城郭 長谷川博美 基本記録

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驚愕!安土城驚異の縄張の深層1!深淵!新視点!

2021-10-18 08:46:40 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
▲城郭ビイスタ論クリック

★★待望城郭ビイスタ論講座登場★★
題目 城郭幾何学論/城郭ビイスタ論
講師 歴史城郭研究家 長谷川博美
様式 パワーポイント解説講座
日時 令和3年11月25日木曜
場所 米原市下多良三丁目3番地
施設 米原まなびあいステーシヨン
旧称 米原公民館
交通 米原駅西口より徒歩5分
   米原ジヤンクションより車で約10分
予約 ☎  0749-52-2240
費用 500円

★丁張りとは 丁張り(遣り方)とは、
「建物を建てるために施工する、基準と
なる仮設工作作業」
▲城郭ビイスタ論クリック
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五段階で★★★★★星5

驚愕!安土城の縄張の深層1!深淵!新視点!
※この記事の楽しみ方は女性は昔
糸であやとりをした事、男性は陣
取りをした事を思い出し読まれる
と楽しいと思います。縄張って何
だっけ?固く考えずに柔らかく考
える事をお勧め致します。
質問者
本論の趣旨や根幹とは何か?

長谷川
1、普請と作事の分業 
※普請土木と作事建築は別分野
2 城郭縄張と縄打の現実
3 天正4年安土城創建時の測量法考察
4 論説ではなく現実の検討と考察

◆質問者
文献『信長公記』に記された安土城の
普請奉行は?

◆長谷川
天正4年起工時『信長公記』の記録には
「天正四年丙子 安土御普請の事」と
表題が附されており建築ではなく普請

「巻九
太田和泉守これを綴る
天正四年丙子
安土御普請の事
正月中旬より江州安土山御普請、
惟住五郎左衛門に仰せつけらる。」

とあり天正4年正月中旬に惟住五郎左衛門
「丹羽長秀」に織田信長は普請を指示する。
★ただし丹羽長秀を普請奉行とは記さない。

◆質問者
織田信長が安土に住んだ正式な記録とは?

◆長谷川
「二月廿三日、安土に至つて、信長、御座
を移され、先づ、御普請、御意に相、
御褒美として、御名物の周光茶碗、五郎左
衛門に下さる。黍き次第なり。御馬廻、
御山下に各御屋敷下され、面面、手前手前
の普請申しつけらる。」

とあり同年2月23日に御座を移し移住する。

◆質問者
本格的に石垣普請が開始された時期とは?

◆長谷川
『公記』には
「四月朔日より、当山大石を以て、御構への
方に石垣を築かれ、又、其の内には天主を
仰せつけらるぺきの旨にて」

とあり4月1日から本格的に石垣工事が開始
され、最初から天主を築いたのでなく途中
で天主を上げる事を信長は指示している。
従って本論に登場する安土城の石垣線の
基本線「縄打線」は天主礎石腺と趣きの
異なる石垣線を見せている。文献の解釈に
もよるが信長の性癖「きまぐれ」で天主が
途中から計画されたのかは判然としないが
天台の歪んだ形状や天主礎石群の不一致や
あまりにも整合性の無さは城郭普請と楼閣
作事の齟齬や分業体制を現すものなのか?
また下図は昭和15年段階のものである事も
注意が必要である。


◆質問者
築城に従事した当時の武士や職人の様子は?

◆長谷川
『公記』同年に
「尾・濃・勢・三越・若州・畿内の諸侍、
京都・奈良・堺の大工・諸職人など召し
寄せられ、在安土仕り侯て、瓦焼唐人の
一観相添へられ、唐様に仰せつけらる。」
とあり

尾張、美濃、伊勢、三河、越前、畿内、
京都、奈良、堺等から職人を招集している事、
特に中国人瓦焼「一観」まで招き中国風に瓦
をする事を信長は指示している。

◆質問者
城郭石垣を採取した奉行は存在したか?

◆長谷川
『公記』同年に
「石奉行、西尾小左衛門、小沢六郎三郎、
吉田平内」とある。

◆質問者
『公記』同年にの安土山御天主の次第で
普請奉行の氏名が記されているか?

