機能から本格的花粉症シーズンの到来と嘆いてますが、きょうはさらに振興しました。
朝の目覚めが鼻づまりと鼻水によるものだったのです。
一日のうちで花粉が多く飛散する時間帯の一つが朝方だたというのはどこかで読んだ気がします。朝といえば、当然の事ながら家のドアは閉めっぱなしで、花粉が住宅の中に入る条件はないはずなのですが、それでもどこからともなく入って、鼻腔内に作用するんです。
今朝、鼻づまりと鼻水の症状が強まったのは、この結果です。そしてこの症状は、花粉症が深刻になる兆しでもあるわけです。
そんなわけで、今日は一日マスクを着用していました。目のゴロゴロ感は防ぎようがないので、抗アレルギーの作用がある目薬で対処するしかありません。
朝の愛犬の散歩から帰って以降、きょうの一日は基本的に質問原稿の作成と質疑の検討です。その合間に、植田公民館まつりの一環として開かれた「平和のための勿来の戦争展」で公演した、山口紀美子さんの講演を聴いてきました。
山口さんは、1984年に吉野せい賞奨励賞、2001年に同賞正賞受賞したノンフィクション作家で、「奪われた若き命ー戦犯刑死した学徒兵・木村久夫の一生」(幻冬舎刊)を上梓しています。
今日の講演はこの木村久夫さんにかかわるものでした。
山口さんと故木村久夫さんの出会いは、岩波文庫の戦没学徒兵の遺書集「きけわだつみのこえ」。そこに掲載された木村さんの遺書に心をひかれ、遺族と連絡をとって交流を始めて22年、この間に関係者や場所を訪ねて取材を続け、この本を書き上げたことを紹介しました。
木村さんは、大阪に生まれた読書好きな青年だったという。
体が弱かったこともあり尋常小学校5年生まで学校に行かず、自宅に届く本を読んで学んでいたという。英語に堪能で経済学に深く浸透していた木村さんは、やがて旧制の高知高校(現、高知大学)から京都大学経済学部に進学。半年余りがすぎた10月1日に徴兵され入隊し、結核のため陸軍の病院に1年程入院した後、インド洋のカーニコバル島に送られ、ここで通訳として活動したことが災いし、戦犯として逮捕・刑死したのだといいます。
山口さんは、彼が平和に傾倒し、軍事教練にも熱心ではなかったことを紹介しながら、戦犯とされたのは、一つは敗戦後、現地の軍幹部がイギリス軍が行う裁判に対して何も語らないという対策を講じたために指揮命令系統が明らかにならず行為そのものが問題にされ、住民に接する期会が多かったことが災いしたこと、二つにこうした判断がされたのは戦後早い時期の裁判だったことなどに原因があっただろうと語りました。
また、彼の死刑が決まった後に担当した教誨師は、彼が「一冊の本も持てなくて死んでいくのは残念」と死の直前まで学ぶことに渇望していた「立派な人物」で、「悔いはいわない。僕は何も悪いことをしていない」と話していたと証言していたことを紹介しました。
彼が学ぼうと購入した書物450冊は高知大学に木村文庫として保管されており、彼が読んだ本の余白にはびっしりと書き込みが残っているといいます。また、遺書も本の余白に書かれていたものだったといいます。
お話しを聞く中で木村久夫さんという人物にとても興味が湧いてきました。山口さんの本はすでに購入しているので、時間を見つけ、ぜひ読まなければと思っています。
しかし、こうした悲劇を生み出す戦争の愚を犯す日本になってはならないとあらためて強く感じました。
さて朝の散歩の時に、エナガにまた近くで遭遇しました。ご近所の庭木で何かをついばんでいました。
ジョウビタキもいます。オスですね。
午後、遠野町滝の河原にはキジバトが、カワラヒワといっしょに何かをついばんでいました。
そういえば、今朝の散歩は少し遅めで、太陽がすっかり空に浮かんでいました。
その太陽の様子から見ると、山の陰から太陽が昇る時に立派な太陽柱(サンピラー)が立ったのではないか思われました。遅い散歩が少し悔やまれます。
朝の目覚めが鼻づまりと鼻水によるものだったのです。
