小谷城下の都市計画ビイスタ論
そして甲津畑「東近江市」新城
◆対談者
この投稿最後まで読みましようね!
◆対談者
長谷川先生の提唱されている城郭ビイスタ論
日本城郭研究史において日本の城や城下を語
る上においても凄く重要な事だと最近痛感し
ています。特に近江守護職佐々木六角氏居城
観音寺城に壮大なビイスタ構造が存在した事
を知り衝撃を受けました。布施淡路丸なども
ちやんとビイスタ工法の様式で作られている。
◆対談者
また観音寺城下の石寺など都市計画ランド
スケープ論として非常に秀逸に感じました。
多数の城知識も大切ですが歴史城郭構造を
大観できる大きな視点を供えておられます。
◆対談者
浅井と六角に関してウイッキペディアを引用します
野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年
浅井家の北近江における覇権が確立した。」とあり
北近江の小谷城を根拠とする浅井氏の城郭や城下
にもビイスタ工法が存在したのか御教示ください!
◆長谷川
近江浅井氏の本拠小谷城の大嶽城には見事に
ビイスタ工法を応用した堅固な山城群が存在
致します真に幾何学放射状縄張ビイスタ工法
の典型とさえ言える見事な幾何学の城です!
◆一般者
こんな事は誰も教えて呉れないこん
な事は初めて聞き驚いております。
◆対談者
始めて聞くとはどんな意味かしら?こんな事
ぐらい学者、城郭研究科なら気付いて当然!
◆対談者
さて
永禄13年/元亀元年(1570)
6月21日『信長公記』には
小谷城の「町を焼き払う」
と記録されていますがこの
町屋つまり小谷城の城下町
には都市計画やビイスタ論
が適応出来得るのですか?
「たけくらべに一両日御逗留なされ、
六月廿一日、浅井居城大谷(小谷)
へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、
斎藤新五、市橋九郎衛門、佐藤六
左衛門、塚本小大膳、不破河内、
丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り、
町を焼払ふ。
信長公は諸勢を召列れられ、虎御
前山へ御上がりなされ、一夜御陣を
居ゑさせられ、柴田修理、佐久間右
衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、
丹羽五郎左衛門、江州衆、仰付けられ、
在々所々谷々迄放火候なり」
と『信長公記』に明記されています。
◆長谷川
当時の小谷城下の様子は下図のような
城郭関連地名小字名称が残り凡そ小谷
城下がしのばれます。参照して下さい。
◆対談者
ダメ!駄目!ダメ!の参列発のダメ出しです!
長谷川さん寝ぼけた戯言を言わないで下さい!
質問は凡庸な知識より前進した具体的幾何学論
で小谷城の城下町には都市計画やビイスタ論が
存在し適応するか?です!ビイスタ工法が存在
したかと質問してる訳ですよ!本町などの地名
だけの文字づらを追う事などは図書館に行けば
誰でも朝飯前に調べられる事?それ新聞の受け
売りと同じ「人から聞いた」事の次元の問題!
本物の研究家とは
①新しい城を発見する能力を持っている。
新城を発見出来る歴史地理能力を持つ!
②新しい城郭構造論ビイスタ工法を発見。
新規理論を発見!新研究論を推進する!
この2点だと私は常に思っているのです。
もう既に解っている城の縄張図を描いて
も先人の論文を踏襲してもそれ所詮は研
究ではない「物まね」コピー模倣の世界!
長谷川さんは常に新しい城を発見する人。
長谷川さんは常に新しい理論を模索する。
これ学者や研究家の本質真髄を備えてる
事に何故?世間や社会は気付かないの?
小谷城下のビイスタ論を考察して下さい!
◆長谷川
そんな難解な事は私ごときが解明できま
せん!私の取柄は引っ込み試案の素朴人!
第一条里制度で言う浅井郡と伊香郡条里
による圃場区画も境目に相当する位置で
特に小谷城下の都市計画論ビイスタ論を
軽々に述べる事は学者として慎むべき事。
◆対談者
「喝」です!しつかりせい!天下の安土城
ビイスタ理論を述べた長谷川先生でしょう?
