関東八王子城 関西安土城 ビイスタ工法論
関連リンク記事は青文字クリツク
驚愕!誰も知らない城の裏歴史 革新的ビイスタ工法論! - 城郭 長谷川博美 基本記録
驚愕!誰も知らない城の裏歴史革新的ビイスタ工法論!◆みんなが感じる投稿の感想1環濠都市堺のビイスタ工法縄張に驚愕!2松本城本丸ビイスタ工法の深淵に脱帽!3藤原京安土...
goo blog
◆一般者
長谷川先生の城郭幾何学理論
城郭ビイスタ論動画が根強い
人気があり視聴数5741と注目
◆質問者
何故そんなに視聴数があるの?
是非その理由を御教示下さい!
◆長谷川
城の縄張は普請奉行が担当する
城の建物は作事奉行大工が担当
両者の持ち場と担当が異なる事
安土城の建築支えていた礎石列
碁盤目グリッド腺を用いて配列
しています。しかし天主台歪な
形状をしています。これは以前
述べた如く縄張術に起因するも
です。普請と作事は互いに受け
入れてない現実が存在してます。
◆長谷川
一方石垣の配列レイアウ
つまり縄張はビイスタ腺
により設計されていると
言えます。また礎石群は
礎石でビイスタの配列を
考慮した殿舎配置です。
▼安土城 扇型ビイスタ論
◆みんな
本当だ!石垣と礎石列は
直截リンクしていないな!
◆関東様
東国の城で礎石配列と
城郭縄張が著しく不一
致な類例を教えて下さい。
◆長谷川
後北条の八王子城の山麓
居館は「御主殿」の建物配列
は四角い建物を雁行状に配列
した雁行様式配列の建物です。
それに対して主殿へと導く路
は導入経路として曲折を繰り
返しています。北条氏照居館
の周囲の形状も正方形でなく
これは縄張を施した普請だと
私は思います。
▼八王子城御主殿
◆反論者
おうおうおう!まさか八王子
城の御主殿の石段や導入路が
まさかオマエが勝手にホザク
城郭ビイスタ工法じやあ絶対
ねえはずだ俺様は城郭幾何学
論ビイスタ工法なんざあ絶対
に認めねえぜ!
◆対談者
あなたが認めなくてももう既
に賢い人達は城郭ビイスタを
知っておられます。今後城を
見る時や 城を考える時には
絶対見落とす事ができない事
か゛城郭ビイスタ論なのです。
◆長谷川
クサビ形ビイスタ工法が読み
取れます。 ▼あしだ郭より
◆長谷川
重複型ビイスタも読み取れ
ます。赤と緑の腺が該当!
◆みんな
見事だ!専門家はスゴイよ!
◆質問者
御主殿に向けて掛けられた
架け橋はどの様に縄張設計
されていますか?
◆長谷川
簡単に解ります
緑色の腺放射状
に縄張してます。
◆みんな
すげえ!
◆長谷川
八王子城御主殿ABCDと様々な
ビイスタ工法使っております。
◆質問者
会所屋敷地は正方形でない
し、Wビイスタの様な工法
は使っていますか?
◆長谷川
使ってますよ見事な展望の
ビイスタ工法と言えますね!
二見の発想ともいえますか?
◆長谷川
庭園石組組や池もビイスタ
工法を使っています。
◆質問者
八王子城からはベネチアンレース
グラスの破片も出ています。庭園
や礎石上方風の殿舎も想定されて
北条氏照は織田家とも交流が存在
したのでは?
北条氏照
ウイッキペデイアより引用
天正7年(1579年)、甲相同盟が手切りとなると、
北条氏は織田信長、徳川家康との同盟交渉を開始
し、9月11日には氏照の使者が信長の本拠安土城
到着している[28]。 天正8年(1580年)には
織田氏に従属の表明と氏政の言上を伝えるため
に本家の宿老笠原康明と氏照宿老の間宮綱信を
派遣し、3月10日信長に謁見している。この年
の5月15日に氏照は甲斐西原に侵攻している[注釈 5]。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長が
死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直
らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣
滝川一益を破って北条領を拡大した(神流川の戦い)。
信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ
甲斐国や信濃国に侵攻した(天正壬午の乱)。
その後、天正12年(1584年)から天正15年
(1587年)の間には本拠を滝山城から八王子城に
移している[34]。
◆長谷川
八王子城は庭園の存在もあり
城の縄張も上方の影響を受け
たものと思われます。当時の
著名茶人として山上宗二なる
人物も北条幻庵に仕えてます。
▼八王子城山麓ビイスタ
▼八王子城山城部ビイスタ
ウイッキペデイア 茶人 山上宗二
千利休に20年間茶の湯を学んだ高弟であり、利休に同行
して茶会に出席している様子が当時の茶会記から確認さ
れる。茶匠としては豊臣秀吉に仕えていた。織田信長に
も仕えたという説もある。天正12年(1584年)に理非
曲直の発言で秀吉の怒りを買い、浪人する。この後に
前田利家に仕えるようになるが、天正14年(1586年)
にも再び秀吉を怒らせたため高野山へ逃れ、天正16年
(1588年)頃から自筆の秘伝書『山上宗二記』[1]の写本
を諸方に授けている。その後は小田原に下って北条氏に
仕えた。天正18年(1590年)の秀吉による北条氏攻め、
いわゆる「小田原征伐」の際には当初、小田原城に籠城
する北条勢と共にあったが、包囲が始まって数日後の
4月8日、茶道を通して交友があった皆川広照が手勢と共
に城を抜けて秀吉の包囲軍に投降する際、宗二も同行
した。4月10日に利休の仲裁により秀吉との面会が叶った。
秀吉は宗二を赦免し再登用しようとしたが、茶席において
仕えていた亡き北条幻庵に義理立てしたため秀吉の怒り
を買ったとされ、耳と鼻を削がれた上で打ち首にされた。
享年46。箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。
茶道史においては、天正年間の堺衆の茶の湯の基本史料
となっている『山上宗二記』(その茶湯者覚悟十躰に
「一期に一度」とある)の筆者として重要である。ただ
利休の急激な侘びへの傾斜には戸惑いを隠さず
「山を谷、西を東と茶湯の法度を破り、物を自由にす」
と批判とも取れる見解を書き残している。著書は、他に
『茶器名物集』『茶の湯珍書』などがある。