あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

親子で住んで言葉少なく朝顔咲いて   放哉

2009-09-21 05:59:52 | 日記
神代植物園

親子で住んで言葉少なく朝顔咲いて   放哉

しみじみしていい句ですね。
朝ずっと「尾崎放哉全句集」を読んでいて
このごろ、放哉に溶け込んでいくこともあるな
そんなことを思っていました。

寂しさを感じるような年になったのですね。

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今日の山頭火

家を持たない秋が深うなった  

当たり前のこと、自明なことにときおり説明をつける。
それが山頭火なのですね。それがいいのか悪いのか
句の格調を高めるのか下げるのは
それともどうでもいいことなのか
よく分かりませんが。
「家をもなない」のか「家をもたない秋」のか
深くは微妙に揺れていますね。

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今日の方代

しののめの下界に降りて来たる時・石の笑いを耳にはさみぬ

いまわしい隠者がありて伏見から酒をとりよせ飲んでいる。

方代さんのこんな歌もいいですね。でも、軽さのはずが軽くない。
そんな感じ。「枯れていく」という表現がありますが、「軽く」「枯れる」というのは、ことのほか難しいし、言葉を練り込まないと「ひらがなことば」が出てこない。

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今日の蕪村

五六升芋煮る坊の月見かな

藤沢周平の「一茶」ではりませんが、俳諧師として食べて行くのは容易ではなく、弟子が飽きないように駄作でも誉めたりすかしたり、そんな姿を想像しながら
この句を読むとほろ苦いですね。慈善の芋煮ではないでしょう。

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今日の一茶

年の市何しに出たかと人のいふ

今でも世田谷のぼろ市などがありますが、かつては農具等を主として売っていたそうです。江戸時代は、年の暮れにまとめがいをする人のためのあちこちで市が立ったといいます。市に出て来るのは所帯持ちと言うことになりますが、独身者なども出てくる。そんな暮の風景をとらえているのですね。この一時の切り取り方が一茶なのですね。

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山に大きな牛追ひあげる朝靄    放哉

2009-09-20 05:34:38 | 日記
巾着田の彼岸花

無意識を解放すれば、あるいは、意識の風通しをよくすれば苦しみは軽減するという話もありますすが、自分の思いを外の向けたり、花に向けたりするとちょっと気分を変えるのは事実かもしれません。

今日は20日、巾着田の彼岸花は見頃でしょう。人もいっぱいでしょうね。
私はお茶の水へ出かけました。井原西鶴が面白そう。葛飾北斎も面白そう。そんなことで古典文学全集のバラを売りを見つけました。守備範囲を広げすぎて、どれがどうだかわからない状態になっています。

重い荷物をぶら下げて電車に乗り込み、ページを開くと幸せな気分になります。単純あたまの気楽なオヤジ。でも、何もわかっていないのです。

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曼殊沙華かみつきそうな面をして  あきオジ

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山に大きな牛追ひあげる朝靄    放哉

今朝、「こころの時代」を放映していました。町田宗鳳の法然さんの話でした。法然さんが暮らした比叡山は「昔の山は明るかった」という講師の話がありました。そうだ、自分が暮らしたところ、その明るさが大切なのだと気付きました。

この句も広がりのある気持ちのいい句ですね。
放哉もきっと、宗教の世界に身を置き、法然さんの教えも知っていたでしょう。その極楽観にも触れていたでしょう。私が感じる悲壮感、孤立感とは違ったところで安心を得てきたのかもしれません。そんなことを感じる句です。

法然さんは宗教家としてはもっとも身近な人ですね。優しいし、懐に飛び込める大きさがあります。一元論的極楽論は私の救いですね。「最後にお願い法然さん」なのです。

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今日の方代さん

ひび黒き湯呑が一つ聡明な時の流れの中に立てる

格調高い歌を目指した方代さんの胸を張った姿が見えるようです。このような
生活感があるものを整えて、生活を詠う。それが当時の方代さんのスタイルだったのでしょうね。

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今日の方代さん その2

ふるさとの右左口村は骨壺の底にゆられてわが帰る村

この歌は郷里の中道町に歌碑になっているそうです。
「帰りたい、帰れない」郷愁が見える歌ですね。
帰っても、待つ人がおらず、懐かしさだけでは帰れない。
そんな思いなのでしょう。
今の時代、鎌倉と山梨そんな距離でもないのですが気持ちの距離は途方もないものなのでしょうね。

