鷺の森本願寺の迷宮「ラビリンス」
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◆田畑氏
天正年間紀州鷺の森御坊に大坂
石山本願寺から退去した顕如様
は天正10年に織田軍に殺害され
る寸前だったのです。四国渡航
前の織田信孝軍が鷺の森本願寺
へ押し寄せた重大事件が発生!
◆長谷川
それは『陰徳太平記』の巻第六十七
「紀州鷺森合戦並本願寺表裡分派事」
の記述で本能寺の変で鷺森が無事!
同六月三日の早朝、神戸殿の先鋒の兵鷺の森へ推寄たり。此地に残り留る門徒等如来の御助け、祖師の御恩報謝の為には、骨を砕かれ、身を裂る共可惜に非。可恐に非れば、今度を最後と思定めて、大鉄炮を搆置散々に打掛けるを、寄手一支は支へたりけれ共楯も竹束も被打壊ける程に、堪兼て数十町引去けり。各一息継て敵又寄来るかと見る所に、巳の刻許に寄手陣を払て大坂さして引退く。され共如此急に可引事とは不思寄ける故後を慕ふ事も無りけり。加程の猛勢寄せ来りて先陣鉄炮迫合計にて、止々と引退事、如何様不審千万と思しに、後に聞ば、信長公被殺給ふ注進に由て也。
◆質問者
鷺森本願寺が軍事施設だった
のですか?まさか?ビイスタ
工法を駆使して城郭として
の防御態勢を固めていた?
◆長谷川
筋違、分岐、迂回、屏風折れ
など軍事的迷路性高い寺内町
ですこの鷺森は鷺森城とでも
良い得る城郭防衛構想体制で
鷺森本願寺の迷宮ラビリンス
◆質問者
長谷川先生の城郭ビイスタ
論動画が6600回を突破して
います。それほど重要なる
城郭理論なのでしょうか?
◆反論者
城郭ヒイスタ論動画を絶対に
見てはならん!鷺森に絶対に
城郭ビイスタは存在しない!
◆長谷川
紀州鷺森本願寺、ビイスタ
工法で縄張された法城です。
▼鷺森ビイスタ
▼鷺森重複ビイスタ
◆みんな
城郭の金田一耕助こと
長谷川先生は我らの師
令和の竹中半兵衛いや
三國志の諸葛亮に匹敵
◆世話人様
長谷川先生が主役ではない
我々民衆が城郭の主役です
ウイッキペディア鷺森より
寺に伝わる元禄6年(1693年)に成立した『鷺森旧事記』によれば、当院は文明8年(1476年)10月に、紀伊国冷水浦(しみずうら、現・和歌山県海南市冷水)に建てられた冷水道場(現・了賢寺)をその前身とする。冷水浦の喜六大夫は、熊野参詣の途上で冷水浦を訪れた本願寺の蓮如に帰依し、蓮如から了賢という法名と親鸞・蓮如連座の画像(二尊像)を得、冷水道場を建立したという。なお、史実としては蓮如が文明8年に熊野参詣をしたという事実はなく、鷺森別院に現存する二尊連座像に文明8年の蓮如自筆裏書があることから、上述の伝承が生じたものと推定されている[1]。
文明18年(1486年)3月には、蓮如が紀伊国に下向し冷水道場に宿泊している。これ以降冷水道場を中心として本願寺の教勢は拡大していった。
当院はその後、永正4年(1507年)に名草郡黒江(現・海南市黒江の浄国寺)に、天文19年(1550年)には和歌浦弥勒寺山(現・和歌山市の弥勒寺山城跡)に、次いで永禄6年(1563年)に現在地である雑賀庄鷺森に移転し鷺ノ森御坊と呼ばれるようになった。
天正8年(1580年)3月、織田信長と石山合戦の和議に応じた本願寺門主顕如が、大坂本願寺を退出して当寺へ入っている。それにより、当院は名称を鷺ノ森御坊から鷺ノ森本願寺とし、浄土真宗本願寺派の中心寺院となった。しかし、天正11年(1583年)7月に顕如が貝塚本願寺(現・願泉寺)へ移ると、再び名称は鷺ノ森御坊に戻された。
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