作家・車谷長吉の本『人生の四苦八苦』(2011年・新書館発行)から引用します。文学講演からの引用です。
「わたしたちは郊外のレストランへ行って牛肉のステーキを食べた。」
ここに、こういう文章があるとします。これは今日の日本の現実においてはまったく珍しくもない風景です。日本中、どこに行ってもある日常風景でしょう。 ……
ただし、これはただの作文です。この文章を文学作品にするためには、どのように変えればよいのでしょうか。
例えば、このような文章に変えます。
「わたしたちは郊外のレストランへ行って、虎の肉のステーキを食べた。」
そうすると、途端にただの作文が文学へと変化を遂げるのです。
…… これは非常に非日常的なものなのです。それを食べたという、現実においては不可能なことも文学の世界においては可能になるわけです。
この牛肉のステーキと虎の肉のステーキの違いを考えてみていただければよくわかりますが、文学作品の中には必ず、一つの作品の中には一箇所以上、このような非現実的な非日常的なものが含まれています。それこそが、文学を文学たらしめている根拠なのです。
八十六歳にもなってから気づいてもどうしようもありませんが、「そうなんだ」と感心しました。
「わたしたちは郊外のレストランへ行って牛肉のステーキを食べた。」
ここに、こういう文章があるとします。これは今日の日本の現実においてはまったく珍しくもない風景です。日本中、どこに行ってもある日常風景でしょう。 ……
ただし、これはただの作文です。この文章を文学作品にするためには、どのように変えればよいのでしょうか。
例えば、このような文章に変えます。
「わたしたちは郊外のレストランへ行って、虎の肉のステーキを食べた。」
そうすると、途端にただの作文が文学へと変化を遂げるのです。
…… これは非常に非日常的なものなのです。それを食べたという、現実においては不可能なことも文学の世界においては可能になるわけです。
この牛肉のステーキと虎の肉のステーキの違いを考えてみていただければよくわかりますが、文学作品の中には必ず、一つの作品の中には一箇所以上、このような非現実的な非日常的なものが含まれています。それこそが、文学を文学たらしめている根拠なのです。
八十六歳にもなってから気づいてもどうしようもありませんが、「そうなんだ」と感心しました。