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手伝いが楽しくなったのは、高校生になってから。
背も伸び、筋肉も付いた頃のことでした。
蜜柑のコンテナを5個。重量にして100Kg。
親父に替わって、真似事のような挑戦でした。
畦道を、坂道を30分かけて、背負い出しました。
朝から晩までやっても何でもありませんでした。
お手伝いをしたのは、4歳の頃から。
山に、落ち松葉を採りに行ったのが最初でした。
次は、代掻きの手伝いでした。田の中を牛が代掻きを引っ張りました。
代掻きが深く入るよう、重石の役目でした。
小学校低学年では、家に帰る途中で野菜を詰める手伝いでした。
私の仕事は、空箱(木製、通称魚箱)を持って来て、新聞紙を敷くだけでした。
祖母が、野菜を拭ききれいに並べていました。
両親は収穫をしていました。
暗くなって、祖母が晩ご飯の仕度に帰りました。
ランプの灯りの元で延々と、野菜詰めをしました。
リヤカーに乗せ、番船まで行きつくのは、いつも一番最後。
出荷した分だけの空箱を積んで、私は空箱の上でいつも居眠りでした。
家族そろっての晩御飯は、いつも10時前でした。
夏の間、毎日続きました。
真夏は煙草の枯れ木抜き、早春はトンネルで育てる野菜の菰かけ、
大豆を持って行き豆腐をもらう、小麦を持って行き乾麺と交換。
お使いは、ほとんど私の役目でした。米を借りに行くのも私でした。
遊びたかったのでした。
隠れるように遊んでいても、親父の大きな声が山の上からかかり、ジエンド。
なんのための手伝いか理解しようとしませんでした。
惜しいことをしました。野菜の作り方くらいは学べたはずです。
今だったら、お前が手伝ってくれるのがどんなに助かるか、
子供に説明したでしょう。子どもの手伝いは、当然と言う時代でした。
私の周りの子供達も同じような境遇でした。
蜜柑刈りに来た、同級生の女の子が野良着の私を格好良いと
言ってくれました。
天狗松 月の山道 ざわざわと
2015年5月16日