一日のうちで花粉が多く飛散する時間帯の一つが朝方だたというのはどこかで読んだ気がします。朝といえば、当然の事ながら家のドアは閉めっぱなしで、花粉が住宅の中に入る条件はないはずなのですが、それでもどこからともなく入って、鼻腔内に作用するんです。
今朝、鼻づまりと鼻水の症状が強まったのは、この結果です。そしてこの症状は、花粉症が深刻になる兆しでもあるわけです。
そんなわけで、今日は一日マスクを着用していました。目のゴロゴロ感は防ぎようがないので、抗アレルギーの作用がある目薬で対処するしかありません。
朝の愛犬の散歩から帰って以降、きょうの一日は基本的に質問原稿の作成と質疑の検討です。その合間に、植田公民館まつりの一環として開かれた「平和のための勿来の戦争展」で公演した、山口紀美子さんの講演を聴いてきました。
山口さんは、1984年に吉野せい賞奨励賞、2001年に同賞正賞受賞したノンフィクション作家で、「奪われた若き命ー戦犯刑死した学徒兵・木村久夫の一生」(幻冬舎刊)を上梓しています。
今日の講演はこの木村久夫さんにかかわるものでした。
山口さんと故木村久夫さんの出会いは、岩波文庫の戦没学徒兵の遺書集「きけわだつみのこえ」。そこに掲載された木村さんの遺書に心をひかれ、遺族と連絡をとって交流を始めて22年、この間に関係者や場所を訪ねて取材を続け、この本を書き上げたことを紹介しました。
木村さんは、大阪に生まれた読書好きな青年だったという。
体が弱かったこともあり尋常小学校5年生まで学校に行かず、自宅に届く本を読んで学んでいたという。英語に堪能で経済学に深く浸透していた木村さんは、やがて旧制の高知高校(現、高知大学)から京都大学経済学部に進学。半年余りがすぎた10月1日に徴兵され入隊し、結核のため陸軍の病院に1年程入院した後、インド洋のカーニコバル島に送られ、ここで通訳として活動したことが災いし、戦犯として逮捕・刑死したのだといいます。
山口さんは、彼が平和に傾倒し、軍事教練にも熱心ではなかったことを紹介しながら、戦犯とされたのは、一つは敗戦後、現地の軍幹部がイギリス軍が行う裁判に対して何も語らないという対策を講じたために指揮命令系統が明らかにならず行為そのものが問題にされ、住民に接する期会が多かったことが災いしたこと、二つにこうした判断がされたのは戦後早い時期の裁判だったことなどに原因があっただろうと語りました。
また、彼の死刑が決まった後に担当した教誨師は、彼が「一冊の本も持てなくて死んでいくのは残念」と死の直前まで学ぶことに渇望していた「立派な人物」で、「悔いはいわない。僕は何も悪いことをしていない」と話していたと証言していたことを紹介しました。
彼が学ぼうと購入した書物450冊は高知大学に木村文庫として保管されており、彼が読んだ本の余白にはびっしりと書き込みが残っているといいます。また、遺書も本の余白に書かれていたものだったといいます。
お話しを聞く中で木村久夫さんという人物にとても興味が湧いてきました。山口さんの本はすでに購入しているので、時間を見つけ、ぜひ読まなければと思っています。
しかし、こうした悲劇を生み出す戦争の愚を犯す日本になってはならないとあらためて強く感じました。
さて朝の散歩の時に、エナガにまた近くで遭遇しました。ご近所の庭木で何かをついばんでいました。
背中から見るとこんな感じです
ジョウビタキもいます。オスですね。
午後、遠野町滝の河原にはキジバトが、カワラヒワといっしょに何かをついばんでいました。
そういえば、今朝の散歩は少し遅めで、太陽がすっかり空に浮かんでいました。
その太陽の様子から見ると、山の陰から太陽が昇る時に立派な太陽柱(サンピラー)が立ったのではないか思われました。遅い散歩が少し悔やまれます。
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