あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

音楽苦手

2008-10-05 21:42:53 | 日記
浅草の工芸展で見つけた泥絵

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音楽はなくてもいい。

そう思っているふしがあります。

今日NHK交響楽団がマーラーの5番を演奏していました。

私の音楽感覚でいえば、

トイレをひたすら我慢しているような不快感だけの曲です。

マーラーでは「亡き子をしのぶ歌」だけが好きです。

オーボエの音が好きだ。それだけの理由かもしれません。

そういえば、放送大学で「西洋音楽の歴史」の講座を受講したことがあります。

その音楽理論の面倒くささがいやでした。

それでも、音楽は、面白いかもしれないと思い、

「マタイ受難曲」「カルメン」魔笛」などの講義を聞き

CDを集めて聞きました。

つまりは、オペラは最悪

胸をやたらと開けた歌手が高い音域を振り回す技法は悪趣味です。

「マタイ受難曲」を除いてますます嫌いになりました。

もうクラシック音楽は、ジャズやポップスに追い越され

伝統音楽になり下がったのです。

独断でしょうね。でも、それはそれ・・・・

高級趣味の方もまだまだ残っていますから

迂闊なことはいえません。

クラシックの現代音楽?は

すっかり、趣味人の個室的なものになりました。

そとには出なくなりました。

浜離宮とか芸術の森にしか出没しません。

それに乗り変わったが、ポップスなのです。

そんな気がします。

それでも私は音楽はなくてもいい。

それじゃどんな音楽が好きかですって?

とりあえず、聞くことがあるのは

冨田勲の作曲したテーマソング

林英哲の「太鼓打つ子守唄」

EXILEの楽曲

貧しすぎますか?


カレーの市民

2008-10-05 15:48:32 | 日記
ロダンの作品の中で唯一好きな作品

ロダンという人物は芸術家なのでしょうが

傲慢で、趣味が悪く好きになれない。

彼の作る作品は精神も肉体も軟弱です。

ミケランジェロの掘り出した肉体には緊張と輝きがある

それに比し、軟弱で萎えてしまった中年の肉体は

皮を摘み上げるとミケランジェロの自画像のように筋肉の存在が見えない。

打ちひしがれた精神は明確な表情を示さない。

彼の作品には、そんなものしか見えない。

「考える人」も巨大だけどグロテスク

腕を押せば、弾力もなく、そのまま戻ってこない。

彼の作品の、どこに感動があるのだろうか

魅力を感じる人の意見も聞いてみたし。

そんなことを考える。

でも被写体として便利なので、西洋美術館にはよく寄ります。

ロダンといえばバルザック像ですかね。

確か、箱根の彫刻の森美術館に展示されているはず・・・・

「カレーの市民」は好きです。

この作品には緊張と絶望が凝縮されている。

人質として捕らわれる

そのイメージが彼らしい。

でも、そうはいっても彼のモチーフは

そのほとんどがミケランジェロによって永遠化されている。

ミケランジェロの「ダビデ」があれば、考える人は要らない。

ミケランジェロの「奴隷像」があれば「地獄門」はいらない。

そんな思いがします。

私の場合は学術的根拠などありはしない。

ミケランジェロだけが興味の対象であり

何が彼をして芸術を与えたのか

それが面白い。

ということでロダンはつまらない。


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「墨攻」(アンディ・ラウ主演)

原作は日本の漫画

墨者が戦争を仕掛けるという意表をついた内容

壮絶な戦いが描かれていますが

あれこれ面倒なことを言い始めて

肝心の超人的な戦闘は出てこない。

また、主演俳優はイケメンだけれど

強靭な肉体を誇示することもなく

卓越した武術を見せるわけではない。

それでいいかな?

去年、劇場で見て

あまりに退屈なので最初から寝ていましたが

テレビで見て、はやり寝てしまいました。

もう、英雄もの、特撮映画、危機脱出もの

飽きました。

何もないしみじみした映像を

解説や納得の台詞がないままに見たい。

中国の歴史劇はどうも饒舌で

正義を語り過ぎるので好きではない。

戦争に正義など台詞に過ぎず

大義名分など言い訳に過ぎない。

そんな屁理屈を言わずに見ていれば

可愛いのですがね・・・・

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コントの王座決定戦

その大会に参加することになったTKOの

一人がある大会で予選通過したとき

感想を聞かれて

「一言いいですか。辞めないでよかった」

浮き沈みの苦節18年

再浮上したときの言葉

御苦労様

半端じゃ芸人で生きて行けないのだ。

流行は一時、後は地味な興行の繰り返し

大変だね。

才能がなく、努力もしたくない

そんな自分のようなものは

知ったかぶりをしたり

評論したりすることなく

よくはなく

「この程度が丁度いい」と早くから諦めるのがいい。


天国と地獄いずれもこの世にはない

2008-10-05 15:33:13 | 日記
だとしれば、そんなに焦ることはない。

その真ん中もあるらしいけれど

それを意識する自分がこの世にしか存在しないとすれば

地獄も極楽もここでしか「ある」ことを知ることができない。

ここでしか想像することはできない。

極楽で蓮の台に座っていても退屈だし

素敵な音楽が流れているとしてもモーツアルトぐらいしか思いつかない。

それも毎日同じだとすれば退屈だし

朝昼晩があるとすれば食事もあるあろう

もし、空腹がないところだとすれば

何で天国あるいは極楽に行くことになるのだろう

温度が一定ならば着るものも飽きるだろうし

他人を意識しないとなると礼儀もいらないだろう。

どう考えても天国も地獄もいいところには思えない。

地獄も辛いと悲しいを感じる比較するものがなければ

それは当たり前になってしまう。

だから、今の地獄を感じること

それで十分であるような気がする。

年をとると、ちょっとくらい不幸を感じた日々の方が懐かしいし

思い出すことも豊かになると思う。

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「剣客商売」

待ち合わせの時間は

時の鐘で時間を確認したそうです。

二時間間隔だとすると

待ち合わせもおおらかな約束だったのでしょうね。

きっと、太陽の位置で時間をする

その観察力が相当であったのでしょうね。

油が高いので日が暮れるとすぐ寝ることもわかった。

剣客商売の主人公は道場の稽古指導料で生活していた。

では、息子の大治郎は?

親が引退するに際して、まとまった金を渡された。

また、力を評価されるようになってからは、田沼の屋敷で稽古をつけていた

その指導料で生活していた。

というのは、剣客が生活していくのは大変だったのですね。

力がなければ弟子はこないからです。

当然、町民は例外を除いて剣道など習わないからです。

四谷の弥七は岡っ引きですから

給料は与力から与えられましたが

それでは生活できませんから

弥七は奥さんが定食屋で稼いでいます。

それで生計を立てているのです。

そのあたりのことを時代劇を書いている作者は調べるのですね。

「御宿かわせみ」の人間関係なども実の丁寧です。

身分関係もなるほどと思われる展開を見せます。

そんなことも暇つぶしにはいい。





今日は午後から雨降り

2008-10-05 07:58:30 | 日記
今日は一休み

ゲームセンターにで行って

知り合いのじいさんやばあさんと

楽しみましょうか。

そう思って午後からお出かけしたら

誰も来ていない。

そんなことで近くのスーパーで買い物をしていたら

知人のおばさんとおじさんが買い物をしていました。

それでいいのだ。

自分もブログを更新でもしようか。