希代の城郭研究家がここで尻込みして何と
します?そもそも男子として生を受けて城に
足を踏み込んだ以上は千里の苦難を走破して
汗血馬の如く、龍馬の如く飛翔するのが男児
たる人の本懐です!難題に挑戦し新発見する
事こそ男児の本懐!城郭道の真骨頂骨です!
▼長崎出島ビイスタ論 だれが見てもビイスタ工法は一目瞭然!
▼近江小谷城 城下の小字名称
◆長谷川
確かに小字地名は貴重な城郭関連地名ですが
日本の五大戦国山城と呼ばれる小谷城下都市
計画はアバウト出来合いの無計画性都市景観
と言えないでしょう。天正3年まで羽柴秀吉
は小谷に在城した事は文献『信長公記』にも
明確に記録されています。小谷城下都市計画
町割りは自然地形に制約されながらも浅井氏
は素晴らしい城下経営のビジョン展望計画を
ビイスタ工法を用いて都市計画を営んだ事と
私は考えています。谷間は自然地形なが街区
を形成する明治期の地図を参照に小谷城下の
都市計画「ビイスタ工法」を検討してみます。
◆一般様
これはズバリ素晴らしい小谷城下ビイスタ工法!
北陸と東海を結ぶ北国道の隘路に堂々たる町屋に
戦国城下町をビイスタ工法を用いて城下経営した。
余呉城郭研究会!すげえ!流石に研究会は斬新だ。
◆長谷川
現代地名で言いますと清水谷を主軸とする
中央に★正中線があり当然清水谷の入り口を
防御する水堀跡が過去には存在しました。
郡上を中心とするビイスタ工法や現代小谷
寺方面へのビイスタ工法も読み取れますね。
小谷城下は用意周到に計画された都市計画
が施工されたのでしょう。更に検討します。
★正中線「構造物や建築物を構成する中心線」
◆みんな
長谷川先生は既存の城下の解説も斬新ながら
本当に城郭を研究しておられるから新城をも
発見される例が多いのです。その城は50年後
には城郭見学の場所に取り入りられている事
かと思います。しかし人間の生命に限りあり
学問の発展進捗には常に感情的反論を唱える
類例は人間社会には常に存在すると言えます。
◆長谷川
元亀元年(1570年)の
『信長公記』には次の様な記録があります。
「千種峠にて鉄砲打ち申すの事
五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城
へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止む
べき行仕り候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔、
布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(奔走)申し、
千種越えにて御下りなされ候。左候のところ、
杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎に憑まれ
、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく、十二、三間
隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。され
ども、天道昭覧にて、御身に少しづつ打ちかすり
、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。」
とあります。
◆質問者
長谷川先生と東近江市の速水氏の
甲津畑の城を見学したいと思って
おります。
◆反論者
知ってるよ!それ永源寺町の人々なら
誰でも知っている城山の事でしよう?
◆対談者
ちょつと待ってください!既存の図書や
既存の観光案内に従って城址を探訪する
事は「カタログ型/目録型」の城郭行動
規範に従属する形骸論とも言えますよ。
甲津畑と速水氏は長い歴史履歴がある。
◆長谷川
そうなんです。甲津畑は長い歴史伝統
が残り歴代速水氏は甲津畑の時代に合わ
わせた要所に城郭を構えて変遷してきた
可能性があります。江戸時代の柳生陣屋
の裏山には中世の山城柳生城があるよう
にね、元亀の争乱の折に、織田信長は
岐阜への帰路を佐々木六角と浅井氏に
阻止され、布施氏や速水氏の先導にて
無事岐阜へと帰還しています。信長が
着目する近江の武将は非凡な築城能力
を持ち合わせていたと私は考えてます。
従って従来の城山だけでは速水氏築城
術を知る事は出来ません。信長は武将
の持つ人材を看破洞察して登用する事
関し優れた人傑にして、甲津畑の城山
だけ見て速水氏の能力は評価出来ない。
◆反論者
ふん!もう甲津畑には特異な構造を持つ
山城なんぞは絶対無いに決まってます!
