『アエネイスミッション』[Aeneas Mission ]

建国の使命を抱くアエネイスのフアストミッションは自軍団自民族引き連れて炎上壊滅するトロイからの脱出である。

第1章   二つの引き金   1

2007-03-16 09:33:24 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 外は、夏の陽射しが強い、砂地である大地を焼いている。城内は石と土で出来ているせいか、空気は、ひんやりとしていて風の通りもよい、暑熱を感じない。
 会談は、今日が三日目であり最後の日である。トロイ側の接待は、オデッセウスとメネラオスの二人を丁重に遇した。会談は、決着しなかった。王プリアモスの言葉には角がないが、内容は、堅いニューアンスで拒否を示していたのである。二人は椅子をけって起ちあがった。挙措動作は、いきどおりを感じさせる激しさがあった。二人は、今日でトロイを辞すことをきめていた。
 王プリアモスの王宮で夕食を終えて外に出た。夜の帳は、すでにおりて暗い、空には月はなかった。重臣の一人が従者を連れて見送りに出てきた。二人の腹の中は、怒りで煮えたぎっている。別れの挨拶も互いにしない、目線を交わしただけであった。二人は、何ともいえない、予期しない出来事に会う予感を感じていた。

プロローグ   2-10

2007-03-15 08:46:03 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 ミュケナイの領主、アガメムノンは、ポリスの領主たちの会議の席で怒りをこめて呼びかけた。
 『皆も判っていると思うが、トロイとの事だ。トロイとの事態をどうするか。話し合う余地は全くない。この上は、力で屈服させる。賛同を得たい!』
 各領主たちにも反対はなかった。これが戦争の引き金となるのだが、もう一方でも、撃鉄となる事件が起きようとしていたのである。
 この時、アガメムノンは、オデッセウスと弟のメネラオスの帰国を待っていたのである。二人は、アガメムノンの命を受けて、トロイへ海峡の件で話し合いに赴いていたのである。<エテシアイ>の吹く北風の夏も終わろうとしている。
 <シロッコ>とよばれる、ギリシアの南の地方に、冬から春にかけて吹く 南よりの風におされて船出していった二人が、まだ帰ってきていなかった。ちょうど、その頃、スパルタのメネラオスの館には、トロイからの客が訪れていたのである。

プロローグ   2-9

2007-03-14 07:37:10 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 ギリシア人たちは、まさに海賊的に黒海に進出して行く、その目的は、鉄の交易である。その頃の鉄の価格はというと、<金>の価格の6倍という、とてつもない高い価格である。ヒッタイトの鉄器の名声は、周辺諸国に鳴り響いていたのである。ヒッタイトという国家も、ギリシアのスパルタに比して、オリエントのスパルタと言われる軍事国家であった。そのヒッタイトが、紀元前1600年頃に小アジア北東部に鉄の鉱山を開発して、鉄の精錬および加工の技術を独占していたらしいのである。他国がいかに懇請しようが、その技術の供与については、断じて行わなかったのである。周辺諸国にとって、鉄製の武器の魅力は大変なものであった。そのヒッタイトが、黒海北部沿岸に南進してきていたのである。
 ギリシア民族の思考の原点には、ポリス建設時に抱いた思いを背景にして、市民としての責任感に根ざした軍事の必要性から、秀れた武器への思いが盛んであったのである。

プロローグ   2-8

2007-03-13 08:43:55 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 いっぽう、トロイはというと、これまた凄まじいのである。海峡の入り口に位置しているという地の利を武器に、トロイ人たちは、昼夜をわかたず海峡を見張り、通過する船舶から、一方的に、ほしいままに、並外れた高額の通航料を取り立てた。いや、巻き上げたといった方が、この際、適当である。
 通過する船舶といえば、ギリシア船がほとんどである。始終、小競り合い、争いが絶えない。双方の怒りは、頂点に差しかかっている。戦争の勃発は、火を見るより、明らかなところまできているのであった。
ギリシアのポリスの領主、船主、荷主たちの怒りも心頭に達していた。そのうちでもミュケナイ、スパルタ、アテネ、アルゴスの領主たちの怒りは並ではなかった。まさに、一触即発の危機的な状況であったのである。

プロローグ   2-7

2007-03-12 11:36:34 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 シュリマンによって発掘された、3000年期の後半のものと思われる、第2層の第2市の城壁は、壮大にして堅固であり、城市の入口にあたる楼門も雄大な構えにつくられている。城内には、メガロン式の王宮と思われる建物が建ち並び、その隆盛ぶりが偲ばれるのである。尚、この遺跡から驚くほど多くの財宝が発見されているのである。また、第6市の時代も隆盛な時代であったろうと思われる、その城市の城壁は、広大な領域に及んでいるのである。トロイ戦争時のトロイと思われる第7市Aは、この第6市のすぐ上に位置している。話をもどします。
 この時代、ギリシア人たちは、西は、イタリア地方、東は、小アジアの西沿岸地方、そして、問題のペレスポントス海峡を通り、黒海沿岸地域への活発な交易に加え、関係のある地域には、小ポリスの建設と、その展開は、海賊ではないかと思われるくらいに惨烈を極めたのである。