◆長谷川
「御大工、岡部又右衛門。漆師首刑部。
白金屋の御大工、宮内遊左衛門
。瓦、唐人の一観に仰せつけられ、
奈良衆焼き申すなり。
御普請奉行、森三左衛門。」

とあり安土山御天主の次第においては

御大工、岡部又右衛門とあり。
御普請奉行、森三左衛門は重要。

◆長谷川
しかし信長家臣、森三左衛門は元亀年間に近江
志賀郡で父も兄も打死にしてお、森長可の誤記
の可能性がある事に注意したい。

◆長谷川
安土城の天主台や小櫓は多数が何故不整形なのか?
何故故意に?不整形な城郭を造る必要があるのか?
安土城の縄張研究こそ日本城郭史上最大の研究盲点。

◆一般者
安土山の自然地形に合わせて城郭を普請している事
古くから城郭史で解説されている常識でこれが正論。


◆長谷川
世の中には「常識の嘘」や「固定概念」と呼ばれる
最初に安土城の縄張り説明を受けた時の記憶が脳内
に永久に残る現象、一般民衆の多くが初期学習記憶
と呼ばれる「固定概念」に捉われてる事を指摘する。

◆一般者
私には全ての石垣が偶然性を伴って安土の自然地形
に合せた縄張としか認識出来ない。自然地形としか。

◆長谷川
「論」ではなく、「実」と言う、現実を認識する事
が重要と思う。絶対に四角矩形であると確信してた
遺構が実は何度計測しても不等辺である事が現実。


◆長谷川
論者は「論」に執着し、現場は「現実」を重視する。
天正4年より創築記現実図面は90度直角を基調とする
石垣遺構が少ない。90度の矩形空間を有する安土城の
「織田信長公本廟」は天正13年(1585年)に秀吉に
より建設された後世の石組遺構で注意が必要と言える。

◆一般者
しかしこの現実は規則正しい矩形の四角の櫓「矢倉」
が石垣の天端と建築物の間に隙間「スキマ」が発生
し縄張と普請の齟齬「ズレ」を補う腰屋根と言われ
る設備が必要である。その一例を証明する一例とは?

◆長谷川
この安土城図とユンゲの安土城屏風を模写したとする
版画を如何に解釈するか?絵画の右には、2層の櫓が
中央には石段と奈良地方で見かける錣「しころ葺き」
とよばれる瓦葺きの櫓門が見え『信長公記』にも唐人
一観に唐風に瓦を担当させ奈良衆焼き申すと記録が
ある。また下図には普請と呼ばれる石垣普請の工事
と作事と呼ばれる普請奉行と作事奉行の齟齬を回避し
て城郭建築を雨漏りによる建物腐食を回避する為の
施設「腰屋根」が大きく張り巡らされており城郭建築
を恒常的に使用せんと企図した様相が絵画から読み
取れる。間口が狭く、奥行きのある歪▼な櫓台に注目。


◆一般者
  この様な城は近世城郭に照らし合わせて見ても
あまりに異形の姿と思われる。織田信長と言う人格
が異形異風を好む、人間とするならば肯定できる。

◆長谷川
縄張は本丸二ノ丸三の丸などの配置に使われる設計
現代城郭史は縄張を城郭の郭配置のみとし固執して
城郭縄張のベーシックなプラニング設計や基本線は
語られ注目される事は稀である。そもそも地形拘束
されない縄打と言う世界が学会や一般の人々に認知
されていない事にも喚起が必要で実際に縄打ち丁張
や城郭の測量は伝統的に実施されいて日本の文化と
言える。
◆一般者
放射状測量法を用い施されたられた中世城郭を
長谷川氏は実践的に体験された事かあるのか?

◆長谷川
永禄末の近江佐々木六角方の和田山城跡の実際
の城郭遺構り現場で体験した。
▼和田山城、遺構イラスト図、長谷川博美
▼和田山城、遺構縄張図、長谷川博美
▼和田山城、遺構縄打図、長谷川博美
◆一般者
そもそも縄打なる文言は何れの文献に
使われているのか?

◆長谷川
『築城記』縄打の文言が記録されている。
また犬走の文言も明確に記されている。

◆一般者
安土城の天主など
わざわざ不整形八角形の建物を建てる事が不可解?

