城郭 長谷川博美 基本記録

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小谷城下の都市計画ビイスタ論

2022-05-21 06:51:15 | 城郭

小谷城下の都市計画ビイスタ論

そして甲津畑「東近江市」新城

 

◆対談者

この投稿最後まで読みましようね!

 

 

◆対談者

長谷川先生の提唱されている城郭ビイスタ論

日本城郭研究史において日本の城や城下を語

る上においても凄く重要な事だと最近痛感し

ています。特に近江守護職佐々木六角氏居城

観音寺城に壮大なビイスタ構造が存在した事

を知り衝撃を受けました。布施淡路丸なども

ちやんとビイスタ工法の様式で作られている。

 

◆対談者

また観音寺城下の石寺など都市計画ランド

スケープ論として非常に秀逸に感じました。

多数の城知識も大切ですが歴史城郭構造を

大観できる大きな視点を供えておられます。

◆対談者

浅井と六角に関してウイッキペディアを引用します

野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年

1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県

彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の

戦国大名浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角

承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、

浅井家の北近江における覇権が確立した。」とあり

北近江の小谷城を根拠とする浅井氏の城郭や城下

にもビイスタ工法が存在したのか御教示ください!

◆長谷川

近江浅井氏の本拠小谷城の大嶽城には見事に

ビイスタ工法を応用した堅固な山城群が存在

致します真に幾何学放射状縄張ビイスタ工法

の典型とさえ言える見事な幾何学の城です!

 

◆一般者

こんな事は誰も教えて呉れないこん

な事は初めて聞き驚いております。

 

◆対談者

始めて聞くとはどんな意味かしら?こんな事

ぐらい学者、城郭研究科なら気付いて当然!

 

◆対談者

さて

永禄13年/元亀元年(1570)
6月21日『信長公記』には


小谷城の「町を焼き払う」

と記録されていますがこの

町屋つまり小谷城の城下町

には都市計画やビイスタ論

が適応出来得るのですか?

 

「たけくらべに一両日御逗留なされ、

六月廿一日、浅井居城大谷(小谷)

へ取寄り、森三左衛門、坂井右近、

斎藤新五、市橋九郎衛門、佐藤六

左衛門、塚本小大膳、不破河内、

丸毛兵庫頭、雲雀山へ取上り、

 

町を焼払ふ。

 

信長公は諸勢を召列れられ、虎御

前山へ御上がりなされ、一夜御陣を

居ゑさせられ、柴田修理、佐久間右

衛門、蜂屋兵庫頭、木下藤吉郎、

丹羽五郎左衛門、江州衆、仰付けられ、

在々所々谷々迄放火候なり」

と『信長公記』に明記されています。

 

◆長谷川

当時の小谷城下の様子は下図のような

城郭関連地名小字名称が残り凡そ小谷

城下がしのばれます。参照して下さい。

 

◆対談者

ダメ!駄目!ダメ!の参列発のダメ出しです!

長谷川さん寝ぼけた戯言を言わないで下さい!

質問は凡庸な知識より前進した具体的幾何学論

で小谷城の城下町には都市計画やビイスタ論が

存在し適応するか?です!ビイスタ工法が存在

したかと質問してる訳ですよ!本町などの地名

だけの文字づらを追う事などは図書館に行けば

誰でも朝飯前に調べられる事?それ新聞の受け

売りと同じ「人から聞いた」事の次元の問題!

 

本物の研究家とは

 

①新しい城を発見する能力を持っている。

 新城を発見出来る歴史地理能力を持つ!

 

②新しい城郭構造論ビイスタ工法を発見。

 新規理論を発見!新研究論を推進する!

 

この2点だと私は常に思っているのです。

もう既に解っている城の縄張図を描いて

も先人の論文を踏襲してもそれ所詮は研

究ではない「物まね」コピー模倣の世界!

長谷川さんは常に新しい城を発見する人。

長谷川さんは常に新しい理論を模索する。

これ学者や研究家の本質真髄を備えてる

事に何故?世間や社会は気付かないの?

小谷城下のビイスタ論を考察して下さい!

 

◆長谷川

そんな難解な事は私ごときが解明できま

せん!私の取柄は引っ込み試案の素朴人!

第一条里制度で言う浅井郡と伊香郡条里

による圃場区画も境目に相当する位置で

特に小谷城下の都市計画論ビイスタ論を

軽々に述べる事は学者として慎むべき事。

 

◆対談者

「喝」です!しつかりせい!天下の安土城

ビイスタ理論を述べた長谷川先生でしょう?

