア船が函館に向かったと聞くと函館に赴き、そこでロシア領事館に居たギリシャ正教修道司祭ニコライと運命的な出会いをしたとのこと、ロシア語と日本語を教え合う関係が3年間続いたという。後に彼の後押しもあり念願のロシアへ渡ったことからも、「函館」の地は夢を育んだ地とも言え、寿安の行動が仄聞として、正次の北海道が好ましい所として映っていたのかも知れない。
3.「正次」の脳裏に大きな割合を占めていたものは、やはり富山県からの北海道移住であったろう。明治15年(1882年)から昭和10年(1935年)までの54年間で、各地からの移住総戸数は約71万戸に及んだ。その内富山県からの移住戸数は約5万4千戸、総戸数の約7.6%を占めている。最盛期である明治30年(1897年)~40年(1907年)の十年間で約6万人が移住したという。移住の形態は、明治初期は個人移住が多く、明治25年(1892年)貸付予定地存置制度(貸してもらった土地を3年かけて開拓すればその土地を無償で貰える)が設定されると、屯田兵移住では無く、「団体移住」が多く、中には大谷派東本願寺の働きかけなども関係しているとされている(富山県の歴史・山川出版社より)。大村正次にとっては、成功例、失敗例など身近に伝え聞く話題であったろう。
4.戦前の教育(教員)制度がどう言ったものかは詳しくは分からぬが、教員免許と文検に合格して、一定の教科を教えられるとなれば、資格さえあれば日本全国横断的に教えられたものと思われる。そうでなければ正次も富山から北海道旭川へとは決断できなかったであろう。そのことを踏まえて推測してみる。
5.仮に旭川中学から「生物」の教師のオファーが直接あったのなら、話は簡単であるが、その場合も直接、間接、何れに依って就職したのかわからない。どのような経緯が隠されているのか知りたいところである。実際、旭川中学に奉職する際には、上記の情報を知り得た立場として大きな判断基準になったものと愚考する。
6.「大村正次先生」は、敗戦の直前二十年七月三十一日付けで、北海道庁立旭川中学嘱託教師として渡道する(道正 弘著 抒情詩人 大村正次より)とあるが、「富山大空襲」(3000人弱死者を出した)があったのは8月1日~2日に掛けてのこと、空襲の時は既に旭川に居たのであろうか。まさに危機一髪、家族疎開という意味では大正解、文字通り空襲を避けての北海道行きであれば幸運としか言いようがない。
摂津国の怪人