巾着田の彼岸花
これで秋がいっぽ深まり
コスモスが恋しい季節になりますね。
そして、紅葉に季節が終わると
色がない寂しい季節になります。
私は12月から2月までは好きではありません。
寒くて色がないからです。
西行ではありませんが
桜が咲くのを待っているだけです。
今日は昭和記念公園のコスモスを見てきました。
見ごろ始まりですね。
しばらくは昭和記念公園のコスモスを楽しみましょう。
そのうち、南京櫨も色づくでしょうね
アカシヤも輝いてくるでしょう。
今日は今日の木々を楽しみましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・
今日の子規
萩咲くや生きて今年の望足る 子規
胸が痛くなるような句ですね。明治30年の句です。子規は明治35年まで句をつくり続けます。短い人生、その短い時間に成長し、変化し、燃え尽きたのですね。子規は、時代の輝く星のような存在であり、ときには、その後の俳人が居場所を失うような「怪物」のようにも思えます。
・・・・・・・・・・・・
今日の放哉
島の女のはだしにはだしでよりそう
この風景、漁師町では当たり前に見えた景色ですね。
ゴーギャンの絵のようなおおらかで逞しく、くったくがない
大声で話し合う姿が浮かびます。
それとも「寄り添う」はいたわり合っていることを意味するのでしょうか。
火急の用事、慌てている風景とも読みとれます。
それでいいのような、それが俳句の危うさなのか分かりません。
・・・・・・・・・
今日の芭蕉
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月
美しい格調高い図柄の柄なのに宗教的なものまで感じる。
そんな句ですね。月日が流れて行くのに、人は替わっても、家に入り込む月は変わらない。とても、いいですね。口にすると、心地よい秋の風を感じます。名句と言うか「大好きな」句です。わからない句が多い中で、ときどき、すっと入りこむような句があるのが芭蕉ですね。「さすが芭蕉」というような技巧的あったり、伏線を準備した「なるほど芭蕉」もありますが、素人の私は学問的に見る力もありませんし、俳句専門家の視点で見るつもいもありません。素人目の素朴な受け止め方からはみ出さないようにしようと思っています。
・・・・・・・・・・・・・・・
今日の一茶
ちまちまとした海もちぬ石路の花
これも一茶かという句。蕪村のようなスケッチ風の句ですが
黄色い花が鮮やかですね。一茶の屈折した思いを描いた藤沢周平の「一茶」読みなおしてみようかなと思います。弟子にこびなければ生活できなかった一茶、金がないために、身勝手な男と言われ続けた一茶、それだから一茶は孤高の世界を生みだした。そんなものかもしれませn。そこを知りたいですね。
・・・・・・・・・・
懐かしい啄木
田も畑も売りて酒のも
ほろびゆくふるさと人に
心寄する日
このような啄木の歌は、今の時代はやらないし
響かないでしょうね。
でも、時代を切りとるものとして興味深いですね。
渋民村の時代、石川一族は借金を踏み倒し
せびり、寺さえも乗っ取ったという噂も流れるほど
村の人とは折り合いが悪く
「石もて追われるごとく・・・」
出て行ったのですから
この歌は、怨みつらみを込めて
作った歌かもしれません。
歌人は、その歌の精神性、芸術性を高めることで
読む人に感銘を与えるのですね。
その要素が希薄だと、「なるほどね」の続きがないのですね。
石川啄木、中学生のころ、痛いような感性に共感しましたが、今は魅力を感じるところがありませんね。時代が彼の存在を消してしまうかもしれません。
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これで秋がいっぽ深まり
コスモスが恋しい季節になりますね。
そして、紅葉に季節が終わると
色がない寂しい季節になります。
私は12月から2月までは好きではありません。
寒くて色がないからです。
西行ではありませんが
桜が咲くのを待っているだけです。
今日は昭和記念公園のコスモスを見てきました。
見ごろ始まりですね。
しばらくは昭和記念公園のコスモスを楽しみましょう。
そのうち、南京櫨も色づくでしょうね
アカシヤも輝いてくるでしょう。
今日は今日の木々を楽しみましょう。
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今日の子規
萩咲くや生きて今年の望足る 子規
胸が痛くなるような句ですね。明治30年の句です。子規は明治35年まで句をつくり続けます。短い人生、その短い時間に成長し、変化し、燃え尽きたのですね。子規は、時代の輝く星のような存在であり、ときには、その後の俳人が居場所を失うような「怪物」のようにも思えます。
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今日の放哉
島の女のはだしにはだしでよりそう
この風景、漁師町では当たり前に見えた景色ですね。
ゴーギャンの絵のようなおおらかで逞しく、くったくがない
大声で話し合う姿が浮かびます。
それとも「寄り添う」はいたわり合っていることを意味するのでしょうか。
火急の用事、慌てている風景とも読みとれます。
それでいいのような、それが俳句の危うさなのか分かりません。
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今日の芭蕉
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩の月
美しい格調高い図柄の柄なのに宗教的なものまで感じる。
そんな句ですね。月日が流れて行くのに、人は替わっても、家に入り込む月は変わらない。とても、いいですね。口にすると、心地よい秋の風を感じます。名句と言うか「大好きな」句です。わからない句が多い中で、ときどき、すっと入りこむような句があるのが芭蕉ですね。「さすが芭蕉」というような技巧的あったり、伏線を準備した「なるほど芭蕉」もありますが、素人の私は学問的に見る力もありませんし、俳句専門家の視点で見るつもいもありません。素人目の素朴な受け止め方からはみ出さないようにしようと思っています。
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今日の一茶
ちまちまとした海もちぬ石路の花
これも一茶かという句。蕪村のようなスケッチ風の句ですが
黄色い花が鮮やかですね。一茶の屈折した思いを描いた藤沢周平の「一茶」読みなおしてみようかなと思います。弟子にこびなければ生活できなかった一茶、金がないために、身勝手な男と言われ続けた一茶、それだから一茶は孤高の世界を生みだした。そんなものかもしれませn。そこを知りたいですね。
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懐かしい啄木
田も畑も売りて酒のも
ほろびゆくふるさと人に
心寄する日
このような啄木の歌は、今の時代はやらないし
響かないでしょうね。
でも、時代を切りとるものとして興味深いですね。
渋民村の時代、石川一族は借金を踏み倒し
せびり、寺さえも乗っ取ったという噂も流れるほど
村の人とは折り合いが悪く
「石もて追われるごとく・・・」
出て行ったのですから
この歌は、怨みつらみを込めて
作った歌かもしれません。
歌人は、その歌の精神性、芸術性を高めることで
読む人に感銘を与えるのですね。
その要素が希薄だと、「なるほどね」の続きがないのですね。
石川啄木、中学生のころ、痛いような感性に共感しましたが、今は魅力を感じるところがありませんね。時代が彼の存在を消してしまうかもしれません。
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