ものづきの私は歌碑を見るために、ちょっと訪ねてみたい気持ちもあります。

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今日の蕪村

野分止んで戸に灯ともるる村はずれ

この句、好きなのです。「野分」という言葉が好きなのです。どうしてでしょうか。ススキが流れるような山裾。そんな気配がいいですし、戸をしめ、「やれやれ」と言葉もなく、とりあえず灯りを灯しましょう。そんなほっとした気分が伝わってきます。

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今日の一茶

山番の爺が祈りし清水かな

水が得られない山で番をしている爺さんが「ありがたい」と感謝する。そんな風景は山の冷気まで伝わってきて、水の清らかさまで伝わってきますね。

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今日の子規

煤払の埃しづまる葉蘭哉

病床で見る季節なのでしょうか。

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旅人夫婦で相談してゐる  放哉

2009-09-19 06:47:32 | 日記
巾着田の彼岸花

人は彼岸花を見て、何を夢見るのでしょうか。
私はこの花のジュータンの向こうには
光しか見えない
まぶしい阿弥陀仏が座っているような気がするのです。
向こうに、ここと違う光溢れるものがある。
そんな気がします。

今日は秋風ですね。
本屋で何冊かの本を買ってきて居眠り。
それが極楽というもの。
極楽というのは、悩んだりすることがない
居眠りのとき。

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今日の放哉

旅人夫婦で相談してゐる  

このような風景を放哉はどのように見ていたのでしょうか。
自分にはもう存在しない夫婦の形をみて
微笑ましいと見たのか、それともそれまでの自分の夫婦をみたのでしょうか。
俳句はそのような推測を求めてしまい
作者の思いとは関係ないところに運んでしまう。
そんな危うさもあるのですね。

でも、このような夫婦の存在を直視し、それを表現している。
それだけでも放哉は淡々とした境地になっていることが分かります。

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今日の山頭火

いやな夢見た朝の爪をきる

とうとう、一睡もできなかったような気がする。とろとろしたかと思えば、夢を見た。それも、本当にいやな夢である。悪夢。斬られたり、突かれたり、だまされたり、すかされたり七転八倒である。ゆめよさようなら。
朝すっきりとしない気分の手に足に、長い爪がのびきっている。縁に出て、その白い爪をひとつひとる切る。爪を切ると、爪がとび散る。いくらか気分がはれた。昨夜の悪夢が、少しとおのいたようである。(昭和5年)

このような子どものような感性で夢を受け止めている山頭火は、ひょっととして俳人というより、エッセイイストではないかと思ったりします。

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今日の方代さん

鎌倉の古街道に鎌を入れほたるぶくろを刈り残しておく

何か、まともな表現で拍子抜け。それもあるかな。
そんなこと感じませんか。
でも、これも方代さん、意表をついた表現
それも方代さん
自分の好みに引き寄せ納得してしまうのはおとなげない。

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今日の芭蕉

行秋や手をひろげたる栗のいが 

この句だけ取り上げると
蕪村の句かななどと思ってしまいます。
素人とは怖いものです。
強引に自分の好みで解釈して
勝手な納得をしてしまいます。


昼の灯や本堂暗く秋の風   子規

2009-09-18 05:42:49 | 日記
極楽寺のトンネル

ここはカメラスポット
そして絵を描く人のスポットになっているようです。
トンネルと電車
そして
山門と芙蓉それだけでもスケッチの素材ですね。

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今日の子規

昼の灯や本堂暗く秋の風

こんな句が山ほどある。
膨大な句数に圧倒されますね。
やはり子規は天才なのですね。

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今日の方代さん

天にのびる高き教会の石垣の下にころがる方代と石ころ

意図的に自分を低い位置において楽しんでいる。
それが方代さんの面白いところ
でも、そのような表現をしているのですが
それは短歌の中の遊びで、それをは違いますよ。
そんな悪戯心が感じられますね。