◆みんな
何故決めつけるの?確認してから無いと
と答えなさいよ!それが常道で誠意的と
言うものでしょう?否定の言葉なら誰で
も出来るわ!新しく城塞を発見する事の
法が100倍も難しく困難を伴う事でしょ?
◆長谷川
私の城郭の先生は現地の城郭です先生
は辛辣なほどに厳しくお前には甲津畑
の隠し城など到底読み取る事は不可能
だと新しい城郭遺跡を発見してこそ本
物の歴史地理を知る城郭の研究者だと
甲津畑の地形地理や交通史も含めて厳
しく城郭自体が私に問い掛けて来ます。
◆反論者
ふん!長谷川ごときが甲津畑に新城
を発見したら仰天するわ!しかし俺
俺は学問よりか員数の論理と人間の
多い所に集合する!それが俗世の人
間の本心と言うもので学問など無用!
◆みんな
本物の城郭の先生に本物の城郭遺跡
を見学解説して欲しい!どんな著名
な城に関する人が御当地に来られて
城郭遺跡を確実に調査し捉える事が
できる質実伴う先生の解説が欲しい!
◆田畑氏
ふふふふ本物に近道なし!ありえない
所に要害や砦を構えて敵を迎撃する事
は兵法の常だふふふふ近頃、フエーク
ニユースや、偽情報が町じう蔓延して
偽物が大流行する日本城郭ブームです。
▼イラストに南と表記された矢倉基壇の跡
▼イラストに西と書かれた部分の斜向する土塁
▲土塁が輪を描くように普請されてる。
文字どおり曲輪「くるわ」が存在する。
◆長谷川
甲津原某所に所在する新発見の城は
主郭部の全長が東西30間54.9mです。
土塁は主郭の南西北部にうねる様に
設定されています。その土塁の外郭
の強烈な竪堀群が残存しておりこの
城は西に防御を置いた非常に異形な
形態を示す城郭遺跡と言えましょう。
全国的視野から見れば連続竪堀群の
城と簡単に評価されるような全国区
的な観点からは評価されるべき城郭
で主郭中心部から放射状に連続竪堀
群を縄張りしてる事が読み取れます。
ディフエンス「防御正面」は西に設定
されていますがスゴイ砦の跡ですね!
◆探訪家
長谷川先生この砦の存在する場所を教えて
下さいよ!行きたくてウズウスしますよ!
◆長谷川
自分で城郭を探せるだけの力量歴史地理力
自ら身に着けてください!城の先生は城な
ので城と言う先生は丁寧に親切に城のある
場所を城を勉強しようとする場所へと人を
導いてくれます。城郭目録や城郭観光に載
っている「目録見学者」や「カタログ見学」
の方は既知の城を見学される人で私は城郭
分布調査員だったので分布図に矛盾があれ
ば欠落した部分を調査に行ってるだけの事
野球で言うと、一塁と三塁の図面があれば
「二塁」に相当する砦を調査に行くだけの
単純な事です。極めて素朴な事なのですよ。
◆対談者
貴方の崇拝する城郭の先生は何故?自ら
城郭を新発見されない訳よ?長谷川先生
と山に行くと何故この山に行かれます?
と質問すれば「城がある場所の地理地形
や交通史」勘案すると、ここに城郭があ
るから城郭を調査に行きますと言わます。
◆みんな
チョツト待て!野球の監督は二塁がある
事など当然知ってる訳!城で言うならば
2塁を「新砦」発見できない人とは?
もしかしら野球も城郭も知らない人?
◆長谷川
嫌味を言う事は紳士的城郭道そして
学問の「道」を探す事に反します!
社会とは官民仲良くよりよい学問
を進捗させて行く事が城郭道です。