古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『桜』を書いた二人の作家の文章から

2023年08月01日 23時24分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 日本人が「〈花見〉をすること」に、ブラジルの日系人少女がテレビでコメントしていました。「一年中いろんな花が咲くのに、日本の人はどうして桜だけわざわざ『花見』といってあんな騒ぎをするのですか」。理解できないでしょうね。
 最近、二人の作家の文を読みました。紹介します。


〇 半藤一利 『昭和探偵 忘れ残りの記』(2021年刊 文春新書)
 昔は、桜の花を眺めながらすぐに芭蕉の句を口ずさんだりした。
   さまざまの事おもひだす桜かな
 入学、卒業、初入社、結婚、あるいは転勤と、人さまざま、人生の悲喜こもごもが桜と重なって思い出となっていることが多いであろう。
 いま、間もなく八十六歳になる爺さま(昭和5年生れの半藤一利が自分のことを指して)となっては、芭蕉の句よりも一茶の句のほうがぴったりとする。
   いざさらば死に稽古せん花の陰
   死に支度(じたく)いたせいたせと桜かな
 桜も今年で見納めかいなと、そんな悲痛な、なんてことはない。「そろそろ死に稽古せねばなるまい」とむしろアッケラカンとした想いでただ眺めているのである。八十歳を超えてから感傷的に眺めたりなどついぞしたことはない。

  
 あと二カ月で八十六歳になるぼくも、桜を見ては同じ心境かな。
 高齢になり、田舎に暮らして、泊りがけの旅もしなくなりましたが、花見だけは毎年楽しみにしています。
 裏山に植えた六本のソメイヨシノ/隣り村との境の四本の桜/北谷川の桜並木/東条川とどろき荘前の桜並木/喫茶店シャレードそばの桜/ここ2年ほど見事に咲くようになった南山西のソロプチミストの桜苑/ …… 。

〇 日本はどこに行っても、桜が見られます。小説家・吉村昭のエッセイ『その人の思い出』(2011年刊 河出書房新社)という本を読んでいたら、こんなことが書いてありました。


 Nさんは大阪在住の篤志面接員をしていた人である。死刑囚、長期刑囚に民間人として接し、悩みごとをきいたりして世話をする篤志家である。
 刑務所では、それらの受刑者を慰めるため、短歌、俳句を習う機会をもうけている。Nさんは、俳人にお願いして、月一回、所内の和室で死刑囚、長期刑囚と句会を開いてもらうようになった。
 受刑者たちは、その日がくるのを待ちかね、熱心に指導をうけ、句作などしたことがない者たちばかりであったが、俳人が感心するほど上達した。
 俳人はNさんと相談し、時には果物や植物を手にして持ってゆき、それを主題に句作をするよううながすこともあった。
 ある日、Nさんが受刑者たちと和室で待っていると、俳人が戸をあけて入ってきた。満開の桜の枝の束をかかえていて、それを主題に句作をさせようとしたのである。
 異様なことが起こった。坐っていた受刑者たちが叫び声をあげて一斉に立ち上がり、桜の花を見つめている。
 通路にいた刑務官が、戸を開いて入ってきた。なにか変事が起こったと思ったのである。
「受刑者の動揺はおさまらず、その日の句会は句会になりませんでした」
 Nさんは、笑いを顔にうかべて私に言った。
 


 
 
コメント
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