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今日の山頭火

みんなたっしゃでかぼちゃのはなも

今日は暑い。元気で行乞にはげむ。行乞はすきではないが、気分のいい日は苦にならない。
晴天である。
見なれた家の門に、南瓜の花が咲いている。毎年、このころになると黄色い花をさかせてくれる。
この家の大家族も、みな元気いっぱい。決して生活は楽ではないが、達者であることが何よりもうれしい。そして、南瓜の大きな花が咲いていることも心楽しくさせる。
さあ、わたしも頑張って行乞にはげもう。

淡々として言葉が柔らかですね。
ときどき、山頭火の俳句はこの日記といっしょによまないと充分に雰囲気が理解できない。
日記だけでも十分に俳句だと思うのです。
そう思いませんか?

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今日の蕪村

木曽路行ていざとしよらん秋ひとり

蕪村の整った風景は独特ですね。襖絵のように配置がいいし、雰囲気というか温度というか
そんなものまできちんと描かれています。


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清貧の家に客あり蘭の花     子規

2009-09-17 05:57:30 | 日記
巾着田の水車

今年はコスモスを育てていないようです。

しばらくは花が少ない季節です。
昭和記念公園の
コスモスが咲くまでは、までは、じっとしています。

思えば60歳まで花など「知ったかぶり」のネタていどの興味しかありませんでした。好きになる余裕がなかったのですね。
花は暇がない人には、装飾の意味しかないのかもしれません。

それが昭和記念公園に足をむけ、神代植物園に出かけるようになり
年間パスポートを手に入れてその気になってから
興味をもてるようになりました。
まさに、好きだから足しげく通うのではなく
通っているうちに好きになるのですね。

今では写真ネタがなければ昭和記念公園
退屈したら神代植物園になりました。

これで老後の楽しみその1ができたのです。

そして、このブログを作ることで
俳句と短歌に興味がもてるようになりました。
まだ、おもしろそうな句を探し
おなじみ歌人をつくり、仲良くする段階ですが
けっこう楽しんでいます。
今は、作家を絞って楽しんですが
どうなることやら・・・・まあいいか。
そんな感じですね。

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今日の子規

清貧の家に客あり蘭の花  

静かな部屋、見舞客なのでしょうか。訪ねてきた。
会話も途切れがちで、ときおり、話題の接ぎ穂が見当たらず
部屋に飾られた欄に目をやる。
自分を傍観的に見ている不思議な雰囲気の句ですね。
でも立体的なところが好きです。 

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今日の方代さん

とぼとぼと歩いてゆけば石垣の穴のすみれが歓喜をあげる

そんな風景ありますね。そして、発見。歓喜というのは方代さんの表現。「あれっ」くらいが自分らしい。でも、このような発見を楽しむ散歩って、ありそうでないですね。無理して意味付けしたり、高尚な解釈をしたり、思い入れたっぷりの感動を持ち込まないのがいい。それが自分のスタイル

文学的解釈ほどあてにならないものはない。句を作った人しかわらない内面や思いをどうして他人が外から知る事ができるだろうか。そんな気がするのです。自分がお気に入りなら、とんちんかんでもいい。そんな開き直りです。素人って怖いですね。

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おまけの方代さん

ことごとく空しき歩みつづけ来て尚この道にゆき暮れんとす

方代さんらしい展開の前触れのような作品ですね。でも、真剣に「なにかあるのではないか」という期待感がある。そんな年代の作品ですね。そう思います。

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今日の放哉

寒さがころがる落葉が水ぎわでとまった

「剣客商売」のタイトルが流れるとき、疏水が写しだされます。そこに何枚かの落葉が流れてきます。カメラはその紅葉した葉を写します。その紅葉は流れに乗って動き始めます。それをカメラは追いますが、紅葉は途中で止まってしまいます。でも、その紅葉に押されるようにして別の紅葉が動き始めます。出だし、絶好調、四カメラマンの趣味的世界です。いいですね。そんなことを重ねていました。

