口吉川町の東端にある『久次』(「ひさつぎ」と読みます)は、面積が広くうちのより78人も人口の多い大きなです。(我が・東中は144人、久次は222人で口吉川町では三番目の大きさです)このでは老人会が中心になっていまも『権現講』が行われます。土曜日に公民館の『楽しい郷土史講座』受講生でその権現講を見学し、脚気神社にお参りするウォークがありました。
むかしはどの農家にも牛がいました。田を梳くときに欠かせない動物でした。そこで久次ではむかしから権現山の頂上で大護摩を焚き、家内安全・牛馬安全・五穀豊穣を祈願する祭りがありました。ところが米づくりは機械がするようになり、牛がいなくなり、大護摩の火が消えそうになりました。
しかし「むかしからの伝統行事が無くなるのは忍びない」と老人会がお世話を引き受けることになりました。それから二十年あまり、いまも老人会が中心となって全体でこの行事を行っています。牛がいなくなったので「牛馬安全」⇒「交通安全」を祈願します。
まず公民館で山伏四人と僧正さんに祈願の儀式をしてもらい、近くのお堂(このの大師堂でしょうか)にみんなで繰り出します。写真は大師堂前の広場で山伏問答をしているところです。下の山伏が案内を乞い、杖をついた山伏と問答をしています。それから四方に矢を射て、マサカリで打ちすえ……と秋に行われる伽耶院の大護摩と同じ作法で儀式はすすみ、火入れとなります。
木を井桁に組んで桧の葉が差してあるのですが、この煙がなんともすごい。それでも山伏は大声で般若心経を唱えたり頑張られました。
公民館で弁当を食べさせてもらい、午後は脚気神社まで2キロ半の道を歩いて山に登りました。写真の山門は崩れかかっていますが、その向うにある小さな祠が脚気神社です。むかしは例祭には参道に店が並び、広場では芝居小屋がかかり、近郷の村人で終日にぎわったそうですが、いまは静かな静かな山の中です。日露戦争ではたくさんの兵隊が脚気に苦しんだといいます。そこで出征する前には必ずこの神社にお参りするのがこの近郷の人たちの習しだったそうです。
土曜日の前日とてつもない地震があり、参加するのは気が重かったのですが、参加してよかった。年寄りでなにもできませんが、護摩木に「大津波の犠牲になられた御霊よ やすらかに」と書き、脚気神社でもお祈りしました。
むかしはどの農家にも牛がいました。田を梳くときに欠かせない動物でした。そこで久次ではむかしから権現山の頂上で大護摩を焚き、家内安全・牛馬安全・五穀豊穣を祈願する祭りがありました。ところが米づくりは機械がするようになり、牛がいなくなり、大護摩の火が消えそうになりました。
しかし「むかしからの伝統行事が無くなるのは忍びない」と老人会がお世話を引き受けることになりました。それから二十年あまり、いまも老人会が中心となって全体でこの行事を行っています。牛がいなくなったので「牛馬安全」⇒「交通安全」を祈願します。
まず公民館で山伏四人と僧正さんに祈願の儀式をしてもらい、近くのお堂(このの大師堂でしょうか)にみんなで繰り出します。写真は大師堂前の広場で山伏問答をしているところです。下の山伏が案内を乞い、杖をついた山伏と問答をしています。それから四方に矢を射て、マサカリで打ちすえ……と秋に行われる伽耶院の大護摩と同じ作法で儀式はすすみ、火入れとなります。
木を井桁に組んで桧の葉が差してあるのですが、この煙がなんともすごい。それでも山伏は大声で般若心経を唱えたり頑張られました。
公民館で弁当を食べさせてもらい、午後は脚気神社まで2キロ半の道を歩いて山に登りました。写真の山門は崩れかかっていますが、その向うにある小さな祠が脚気神社です。むかしは例祭には参道に店が並び、広場では芝居小屋がかかり、近郷の村人で終日にぎわったそうですが、いまは静かな静かな山の中です。日露戦争ではたくさんの兵隊が脚気に苦しんだといいます。そこで出征する前には必ずこの神社にお参りするのがこの近郷の人たちの習しだったそうです。
土曜日の前日とてつもない地震があり、参加するのは気が重かったのですが、参加してよかった。年寄りでなにもできませんが、護摩木に「大津波の犠牲になられた御霊よ やすらかに」と書き、脚気神社でもお祈りしました。