神代植物園の朝顔
夏の名残りの朝顔が咲いていました。
なぜか、朝顔って好き。
朝顔っていえば、秀吉と利休のやり取りを思い出します。
利休のところで朝顔が美しく咲いたという噂を聞きつけた秀頼が
早朝に利休宅に行ったが、どこにも咲いていなかった。
茶室の入り口から入ると
床の間に一輪の朝顔が活けてあった。
あの話です。
当時の朝顔はどんな様子だったのでしょうかね。
江戸時代朝顔が大流行したという話を聞きました。
どんな流行だったのでしょうか。
朝顔ってシンプルなのがいいですね。
先日、鎌倉へ出かけたら、電車に沿った民家の壁のいっぱいに
朝顔が咲いていました。いいですね。
・・・・・・・・・
今日の牧水
むきむきに枝の伸びつつ先垂れてならび聳ゆる老松が峰
千本松原での作品。沼津の延々と続く松原は、老木も多く、砂浜との組み合わせが美しいし、富士山を見ることができる。豪快なところです。その浜辺を千本松原というのです。絵になる景色です。
・・・・・・・・・・
今日の方代さん
そなたとは急須のようにしたしくてこの世はなべてうそばかりなり
世の中が「うそばかり」だとすれば方代さんも嘘ばかりの人だったのでしょう。方代さんの歌は、単純明快で中にスッと入っていけそうなのに、途中から反転してしまう。そんなものが多い。それが方代さんの芸術なのですね。思い通りにならない、期待を裏切る。別の組み合わせで新しい何かを生みだす。そんんさ工夫なのですね。きっと、この急須も穏やかに自分の心象をそのままなじませたら、それなりの歌になったのでしょうが、それを推敲し、別の要素にとり変えて、自分にとって心地よいというか刺激的になったときに、作品として完成させる。そんな感じなのでしょうね。
私が思うに、方代さんは、きっと、私生活でも表現が、過剰で、唐突で、嘘ばかりだったかもしれません。その意外性を方代さんを自分だと思い込み、周囲も、それを受け入れていたのでしょうね。
シャイだけれど野心家でもあったような気がします。それだらどうこうということではなく、それが人間の本性だと思うだけです。
・・・・・・・・・・・・・・・
今日の放哉
ゆうべ底がねけた柄杓で朝
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
小豆島での暮らしに馴染んでいた時期の句でしょうか。
平成で透明、あれこれ作為もなく、偽悪的でもなく
孤独であることを強調するようなものを探そうとせず
そのままがいい。そんな感じ。
読むほうも、それでいい。
気持ちがいいし、印象深い。
放哉句集を開くと、必ず見つけます。
そのページだけ麦色になっているような思いになります。
山頭火の饒舌で甘えた作風も好きですが
閉じたまま開かない放哉もなかなかいいな。
自分の皮膚感覚にあるかな。
それが今の私のリトマス試験紙です。
・・・・・・・・・・・・
古句を見る
拍子木のかたき音聞夜寒かな
こんな静かな気配もいいですね。
このような江戸時代の風景好きですね。
池波正太郎の描く「剣客商売」の秋山小兵衛の鐘ヶ淵の住まいを
思い浮かべますね。篠の河辺の向こうは畑が続く
人も疎らで、風がときには爽やか、ときには寒風気分しだい。
・・・・・・・・・
人もなき軒に並びし葱白き あきオジ
・・・・・・・・
夏の名残りの朝顔が咲いていました。
なぜか、朝顔って好き。
朝顔っていえば、秀吉と利休のやり取りを思い出します。
利休のところで朝顔が美しく咲いたという噂を聞きつけた秀頼が
早朝に利休宅に行ったが、どこにも咲いていなかった。
茶室の入り口から入ると
床の間に一輪の朝顔が活けてあった。
あの話です。
当時の朝顔はどんな様子だったのでしょうかね。
江戸時代朝顔が大流行したという話を聞きました。
どんな流行だったのでしょうか。
朝顔ってシンプルなのがいいですね。
先日、鎌倉へ出かけたら、電車に沿った民家の壁のいっぱいに
朝顔が咲いていました。いいですね。
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今日の牧水
むきむきに枝の伸びつつ先垂れてならび聳ゆる老松が峰
千本松原での作品。沼津の延々と続く松原は、老木も多く、砂浜との組み合わせが美しいし、富士山を見ることができる。豪快なところです。その浜辺を千本松原というのです。絵になる景色です。
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今日の方代さん
そなたとは急須のようにしたしくてこの世はなべてうそばかりなり
世の中が「うそばかり」だとすれば方代さんも嘘ばかりの人だったのでしょう。方代さんの歌は、単純明快で中にスッと入っていけそうなのに、途中から反転してしまう。そんなものが多い。それが方代さんの芸術なのですね。思い通りにならない、期待を裏切る。別の組み合わせで新しい何かを生みだす。そんんさ工夫なのですね。きっと、この急須も穏やかに自分の心象をそのままなじませたら、それなりの歌になったのでしょうが、それを推敲し、別の要素にとり変えて、自分にとって心地よいというか刺激的になったときに、作品として完成させる。そんな感じなのでしょうね。
私が思うに、方代さんは、きっと、私生活でも表現が、過剰で、唐突で、嘘ばかりだったかもしれません。その意外性を方代さんを自分だと思い込み、周囲も、それを受け入れていたのでしょうね。
シャイだけれど野心家でもあったような気がします。それだらどうこうということではなく、それが人間の本性だと思うだけです。
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今日の放哉
ゆうべ底がねけた柄杓で朝
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
小豆島での暮らしに馴染んでいた時期の句でしょうか。
平成で透明、あれこれ作為もなく、偽悪的でもなく
孤独であることを強調するようなものを探そうとせず
そのままがいい。そんな感じ。
読むほうも、それでいい。
気持ちがいいし、印象深い。
放哉句集を開くと、必ず見つけます。
そのページだけ麦色になっているような思いになります。
山頭火の饒舌で甘えた作風も好きですが
閉じたまま開かない放哉もなかなかいいな。
自分の皮膚感覚にあるかな。
それが今の私のリトマス試験紙です。
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古句を見る
拍子木のかたき音聞夜寒かな
こんな静かな気配もいいですね。
このような江戸時代の風景好きですね。
池波正太郎の描く「剣客商売」の秋山小兵衛の鐘ヶ淵の住まいを
思い浮かべますね。篠の河辺の向こうは畑が続く
人も疎らで、風がときには爽やか、ときには寒風気分しだい。
・・・・・・・・・
人もなき軒に並びし葱白き あきオジ
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