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今日の蕪村

秋たつや何におどろく陰陽師

秋立つや素湯香ばしき施薬院

蕪村の時代を超えた思いめぐらしの句で、ほっとしますす。小津安二郎の「東京物語」で尾道から上京してきた老夫婦が、子どもたちに勧められて熱海の温泉に一泊します。眠れられないで過ごした朝、二人は堤防に座り込んで海をじっとみます。その姿を見ていると、語らないのに過ぎし日の思い出を懐かしんでいるように思えました。余韻がたっぷりのシーンでしたが、思い出すということはさみしいけれど、自分を確かめることです。蕪村はなぜか自分の過去ではなく、古のよき時代をイメージとして懐かしんでいます。自分に引き寄せないところが絵画的で美しいですね。日本画でこのようなイメージの作品がありそうですね。院展や日展あたりだったら、この句に触発された作品がありそうですね。


温泉の底に我足見ゆるけさの秋  蕪村

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今日の一茶

雀の子そこのけそこのけお馬が通る

横乗りの馬のつづくや夕雲雀

二句並べると、街道筋の風景だとわかります。一茶の句集を読んでいると
「そこのけそこのけ」という言葉がときおり見られます。その言い切りというか、
おおらかさがとてもいいですね。

雀と言えば、次のような句があります。この句も一茶ですね。

竹の子と品よく遊べ雀の子

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山の夕陽の墓地の空海へかたぶく  放哉

2009-09-16 05:47:33 | 日記
彼岸花

極楽の色
それもあるかな。
でも、好きな人がいるぶん
嫌いな人もいる
不思議な花だ。

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山の夕陽の墓地の空海へかたぶく  放哉

蕪村に匹敵するスケール感が素晴らしいですね。
瀬戸内海の夕陽は特別のもの
それだけに色鮮やかさが目に浮かびますね。
瀬戸内海を瀬戸大橋の鉄橋からみると美しいですね。
とくに夕暮れ時、金色に輝く海はたとえようもないのです。

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今日の一茶

陽炎やそば屋が前の箸の山

この時代、蕎麦を食べる時丸橋をつかっていたといいます。ということは
この絵柄では箸を干している。そんなことなのですね。せいろなどを干している風景は、仕事が一段落して明日の準備をしているように思えますね。
それもいいですね。

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今日の蕪村

四五人に月落ちかかるおどり哉

このような句に出会うと風の盆を思い出しますね。
今も、ものすがい人の波でしょうか。踊り足りない
そんな人が残っている街道筋
でも、ここは江戸(断定できないけれど)
人も疎ら、ちょっと物悲しいですね。
祭りのあとは、いつの時代でも物わびしいものですね。

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今日の方代さん

鎌倉の九月の風は四行詩・実朝公の墓に詣うでる

格調の高い現代風の調子で、いいですね。でも私にとっては
鎌倉の九月は、淋しくてなにもない物足りない季節です。
それぞれの人にそれぞれの季節
そんな感じですね。
鎌倉のどのようなコースで墓参りしたのでしょうかね。
鎌倉の小道はいいですね。

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今日の方代さん・彼岸花

あかあかとほほけて咲けるキツネバナ死んでしまえば死にっきりだよ

キツネ花とは彼岸花の別名なのです。

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今日の芭蕉

此道や行人なしに秋の暮

この句、知っていましたが、こんな素晴らしい句とは思いませんでした。
でも、この哀感というか、枯れ葉さえ、一枚ずつ表情もなく落ちて行く
そんな道が連想されますね。いいですね。知っていることと
思い入れを込めて鑑賞する句、同じようで同じではない。
読んでみないと分からないものですね。

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とんぼの尾をつまみそこねた   放哉

2009-09-15 17:31:02 | 日記
巾着田の曼殊沙華を撮りに行ってきました。

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「うたをよむ あなたの隣人 山崎方代」(田澤拓也)

