「真面目という狂気が一番恐ろしい」という一文をお寺の山門で見たのは、20年超もむかしのことです。
その頃は神戸の名谷に住んでいました。阪急六甲から歩いていけるところに「米ヌカの酵素風呂」があり、数か月通ったことがありました。その酵素風呂の近くにお寺(たぶん祥龍寺)があり、山門に警句のような文が掲示してありました。ときどき文は替わります。その中で強烈に焼き付いているのが冒頭の文です。何かの本からの引用でしょう。出典も示してあったと思います。
真面目という狂気が一番恐ろしい。
言いたいことが、あるのですが、喉につかえてうまく言えない。
そんな状態のまま、この数日、この文を自分のこころのなかで転がしています。人間という動物は「真面目にしか生きることができないのかもしれない」。自分の中の、制御不能の衝動に突き動かされて、生きるしかないのかもしれない。
そんな、悲しい動物だとしたら、生きのびるために、いっぱい考えていることがあるだろう。
そのひとつが「瞑想」です。道子さんとぼくは、毎朝「瞑想」を20分間しています。妄想がわくとしたら、それを映画のように見る。それだけでもいい。そんな瞑想です。
思っていることを伝えられないので、これだけでアップします。
また考えます。
その頃は神戸の名谷に住んでいました。阪急六甲から歩いていけるところに「米ヌカの酵素風呂」があり、数か月通ったことがありました。その酵素風呂の近くにお寺(たぶん祥龍寺)があり、山門に警句のような文が掲示してありました。ときどき文は替わります。その中で強烈に焼き付いているのが冒頭の文です。何かの本からの引用でしょう。出典も示してあったと思います。
真面目という狂気が一番恐ろしい。
言いたいことが、あるのですが、喉につかえてうまく言えない。
そんな状態のまま、この数日、この文を自分のこころのなかで転がしています。人間という動物は「真面目にしか生きることができないのかもしれない」。自分の中の、制御不能の衝動に突き動かされて、生きるしかないのかもしれない。
そんな、悲しい動物だとしたら、生きのびるために、いっぱい考えていることがあるだろう。
そのひとつが「瞑想」です。道子さんとぼくは、毎朝「瞑想」を20分間しています。妄想がわくとしたら、それを映画のように見る。それだけでもいい。そんな瞑想です。
思っていることを伝えられないので、これだけでアップします。
また考えます。