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羽田空港の変遷

2020-09-16 | ブログ

珍しい動画を見つけましたので、ご報告いたします。

 

羽田空港の変遷です。

https://www.youtube.com/watch?v=6C9yfp0HDOE

タイトル:航空写真で見る、羽田空港の歴史 History of Tokyo Haneda Airport (Japanese only)

 

羽田空港の詳細は、ここを参照してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A9%BA%E6%B8%AF

 

動画、Wikipedaiを見ると、私たちの年代が、どうして羽田空港が、小学校の社会見学定番コースで見学していたのかが、分かりました。

戦後、GHQに接収され、1958年6月に、日本に全面返還されました。

新しくできた東京の空港機能を教えたかったのでしょう。

どこを見学したのかは、覚えていませんが、最後に空港ビルの屋上から、離着陸する飛行機を見て、その後、記念撮影しました。

出来上がって来た写真を見ると、空には、離陸する飛行機が写っていました。

 

1973年、アメリカへ留学する親族を見送りに羽田空港。

1983年以降、仙台、札幌と羽田間で利用。

1985年、本社勤務の仕事で、羽田を頻繁に利用し始める。

航空会社は、マイレッジ登録が開始。

それ以降、10年ぐらいで、12万キロ飛行。

羽田―山形行きの飛行機は、ボーディングブリッジでなく、ロビーから歩いて、タラップを利用して搭乗しておりました。

ボーディングブリッジ以外は、バスで搭乗機まで行って、搭乗しておりました。

バスの時は、一番最後の人が誰だが分からないのに、ずいぶん助けられました。

主要幹線の航空会社は、JAL、ANA、JASの3社でしたが、地方空港になると、ANA、JASとなります。

航空会社の歴史も、おもしろいです。

JASは、当初、東亜国内空港で、TDAでした。

その後は、JASとなり、JALと統合し、JASはなくなりました。

ANAは、全日空でした。

 

羽田空港ビルも、変遷しております。

1970年代は、国際路線と国内路線のビルが、今の国際線ビルにありました。

その後、沖合側に羽田第一ビルができ、その後、羽田第二ビルが完成。

昔の空港ビルが取り壊され、今の国際線ビルが完成しております。

 

滑走路の変遷もありました。

特徴的なのは、D滑走路。

多摩川の河口に作られた滑走路で、滑走路の全てが埋め立てでなく、沖合の方は、従来の埋め立て、河口側は、ジャケット工法による桟橋でできています。

ジャケット工法は、ここを参照:

http://www.meigi.pa.cbr.mlit.go.jp/file/kouryuukai/5th/5th_03_shiryou.pdf

 

D滑走路から離陸する時は、駐機上から桟橋を渡って離陸する楽しみがあります。

B滑走路に着陸する時は、右下眼下に、TDLが見えます。

東京湾上空のみを通るのが、原則なので、B滑走路進入最後に、少し、左旋回しながら着陸するのが楽しみでした。

そもそもが、B滑走路利用時は、西からの風で、少し天候が荒れています。

ランディングする間際まで、飛行機は小刻みに修正しながら着陸するスリルがありました。

 

羽田空港に、10時間過ごしたこともありました。

夕方16時半出発の飛行機を予約しておりましたが、早く出発する必要があり、朝一番のキャンセル待ちを狙って6時に羽田空港に到着。

但し、その日が、祝日だったので、ビジネスマンのように遅刻する人は殆どいませんでした。

団体旅行客が多く、結局、キャンセル待ちで搭乗できる飛行機殆どなく、予約した飛行機と同じ便まで、キャンセル待ちはありませんでした。

その時は、JAL、ANA、JASのキャンセル待ちのカウンターを渡り歩きました。

キャンセル待ちは、搭乗ロビーで拘束されますが、羽田空港施設内で、時間を使いました。

一つは、散髪。小一時間は潰せます。

次は、食事。いつも忙しない食事をゆっくり食事ができましたし、利用したことがないお店の発見もありました。

 

去年、羽田国際空港内のお店を見学しました。

最上階に、日本橋を復元した橋も見学できます。

羽田空港は、本当に大きなショッピングセンターでもあります。