今日は公田さんの歌は入選していませんでした。アメリカの刑務所収監中の郷 隼人さんの歌もありませんでした。沼津の森田小夜子さんの歌が入選していました。ところで、「うたをよむ あなたの隣人 山崎方代」こんなタイトルで日曜歌壇(朝日新聞)にコラムが載っていました。ノンフィクション作家が「マクドナルドの無料コーヒー飲みながら方代さんの伝記読み継ぐ」というホームレス歌人の公田耕一さんの投稿歌を見つけて、その伝記を書いたのは私ですよ。ということを書いたものですが、公田さんもずいぶん有名になりましたね。数年前からこっそりファンだったのに、横取りされたよな気分があります。でも、山崎さんでちょっと盛り上がるのもいいかもしれませんね。

新聞紙に腰をおろして空っぽの頭の先を陽に干している

口ひとつきかずにいるといちにちがながいながい煙管のように

わたしの六十年の年月を撫でまわしたが何もなかった

あきらめは天辺の禿のみならず屋台の隅で飲んでいる

人間をかくのごとくかなしくてあとふりむけば物落ちている

これだけの歌が引用されていました。
確かに方代さんの歌は「ゆるい」という表現が当たっているような気もしますが、見当外れのような気もします。

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今日の牧水

一心に釜に炊き入る漁師の児あたりをこちらに曼珠沙華折れし

漁師町は絵にもなるし、歌にもなりますね。色合いもいいし、日曜画家の絵を楽しむような軽やかさもありますね。
曼殊沙花の写真を撮りに出かけました。そんなことでめずらしく、花と写真の組み合わせができました。それだけです。最近のあちこちのブログにアップしてありますがらご覧ください。

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今日の山頭火

月に吠える犬のこえいつまで

日が短くなり、なんとなく不安になる。犬が吠える。その声に敏感になる。そんな気分が感じられる句ですね。でも、山頭火の句には短く省略されたから効果的な句もあれば、歯切れのわすさと居心地の悪い句もあります。この句では「いつまで・・・」が違う感じですね。山頭火は「ほのめかしたり」「余韻を残してはいけない」そう思うのです。

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今日の放哉

つめたく咲き出でし花のその影

よちよりと下りて歩りく児よ大地芽ぐめる

放哉が児を取り上げた句はめずらしいのではないでしょうか。
これまであまり見たことがありません。
なじまないような気配もありし、ミスマッチ!と言いたい。
しどろもどろの放哉さん。
そんな気もしますが
それもそれ
それでいいのだ。

相手がよけるものだ。ママチャリが踏切を抜ける午後

2009-09-14 05:01:33 | 日記
東急世田谷線

どこにも駅らいいものが見当たりません。いきなりホームです。
バスと同じだと思えばいいのだ。
それが嬉しい。
土地の人には当たり前
地方の人には物珍しい風景です。

江ノ電と同じくらい楽しいけれど
絵になる風景は江ノ電がずっと多い。
次は江ノ電に乗ろう。

この辺りは元気なママチャリが走り回る。

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曼珠沙華の季節になりましたね。巾着田(埼玉県)では咲き始めたでしょうか。
昭和記念公園では咲いていました。

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今日の山頭火

濡れてすずしくはだしで歩く

雨が止まない。午後はどしゃぶりになった。
秋とはいっても、雨はあたたかい。
雨の中を濡れながらはだしで歩く。
雨に打たれると涼しくて気持ちがいい。
きょうは、このあたりで行乞を止め、早々に宿をみつけてやすむことにする。
この宿は、二階がなき、相客が多くてあまり休まらない。
子供らが騒ぎたてるので、うるさい。
そのうえきたない。
昨日、宿がよかっただけに、きょうの宿が、いやにみそbらしく感じる。
(昭和5年)

山頭火のような人でも感謝だけでは生きられない。二つあると比較し、評価して感想を述べてしまう。それが人というものだろう。きっと、このようにして、あらゆるものを比較し、ときには優劣をつけながら、自分の中の話題にし、仲間との雑談のネタにするのだろう。