希代の城郭研究家がここで尻込みして何と

します?そもそも男子として生を受けて城に

足を踏み込んだ以上は千里の苦難を走破して

汗血馬の如く、龍馬の如く飛翔するのが男児

たる人の本懐です!難題に挑戦し新発見する

事こそ男児の本懐!城郭道の真骨頂骨です!

 

▼長崎出島ビイスタ論 だれが見てもビイスタ工法は一目瞭然!

▼近江小谷城 城下の小字名称

◆長谷川

確かに小字地名は貴重な城郭関連地名ですが

日本の五大戦国山城と呼ばれる小谷城下都市

計画はアバウト出来合いの無計画性都市景観

と言えないでしょう。天正3年まで羽柴秀吉

は小谷に在城した事は文献『信長公記』にも

明確に記録されています。小谷城下都市計画

町割りは自然地形に制約されながらも浅井氏

は素晴らしい城下経営のビジョン展望計画を

ビイスタ工法を用いて都市計画を営んだ事と

私は考えています。谷間は自然地形なが街区

を形成する明治期の地図を参照に小谷城下の

都市計画「ビイスタ工法」を検討してみます。

◆一般様

これはズバリ素晴らしい小谷城下ビイスタ工法!

北陸と東海を結ぶ北国道の隘路に堂々たる町屋に

戦国城下町をビイスタ工法を用いて城下経営した。

余呉城郭研究会!すげえ!流石に研究会は斬新だ。

◆長谷川

現代地名で言いますと清水谷を主軸とする

中央に★正中線があり当然清水谷の入り口を

防御する水堀跡が過去には存在しました。

郡上を中心とするビイスタ工法や現代小谷

寺方面へのビイスタ工法も読み取れますね。

小谷城下は用意周到に計画された都市計画

が施工されたのでしょう。更に検討します。

★正中線「構造物や建築物を構成する中心線」

◆みんな

長谷川先生は既存の城下の解説も斬新ながら

本当に城郭を研究しておられるから新城をも

発見される例が多いのです。その城は50年後

には城郭見学の場所に取り入りられている事

かと思います。しかし人間の生命に限りあり

学問の発展進捗には常に感情的反論を唱える

類例は人間社会には常に存在すると言えます。

 

◆長谷川

元亀元年(1570年)の

『信長公記』には次の様な記録があります。

「千種峠にて鉄砲打ち申すの事


五月十九日御下りのところ、浅井備前、鯰江の城

へ人数を入れ、市原の郷一揆を催し、通路を止む

べきてだて仕り候。然れども、日野蒲生右兵衛大輔、

布施藤九郎、香津畑の菅六左衛門馳走(奔走)申し、

千種越えにて御下りなされ候。左候のところ、

杉谷善住坊と申す者、佐々木左京大夫承禎にたのまれ

、千種山中道筋に鉄砲を相構へ、つれなく、十二、三間

隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。され

ども、天道昭覧にて、御身に少しづつ打ちかすり

、鰐の口を御のがれ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。」

とあります。

 

◆質問者

長谷川先生と東近江市の速水氏の

甲津畑の城を見学したいと思って

おります。

 

◆反論者

知ってるよ!それ永源寺町の人々なら

誰でも知っている城山の事でしよう?

 

◆対談者

ちょつと待ってください!既存の図書や

既存の観光案内に従って城址を探訪する

事は「カタログ型/目録型」の城郭行動

規範に従属する形骸論とも言えますよ。

甲津畑と速水氏は長い歴史履歴がある。

 

◆長谷川

そうなんです。甲津畑は長い歴史伝統

が残り歴代速水氏は甲津畑の時代に合わ

わせた要所に城郭を構えて変遷してきた

可能性があります。江戸時代の柳生陣屋

の裏山には中世の山城柳生城があるよう

にね、元亀の争乱の折に、織田信長は

岐阜への帰路を佐々木六角と浅井氏に

阻止され、布施氏や速水氏の先導にて

無事岐阜へと帰還しています。信長が

着目する近江の武将は非凡な築城能力

を持ち合わせていたと私は考えてます。

従って従来の城山だけでは速水氏築城

術を知る事は出来ません。信長は武将

の持つ人材を看破洞察して登用する事

関し優れた人傑にして、甲津畑の城山

だけ見て速水氏の能力は評価出来ない。

 

◆反論者

ふん!もう甲津畑には特異な構造を持つ

山城なんぞは絶対無いに決まってます!

