故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

お手伝い

2015-05-16 04:25:40 | 思い出話
 Stone image of Buddha

手伝いが楽しくなったのは、高校生になってから。
背も伸び、筋肉も付いた頃のことでした。

蜜柑のコンテナを5個。重量にして100Kg。
親父に替わって、真似事のような挑戦でした。
畦道を、坂道を30分かけて、背負い出しました。
朝から晩までやっても何でもありませんでした。

お手伝いをしたのは、4歳の頃から。
山に、落ち松葉を採りに行ったのが最初でした。
次は、代掻きの手伝いでした。田の中を牛が代掻きを引っ張りました。
代掻きが深く入るよう、重石の役目でした。

小学校低学年では、家に帰る途中で野菜を詰める手伝いでした。
私の仕事は、空箱(木製、通称魚箱)を持って来て、新聞紙を敷くだけでした。
祖母が、野菜を拭ききれいに並べていました。
両親は収穫をしていました。
暗くなって、祖母が晩ご飯の仕度に帰りました。
ランプの灯りの元で延々と、野菜詰めをしました。
リヤカーに乗せ、番船まで行きつくのは、いつも一番最後。
出荷した分だけの空箱を積んで、私は空箱の上でいつも居眠りでした。

家族そろっての晩御飯は、いつも10時前でした。
夏の間、毎日続きました。

真夏は煙草の枯れ木抜き、早春はトンネルで育てる野菜の菰かけ、
大豆を持って行き豆腐をもらう、小麦を持って行き乾麺と交換。
お使いは、ほとんど私の役目でした。米を借りに行くのも私でした。

遊びたかったのでした。
隠れるように遊んでいても、親父の大きな声が山の上からかかり、ジエンド。
なんのための手伝いか理解しようとしませんでした。
惜しいことをしました。野菜の作り方くらいは学べたはずです。

今だったら、お前が手伝ってくれるのがどんなに助かるか、
子供に説明したでしょう。子どもの手伝いは、当然と言う時代でした。
私の周りの子供達も同じような境遇でした。

蜜柑刈りに来た、同級生の女の子が野良着の私を格好良いと
言ってくれました。

天狗松 月の山道 ざわざわと

2015年5月16日  
コメント
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