あまり、それぞれにはそれぞれの良さがあって比較することは難しい。などと体裁のいいことを云うのは止めよう。

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今日の放哉

あすは雨らしい青葉の中の堂を閉める

秋が深まるこの時期「青葉」と聞いただけで嬉しなりますね。
青葉と聞くと中尊寺、そして芭蕉ですね。
南国の青葉もありますが「期待感」のぶんだけ東北の青葉が連想されるのですね。
放哉のこの句は「屈折した孤独」「他人がかまってくれない淋しさ」が感じられないのでいいですね。
淡々と動いている。
その解説が気になる句がありますが、この句はまったく気になりません。
そのぶん、情感が流れて、どこにも文字になっていない瀬戸内海が見えるような気がします。
お気に入りですね。

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今日の方代さん

かりそめにこの世を渡りおる吾のまなこにしみるかたくりの花

しっとりとした歌ですね。かたくりは夏を知らせる山の花
日本人が大好きな花ですね。
背が低く、花が下を向いているので
カメラマンは地面に這いつくばってレンズをを下から上に向けて写真を撮る。
そんな花

その清楚な姿に仏様を見出したのだろうか。
そんな歌ですね。
見つけた者だけの世界
見えた者だけの世界
それが方代さんの短歌の特質なのでしょうか。
素人の私には、そんな難しいことは分かりません。
それで充分、満足ですね。




故郷は賞味期限がきれた調味料のようになってしまった  

2009-09-13 06:23:14 | 日記
柴又の寅さん像

そこに通りかかったオジサン
手拭いを頭に乗せて
めでたいめでたい。
こんなことする人めずらしくなった。
一人だけではとてもできない。

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ひとりごとぶつぶつしながら歩いている風船蔓のようで、嫌いじゃない。

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今日の方代さん

八階の窓の向こうににっこりと富士が笑ってのぼりをりたり

御馳走も毎日だと飽きる。
たまにはご飯に納豆だけで食べてみたい。
方代さんもきんぴらごぼう。

明日は大根のおでんがいいかも
そんな感じ

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今日の芭蕉

桐の木にうづら鳴くなり塀の内

この句が好きだという人がいます。どこがいいのかと聞いたら、好きになるきっかけとなる母親との思い出を語ってくれました。
この句が好きだという意味の中には自分の過去の記憶と重ねて懐かしさを引き出す。そんな意味もあるようですね。
そう、難しく純粋芸術のような意味で理解しようとする必要などないののですね。
教養としての鑑賞するのもいいし、しったかぶりのネタにするのもいいし、話題提供でもいい。面白く、楽しめればそれでいい。それ以上のことは、それなりのことでいいのですね。

この句は秋の句を読んでいたら、故事を知らずとも読めたこと、一瞬の静寂を破る
鶉の声、耐えて待つようなことではなく、歩いていたら声がした。そんな驚きの爽やかさがいいですね。芭蕉だから特別の声に聞こえたのではない。でも、それを切り取り句にするところが「さすがの芭蕉」ですね。

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今日の牧水

夕日さす枯野が原のひとつ路わがいそぐ道に散れる栗の実

牧水の唄の明るさ、爽やかさ、美しさは天賦のものですね。
どれも読んでいても気持ちがよくなる。
最近の写真集の中に出てくるような色合いを淡くとどめて
言葉を添えている。そんな雰囲気さえ感じます。

このような言葉を重ねてさらなる雰囲気を作り出ている。
いい歌ですね。
この爽快な風が夕暮れどきに流れるような皮膚感覚は気持ちいいですね。
でも、おじさんにはちょっと気恥かしさが混じってしまう。

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今日の山頭火

ふる郷の言葉となった街にきた

この実感、外国から戻ったとき、電車で帰省するとき
そうだ、これが自分の故郷の匂いだ。
そんなことを感じますね。
風景だけでなく、電車で乗り降りする人の顔色
会話、持ち物
それを見ていると
少しずつ変わっていき
いつのまにか焦点があっていくレンズのように見える。