◆長谷川
三角測量、多角測量、三辺測量、などが安土城に
介在したのか今後、研究研究されるべきだと思う。

◆一般者
では三辺を観察しながら安土城が普請計測
された痕跡を長谷川氏に解説を願いたい。

◆長谷川
1、2、3、4、5、の石垣の直線が存在する。
別線で
7、8、9の石垣線が存在しA点に集結する。
また
別線で10、11、12、13、14の石垣が存在。
A点の延長線上にある、B点が推測可能。
また別線で
15、16、17、18と石垣線が存在する
但し19の上は、現況を変形させ昭和に復元
した石垣線で是を本論で★採用は出来ない。
また別線で
20、21、22、23の石垣線が存在する。
両線は終結してC点を求める事が出来る。
また伝台所郭の石垣24。伝天守取り附台
の枡形石垣の25、26を貫通して27の横矢
石垣を貫通する線が復元できる。
また伝八角平の25から順次26、27、28は
北東虎口、29は天主鈍角隅石垣「シノギ」
伝本丸南部石塁の歪30へと貫通する線が
復元可能であり集結点Dを求める事が可能。
◆長谷川
更に縄張線、縄打線の検討を進める。
一見整然と矩形を形成すると思われる
伝黒金門多聞櫓も詳細に観察すると
現実には歪である。
それは44、45、46、47、48の線と
49、50の線が図のF点で
集結している事で解る。
また51、52、53、54と
55、56、57の集結点は図面左側のE点
があり伝金門左の隅櫓は正方形ではなく
歪な不整形をなしている。
◆長谷川
更に縄張線、縄打線の検討を進める。
58、59そして図面右Eへの集結点。
また63、64、65、67からEに続く線。
また27、28の右、62、61、同じく図
面右側のEへと集結する線もある。
特に図面右のE点からN点へは天主建物
礎石配置の配置「南北」を通過する中心
線となっている。勿論天主石垣と天主礎
石は普請と作事の作業の別を表わすもの
◆一般者
佐和山城址で東西にわたる縄打線を模索
されたが安土城においても東西の縄張り
縄打線を模索願いたい。

◆長谷川
試論的に縄張線、縄打線を模索を試みる。
▼先ず1、2、3、4、5、6と縄打線が存在する。
線上にA点、B点を仮定する。次に
A点より8、9、10、11、12、13と縄打線を復元する。
◆長谷川
2、3
8、9
の囲いは桝形「たまり」である事が理解出来
るが各内角が90度示す、近世枡形とは異なる
歪な形状である事が解る、これは自然地形に
従ったものではなく縄打線、縄張り線に従属
した為と私は推測する。

◆長谷川
更に、縄打線、縄張線を模索する。
23、22、21、19、12、集結点Bを求める
事が出来る。
あ更に20、19、18の線を求める事が出来る。
い更に24、11
う更に15、10、16の線を求める事が出来る。
あ、い、うの線は集結点Cを求める事が出来る。
◆長谷川
更に、縄打線、縄張線を模索する。
A点から25の点が求められる。
25からは26、14、27の線が求められる。
図面の左Eから28、29の線が求められる。
D点からは31、32、33、34、35の経線
が求められE、D、C、経線も存在する。
◆長谷川
織田信長の安土城の築城を手伝った人物に羽柴筑前守
秀吉が『信長公記』に記されているが、彼は織田政権
の信長の遺志を踏襲するかの如く太閤秀吉となり肥前
に名古屋城をビイスタ工法を用いて築城している。

◆長谷川
織田信長豊臣秀吉の築城にともなう測量技術と検地
検地=正確な築城に伴う測量技術の獲得と発展は
織田信長の天正の石直し や慶長の豊臣秀吉の太閤
検地 (たいこうけんち)へと相関関係があります。
で実施した 検地 ( 田畑 (山林は除く)の 測量 及
び収穫量調査)。 天正の石直し 、 文禄の検地 いう。
 領主が自領内に課税する為に基礎資料として領内の
 織田信長 も検地を実施していて(信長検地 と呼ぶ
 )が、奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)も
すでに実務を担当していたことが知られています。

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4 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-10-19 05:15:11
日本城郭研究史において安土城は画期的な城郭、その画期的な城郭の縄張設計を幾何学測量的視点で解明しようと試みた稀代の城郭分析理論だと思います。城郭ピイスタ論の動画は城郭愛好家必見の動画であり日本史の多くの遺跡見学視点を深く洞察示唆した内容だと思います。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2021-10-18 21:19:39
宜しく御願い申し上げます。
返信する
Unknown (のび太)
2021-10-18 10:00:33
これは特に聴きたいですね。確か開始は10時からだったかと。何とか予定を調整してみます(無理かも)。
返信する
善いねに感謝 (長谷川博美)
2019-11-18 16:01:10
現代は講師に
招かれるも
真ねかれないのも
良いねの数、次第
とも一説に聞いて
おります。
一名様には熱心に
当ブログをお読み
頂き感謝致します。
返信する

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