プロローグ   2-6

2007-03-10 09:08:34 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 この古代城市トロイは、ペレスポントス海峡の入り口にあたる重要な位置にあり、古くから栄えていたのである。その古さも並ではない、新石器時代の頃からであるらしい。紀元前4000年期の末から、ずうっと下って4世紀頃(ローマ時代)までにおよび、このヒッサルリクの丘に、積み重なるようにして、9層の城市遺跡を残したのである。4000年期末の第1層の第1市とよばれる構造物より、はじまり、最後の構造物と思われる、第9層の第9市までのうち、第7層の第7市Aが、トロイ戦争で炎上消失するトロイ城市とされている。2000年という長い年月にわたり、第1市から数えて、7つ目の城市であった。トロイ城市は、たびたび襲撃され炎上消失の運命の城市でもあったらしい。しかし、常に復興してきた城市でもあったが、4世紀ごろから城市が衰微して廃墟となったのである。

プロローグ   2-5

2007-03-09 08:30:44 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 トロイ戦争が始まろうとする、この時代は、青銅器文明から鉄の文明に移ろうとしている過渡期の時代である。
 トロイ攻略の総大将アガメムノンの統治している、ギリシアのミュケナイ地方の経済状態はというと、けっして豊かとはいえない状態である。それに比べると、トロイ城市の経済状態は、豊かであった。
 エーゲ海から、黒海に行くには、トロイ領内のペレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を通らなければならない。その海峡の通航料の収益で、トロイ城市は潤っていたのである。
 話はそれますが、トロイ城市について、すこしばかり触れておきたいと思います。トロイ城市は、まさに古代城市である。トロイ城市は、海岸から6キロメートルくらいはいった、ヒッサルリクという丘の上にあったのであるが、そこで暮らしていた人たちの人数については、解かってはいない。

プロローグ   2-4

2007-03-08 10:39:05 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 紀元前2000年期の後半に至って、強大な勢力を有した族長の出現により、絶大な勢力と求心力と統制力で、都市国家の領主をまとめ、ひとつの国家としての形態を為して、いったのではなかろうかと、思われるのである。その頃には、ヘレネス本土、クレタ島、各地で、ゼウス、ポセイドンをはじめとするヘレネスの主要の神々がいますところを、オリンポス山(2917メートル)に定めて、信仰されていくのである。
 ひとつの国家を統制していくという、絶大な力を有する一人の人間が、自分を中心として、その一団を神格化したのか、はたまた、国家形成に必要とする、思考の象徴として、宗教性に近い、何かを有することで、国家という単位を統率したのではないだろうか。いずれにしても想像の範囲を出ないのである。また、この時期は、日本を含めて、世界の神話のシンクロ二シテイの時代であったようにも思われるのである。

プロローグ   2-3

2007-03-07 08:34:49 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 日本では、英語名<Greece>から、ギリシアと呼んでいるが、<ヘレネス>が民族の自称であり、自国のことをヘラス<Hellas>と呼んでいる。正式の国名は<Hellenic Republic>である。ギリシア民族の祖先は、紀元前3000年期の末ごろ、東ヨーロッパ地域から南下して来た民族が、ヘレネスと呼ばれる、この地域に移り住んだのである。ギリシアという国の地勢は山地が多く、平地の少ない国である。この南下してきた民族は、争いを好む戦士族である。その好戦性は、民族性であり、集団闘争の技術に秀れていたのである。のちのアレクサンダー王の時代にも、その進化した戦闘技術で活躍するのである。このヘレネスの地に定着した彼等は、地勢の関係もあり、各地に群雄割拠に及んだ。そのようなわけで、大帝国は形成されず、のちに<ポリス>といわれる、都市国家が各地に形成されていくのである。

プロローグ   2-2

2007-03-06 08:22:38 | トロイ城市は炎上消滅の運命であった。
 トロイの史跡調査をしていたアメリカ人、カール.ブレーゲンによる、トロイ第7市Aの発掘資料から、トロイの戦役は紀元前1200年プラスマイナス14年~16年くらいではないかと、カール.ブレーゲンは推定している。しかし、どうした理由に基づくのか、トロイ城市が<木馬の計>によって、焼討炎上の火の手があがった、おおよその日と時間が判っているらしいである。
 その、おおよその日時は紀元前11**年6月5日夜9時ちかくであったらしい。
 ドイツのシュリマン、及び、カール.ブレーゲンらの史跡発掘により、トロイ戦争は史実であることは間違いないということである。
トロイ戦争が史実であるとすれば、その開戦にいたった原因は何であったか明らかにされるものと思われる。