昭和記念公園の曼珠沙華
彼岸花、昔、伊豆の山中の親戚の家を訪ねたとき
バス停から、歩いていたときあぜ道にくねくねと彼岸花が咲いていたのを覚えています。群生すると圧倒的な迫力で迫ってきますね。
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曼珠沙華咲いてそこがわたしの寝るところ 山頭火
昭和7年9月20日、其中庵に移る。わたしは、故郷のほとりに庵をみつけて、そこに住むことができた。行乞流転、はかない歩みを重ねてきた。ひとりさびしかった。あてもなく歩き、はてもなくさまよって来たが、ひとりではなかったのだ。欲しかった寝床にめぐまれた。一面の曼珠沙華の咲くところ、ここが、きょうから私の寝床である。終の臥所になるかもしれない。いかにも私にふさわしい場所だ。(昭和7年)
今日はめずらしく、俳句の内容に近い写真が準備できたけれど、それは単なる偶然です。俳句にあった写真を撮るなどとてもできません。それにしても昭和記念公園の曼珠沙華をみると不気味な気分になりますね。どうしてでしょうかね。やはり、あの赤なのですね。どうも好きでありませんん。中華街の門柱の装飾のような気分になるのです。色にも相性があるのですね。向日葵の黄色、コスモスのピンク、紅葉の銀杏、風船かずらの緑、紫陽花の青、そう思えば、自分の好きな花は季節の風と色なのですね。
横道でした。山頭火の俳句よりも、日記の文章が好き。それが今の山頭火に対する思いですね。この句は日記を読むとそうかなあと思いますが、俳句の言葉だけでは伝わって来ない。贈りものの添え書きのような感じ。それでも一瞬にして切り取る才能はすごいと思います。
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今日の方代さん
焼酎の酔いさめつつみておれば障子の桟がたそがれていく
ある朝の出来事でしたこおろぎがわが欠け茶碗とびこえてゆけり
山頭火と比較される方代さん。酒がないと生きられない。断酒を誓いながら、恥ずかしげもなく破る。「やぶるために誓う断酒かな」というような感じ。その姿を周囲の人は温かく見守る。そして、おやおやと思いながらついつい面倒を見てしまう。そんな関係にあるのですね。今でいえばDV男性にその姿を見ることができる。暴力を振るいながら、別離を告げられると恥じらいもなく土下座して謝罪している。どうもこのような体質は日本人にながく引き継がれているのですね。
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今日の蕪村
秋の夜や古き書を読む奈良法師
南都六宗は、当時は仏教学問所。今でも檀家からの供養料などなしで運営しているのでしょうか。空海もここで勉強しているのですね。よく分かりませんが、東大寺の中にも写経したり、読経したりする場所があったのでしょう。今も観光客が見ることができない場所があるかもしれませんね。
蕪村はこんな絵画的世界を描くのですね。寺から光がこぼれている。そんな風景を思う浮かべます。当時は僧侶は生涯独身だったのでしょう。そうなると、学問にはげむ僧侶の姿は、別の姿が見えてきたのでしょうかね。「見えないのに想像できる」そんな句ですね。
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今日の一茶
是がまあつひの栖か雪五尺
この句すきですね。私は一茶の「ため息交じりのつぶやき」「やれやれと呟くような諦め」が好きなのですね。達観するというより、諦め。その微妙さがいいのですね。弱者に対するいたわりなどいうより、そこに自分を見てしまう。そんな間の悪さが一茶に対する思いですね。