このごろは五重の塔に冬の雲 あきオジ 2010-01-28 06:25:57 | 日記 何もない時には空を見ろ 素敵な言葉ですね。 そう、空には雲が流れ季節を教えてくれます。 草花がゆったりとした時間の流れを教えてくれるように 雲も短い時間の流れを教えてくれます。 見方でいろいろ、そこが面白い。
振り返り探す花あり春近く あきオジ 2010-01-28 05:36:01 | 日記 深大寺を周辺を歩いていたとき 墓地に気をとられていたら 突然、梅の移植をしているところに出会いました。 職人さんが数人でクレーンを利用して梅を移動していました。 こんな仕事もいいななどと思いましたが どんな仕事もいいばかりではありませんから 簡単に感想など言ってはいけないのでしょうが 経験がないだけに魅力を感じますね。 そんなことでその梅を移植している作業現場の反対側で見つけた 花でした。 季節を過ぎていますが 育てている方の心が伝わってくるようで 嬉しかったです。
車椅子蝋梅によせ春を知る あきオジ 2010-01-27 16:59:09 | 日記 平日、天気がいい日には 車椅子に載ったお年寄りが目立ちます。 蝋梅は香りが強いので ファンが多いですね。 息子らしき初老の男性が 蝋梅の枝を母親の頬のところまで引き下げると 母親らしき人は頬に寄せ 香りを楽しんでいます。 そんな絵柄は現代そのものですね。
匂い立つ少女となりし牡丹かな あきオジ 2010-01-27 16:57:35 | 日記 人生の匂いとか重さが言葉にならないなら 俳句も人によっては、言葉遊びですね。 お茶を楽しむ 香の会 生け花の御稽古 それと同列 自分もその路線を狙って 年寄りの道楽にしようと思ったけれど 群れないとできないようなので断念 俳句の会では合評をするとか ぞっとする世界 そんなことで断念 趣味の良さとか 発見の面白さとか そんなこともできないので 俳句も断念 どうでもいいけど 「俳句もどき」の人生メモ 体が動かなくなったら 自分のブログを開いて楽しむ。 そんな逆算しての作業 どうでもいいけど 説明するとそうなる。
小雨降る部屋を彩る晶子かな 2010-01-27 16:42:22 | 日記 久しぶりに与謝野晶子の歌集を読みました。 色がいっぱい 眩いような錦糸銀糸の言葉の洪水 天才はこのような色彩をもっているのだと いたく感心しました。 芭蕉は利休鼠 ことばも渋い色合いがあります。 蕪村は色の対比 大小の対比もありますね。 そうなのですね。 才能のある人は言葉に色がある。 そんなことでうなずいている。 今日は、何もないいい日でした。
木瓜咲けどなにゆえ「木瓜」と書きたるか あきオジ 2010-01-27 05:34:43 | 日記 月曜日の朝 朝日新聞の俳壇、歌壇の投稿句を読みますが ときどき、なるほどと思わせる作品に出会って楽しいのですが 年寄りが孫自慢、大昔の思い出を題材にしているのを見ると 「平和だな」と思います。 でも俳句の専門家は歯ぎしりしても言葉が出てこないし 自分は理解しても共感される作品は生まれないのでしょうね。 「食うのに精いっぱい」という日々が当たり前で 「可愛い」を確かめる余裕がない時代を過ごしてくると それなりに句も生まれるのでしょうが 過去は題材になるけれど 現代は俳句にならない時代だなと思います。 俳句という形式が合わない時代なのですね。 時代は新しい形式を生みだすのですね。 現在は教養人のサロンにとどまって 芸事ですが いつか新しい形式が生まれるのでしょうか?
深大寺妖怪暮らす闇もあり あきオジ 2010-01-27 05:29:14 | 日記 深大寺参道に水木しげるデザインの 妖怪が飾ってある店があります。 みやげものなどが並んでいますが 客はそのあれこれの妖怪と記念写真をとるのに夢中です。 それもいいかも。 妖怪や河童がすむ里山は 物語が生まれる闇があり 星空がいっぱいなのでしょうね。
禅寺の山門開き牡丹見ゆ あきオジ 2010-01-27 05:21:30 | 日記 牡丹は何かと並べないと雰囲気がつくれない そんな花の一つかもしれません。 そこに咲いているだけで美しいのに 美しすぎて「儚さ」がない。 別の物語と組み合わされて新たな香りが伝わる。 そんな気がします。 ・・・・・・・・・・ 白牡丹夕べ少女今朝娘 あきオジ ・・・・・・・・・
紅白梅飛沫のごとく空に散り あきオジ 2010-01-26 17:15:39 | 日記 もう節分の季節ですね。 地方によっては、この時期、独特の風習を残しているかもしれません。 ・・・・・・・・・・・ 芋ようかんあぶって食べる茶の渋さ あきオジ 大寒は舟和のようかん食うて寝る あきオジ ・・・・・・・・・・・
極楽を知らず散りたる藪椿 あきオジ 2010-01-26 17:04:50 | 日記 極楽では蓮の花が咲いているのだろうか。 一年中蓮の花では退屈だ。 天上の音楽はモーツアルトなのだろうか? モーツアルトだけでは飽きる。 腹が減らないなら食べ物もたくさんはいただけない。 ひょっとして極楽はことのほか退屈なところなのだろうか。 その「退屈を乗り越えた」 想像もしたことがない 何かがあるのかもしれません。