歩き続けた山頭火にとって
故郷は複雑な思いになり
心揺れる
そんなことなのでしょうね。

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今日の一茶

なむあみだ仏の方より鳴蚊哉

この庶民感覚とほけとの日常感覚がいいですね。
この切り取り方が一茶ですね。

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今日の方代さん

そなたとは急須のようにしたしくてこの世はなべてうそばかりなり

このどんでんがえしの展開が面白いですね。多くの歌人が無理して難しいことを選び、古典的な世界をないまぜにする手法とは違って、当たり前の日常を準備しておいて、それで流れて行くのかなと思わせて、まったく別のものを準備する。以前にも書きましたが、その組み合わせで新しいイメージを作り出す。その面白さですね。わかりやすい言葉にこだわっているのがいいですね。
「ひらがな」俳句、短歌が好きな私には、ぴったりの作風です。

好きだったら、それでいい。

曼珠沙華咲いてそこがわたしの寝るところ  山頭火

2009-09-12 05:41:50 | 日記

昭和記念公園の曼珠沙華

彼岸花、昔、伊豆の山中の親戚の家を訪ねたとき
バス停から、歩いていたときあぜ道にくねくねと彼岸花が咲いていたのを覚えています。群生すると圧倒的な迫力で迫ってきますね。

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曼珠沙華咲いてそこがわたしの寝るところ  山頭火

昭和7年9月20日、其中庵に移る。わたしは、故郷のほとりに庵をみつけて、そこに住むことができた。行乞流転、はかない歩みを重ねてきた。ひとりさびしかった。あてもなく歩き、はてもなくさまよって来たが、ひとりではなかったのだ。欲しかった寝床にめぐまれた。一面の曼珠沙華の咲くところ、ここが、きょうから私の寝床である。終の臥所になるかもしれない。いかにも私にふさわしい場所だ。(昭和7年)

今日はめずらしく、俳句の内容に近い写真が準備できたけれど、それは単なる偶然です。俳句にあった写真を撮るなどとてもできません。それにしても昭和記念公園の曼珠沙華をみると不気味な気分になりますね。どうしてでしょうかね。やはり、あの赤なのですね。どうも好きでありませんん。中華街の門柱の装飾のような気分になるのです。色にも相性があるのですね。向日葵の黄色、コスモスのピンク、紅葉の銀杏、風船かずらの緑、紫陽花の青、そう思えば、自分の好きな花は季節の風と色なのですね。

横道でした。山頭火の俳句よりも、日記の文章が好き。それが今の山頭火に対する思いですね。この句は日記を読むとそうかなあと思いますが、俳句の言葉だけでは伝わって来ない。贈りものの添え書きのような感じ。それでも一瞬にして切り取る才能はすごいと思います。

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今日の方代さん

焼酎の酔いさめつつみておれば障子の桟がたそがれていく

ある朝の出来事でしたこおろぎがわが欠け茶碗とびこえてゆけり

山頭火と比較される方代さん。酒がないと生きられない。断酒を誓いながら、恥ずかしげもなく破る。「やぶるために誓う断酒かな」というような感じ。その姿を周囲の人は温かく見守る。そして、おやおやと思いながらついつい面倒を見てしまう。そんな関係にあるのですね。今でいえばDV男性にその姿を見ることができる。暴力を振るいながら、別離を告げられると恥じらいもなく土下座して謝罪している。どうもこのような体質は日本人にながく引き継がれているのですね。

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今日の蕪村

秋の夜や古き書を読む奈良法師

南都六宗は、当時は仏教学問所。今でも檀家からの供養料などなしで運営しているのでしょうか。空海もここで勉強しているのですね。よく分かりませんが、東大寺の中にも写経したり、読経したりする場所があったのでしょう。今も観光客が見ることができない場所があるかもしれませんね。

蕪村はこんな絵画的世界を描くのですね。寺から光がこぼれている。そんな風景を思う浮かべます。当時は僧侶は生涯独身だったのでしょう。そうなると、学問にはげむ僧侶の姿は、別の姿が見えてきたのでしょうかね。「見えないのに想像できる」そんな句ですね。

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今日の一茶

是がまあつひの栖か雪五尺

この句すきですね。私は一茶の「ため息交じりのつぶやき」「やれやれと呟くような諦め」が好きなのですね。達観するというより、諦め。その微妙さがいいのですね。弱者に対するいたわりなどいうより、そこに自分を見てしまう。そんな間の悪さが一茶に対する思いですね。