HASSY局長のハサカル日誌

伊勢志摩バリアフリーツアーセンター事務局長HASSYが
日々のハサカル(気になる)出来事など記録していきます。

誰かの人生のスパイスになれるよう生きたい(長文)

2010-01-09 10:33:28 | ハサカル
4日(月)は、昼から鈴鹿市まで車を走らせて告別式に参列。
昨年10月にNHK教育でとりあげていただいた「グラン・ジュテ」にも、私の駆け出しのころのコメントで出演してもらった上村さんの告別式でした。
突然、1月2日に亡くなったと知人から連絡があり、最後のお別れに行ってきたのでした。

上村さんと初めて出会ったのは10年ほど前、車椅子のことを何も知らない私に、
生半可な気持ちで首をつっこまれても困る。
自分たちは何十年も活動してきているのに、こんな小娘になにができるか?
という勢いで喝を入れられたのを今も思い出します。
当時、そりゃ、怖くなかったといえば嘘になりますが、ここで引き下がっていては、今後またこのような状況に直面したときに同じように逃げてしまうか、避けてしまう。
避けながらの(自分のしたい)活動になにがみえてくる?という疑問に私を向き直させてくれたのも、上村さんの重みのあるこのような喝入りの言葉でした。

あの時、甘やかされた言葉を貰っていたら、今の私はいなかったでしょう。
当時、三重県肢体不自由者協会の会長を務めていらっしゃって、その会合に毎月片道1時間30分はかかる亀山市まで通わせてもらって、無我夢中で勉強しました。

内心「この人に認められるまで、車椅子の活動しています」なんて、とてもじゃないけど言えないと思っていたので、とにかく、弟子が師匠にしがみつくようにがんばりました。
振り払われても、ガツンと言われてもね。
それだけに、当時はなにくそ精神で、見返したるぞって気持ちも正直ありました。

そんな出会いから1年後、「おでかけ!チェアウォーカー」が出来、届けたとき、ドキドキして見せたことを今も思い出します。
精一杯の作品。
これがチェアウォーカーたちに認められるものか?上村さんはなんと言うのだろうか?
ページをめくる沈黙が本当怖かった。

しばらくページをめくる音だけが聞こえてから発した言葉

「うわ~、これはえらいもん作ってくれたな~」
↑この時点で頭真っ白。私なんか悪いもん作ってしまった…?とものすごく焦りました。ああ、今もその感情思い出せます。

しかしこの後続いた言葉が、まったくの予想外

「こんな立派なものができると思ってなかった。これは使えるわ~。ありがとう。」

それを聞いたとき、なにくそ精神で「ほらみろ」なんて気持ちはこれっぽちもなく、師匠に認められたようで、素直に嬉しかったのを覚えています。
そして「おでかけ!チェアウォーカー」に、さらに”使える”という、称号をつけられたようで、胸張ってチェアウォーカーたちに勧められると自信になりました。


後に、全国脊椎損傷者協会三重大会の出席者のみんなに「おでかけ!チェアウォーカー」を資料に入れたいから人数分(200部ぐらいだったかな?)買わせてくれと頼まれました。
そのとき

「あれはな、我ら三重県の誇りや思うわ。そやから全国のチェアウォーカーに、”どうや、すごいやろ”って見せてやりたいんや」

って上村さんから言われたときは、泣きそうになりました。



そんなことを思い出しながらの告別式。
65歳という若さで、まだまだ遣り残したことあったと思います。
昨年の秋、グラン・ジュテの取材時にお会いしたときに、上村さんが活動する車椅子対応駐車場に一般の人が止めない運動であるハートTOハートと観光地、伊勢志摩でなにかコラボができるといいよね、来年(2010年)なにか、しましょうよ!という言葉を交わしたばかりでした。
まだまだ、教えてもらわなくてはいけないこともありました。

実は、先月12月もNPO活動仲間(先輩)のKさんが他界しました。
こちらも50歳という若さ。
ツアーセンターのことを常に気にかけてくれて、いろんな情報を持って、よくセンターに寄ってくれたりもしました。
私たちの活動が鳥羽市内でどんな風に見られているか?
ちょっと突っ走りすぎたときに、さらりとアドバイスもしにきてくれました。
NPOのこと鳥羽のこと、もっといろいろ知りたいこと、教わりたいことあったけれど、ここでも聞きそびれたことがたくさんありました。

また、お正月の年賀状の中に一枚寒中見舞いが届きました。
こちらは、センタースタッフの野原さんを頼って、しょっちゅう伊勢志摩に来てくれていた大阪のTさん。の旦那様から。
去年の夏終わりに、今は入院しているけど秋に伊勢志摩行くからさ~って電話あったのですが、その秋に亡くなったという報告の寒中見舞いでした。
Tさんにまつわるいろんなトラブルや、出来事もありました。
でも、それらも良い思い出となってセンターでは話題にあがる人でした。


こうも立て続けに人が亡くなることは、確かに気が滅入ってしまいます。
人の出会いが多ければ、それだけ別れが多くなるのは、分かっていること。
こんなことだったら、知り合いが少なければ、悲しみもその分減るのかな?と考えることもあります。
みんなが私より長生きしてくれれば?なんて無理なことも考えたりします。

しかし、出会ったその人の言葉や、助言で自分は確かに成長したり、変わったりしています。
そして、それらがきちんと、私に刻まれて今も生きている。
こういったことが、その人の生きた証なのかもしれないと思うと。

歴史に名を残したり
子孫を残したり
銅像?を作らせたり
碑に刻まれたり
本書いたり
目に見える形になるものだけが生きた証として認められるのではなく、どれだけたくさんの人たちの人生の中にスパイスとして味付けができてきたか?その人に刻み後世へ伝えられるか?ということも重要だと思えてきます。
また、
歴史に名を残したり
子孫を残したり
銅像?を作らせたり
碑に刻まれたり
本書いたり
する人も、そこに見えない人たちのスパイスを一杯もらって、出来たことだと思うし…スパイスがなければ成し遂げられなかったことだってあるはず。。
そのスパイスは、もしかすると、先人のスパイスが受け継がれて、伝えられたものかのしれません。

上村さんやNPO仲間はもちろん、これまでたくさんの出会ってきた人たちのスパイスで味付けされて今の私がいる。
現在もスパイスを与え続けてくえる仲間がいる。
そしてこれから出会う人でまた、違う私になっていく楽しみもあります。

その人の人生の中に、そのスパイスがあることで、より一層風味が出る。
たくさんの人の出会いと別れを経て、誰一人として同じ味ではないみんながいる。
そして、私もどこかで誰かのスパイスのひとつになれるよう生きていけられれば…。


そのために、結局私はきっと、なんだかんだ言っていても、自分に投入されるスパイスを求めながら、誰かの人生にイタズラにちょこっと隠し味を放り込み、悲しいことや辛いこと、悔しいことが増えようと新しい出会いを止めることはできないのでしょうね。

いい味(人生)になるために。