 

◆みんな

何故決めつけるの?確認してから無いと

と答えなさいよ!それが常道で誠意的と

言うものでしょう?否定の言葉なら誰で

も出来るわ!新しく城塞を発見する事の

法が100倍も難しく困難を伴う事でしょ?

 

◆長谷川

私の城郭の先生は現地の城郭です先生

は辛辣なほどに厳しくお前には甲津畑

の隠し城など到底読み取る事は不可能

だと新しい城郭遺跡を発見してこそ本

物の歴史地理を知る城郭の研究者だと

甲津畑の地形地理や交通史も含めて厳

しく城郭自体が私に問い掛けて来ます。

 

◆反論者

ふん!長谷川ごときが甲津畑に新城

を発見したら仰天するわ!しかし俺

俺は学問よりか員数の論理と人間の

多い所に集合する!それが俗世の人

間の本心と言うもので学問など無用!

 

◆みんな

本物の城郭の先生に本物の城郭遺跡

を見学解説して欲しい!どんな著名

な城に関する人が御当地に来られて

城郭遺跡を確実に調査し捉える事が

できる質実伴う先生の解説が欲しい!

 

◆田畑氏

ふふふふ本物に近道なし!ありえない

所に要害や砦を構えて敵を迎撃する事

は兵法の常だふふふふ近頃、フエーク

ニユースや、偽情報が町じう蔓延して

偽物が大流行する日本城郭ブームです。

▼イラストに南と表記された矢倉基壇の跡

▼イラストに西と書かれた部分の斜向する土塁

▲土塁が輪を描くように普請されてる。

文字どおり曲輪「くるわ」が存在する。

 

◆長谷川

甲津原某所に所在する新発見の城は

主郭部の全長が東西30間54.9mです。

土塁は主郭の南西北部にうねる様に

設定されています。その土塁の外郭

の強烈な竪堀群が残存しておりこの

城は西に防御を置いた非常に異形な

形態を示す城郭遺跡と言えましょう。

全国的視野から見れば連続竪堀群の

城と簡単に評価されるような全国区

的な観点からは評価されるべき城郭

で主郭中心部から放射状に連続竪堀

群を縄張りしてる事が読み取れます。

ディフエンス「防御正面」は西に設定

されていますがスゴイ砦の跡ですね!

◆探訪家

長谷川先生この砦の存在する場所を教えて

下さいよ!行きたくてウズウスしますよ!

 

◆長谷川

自分で城郭を探せるだけの力量歴史地理力

自ら身に着けてください!城の先生は城な

ので城と言う先生は丁寧に親切に城のある

場所を城を勉強しようとする場所へと人を

導いてくれます。城郭目録や城郭観光に載

っている「目録見学者」や「カタログ見学」

の方は既知の城を見学される人で私は城郭

分布調査員だったので分布図に矛盾があれ

ば欠落した部分を調査に行ってるだけの事

野球で言うと、一塁と三塁の図面があれば

「二塁」に相当する砦を調査に行くだけの

単純な事です。極めて素朴な事なのですよ。

 

◆対談者

貴方の崇拝する城郭の先生は何故?自ら

城郭を新発見されない訳よ?長谷川先生

と山に行くと何故この山に行かれます?

と質問すれば「城がある場所の地理地形

や交通史」勘案すると、ここに城郭があ

るから城郭を調査に行きますと言わます。

 

◆みんな

チョツト待て!野球の監督は二塁がある

事など当然知ってる訳!城で言うならば

2塁を「新砦」発見できない人とは?

もしかしら野球も城郭も知らない人?

 

◆長谷川

嫌味を言う事は紳士的城郭道そして

学問の「道」を探す事に反します!

社会とは官民仲良くよりよい学問

を進捗させて行く事が城郭道です。


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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2022-05-05 16:08:26
こんな竪堀を多用した謎の城塞が近江にあるなんて驚きます。また調査に行って一発で古城を発見される城郭分布学の技量の高さにも改めて驚きます。私など常に文字で登録された城や砦を見学してますのでどうして何故?新発見できるのか本当に不思議に感じてしまいます。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2022-05-05 16:09:41
基本に忠実に城を調査しています。
返信する

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